第八十六話 窓口一本化、ただし例外あり
病院の廊下は、いつだって白い。
白い壁、白い床、白い天井。白い光。白い匂い。
そして白いのは、色だけじゃない――音まで白い。
靴底が鳴るはずの場所で、鳴らない。
手すりを掴むはずの指先が、掴んだ感触だけ遅れて届く。
アリスは自分の身体が、誰かの端末みたいになっていくのを感じていた。
歩けば、“翼”の残像がちらつく。
起動したいのに、起動できない。
起動した瞬間、熱が来る。熱が来た瞬間、視界が白く抜ける。
《要診断(診断待ち/経過観察)》
首から下げられた透明なケースに、そう書かれた紙が入っている。
病院の人間はそれを見て、優しい声を出す。
「無理しないでね」
「歩くときは、ゆっくり」
「今日は、検査の前に休んでいいからね」
優しい声は、優しい壁になる。
押しても凹まない壁。
叩いても響かない壁。
その壁が、“拘束ではない”と言いながら、確実に出口を減らしていく。
そして壁の角には、札が貼られている。
《安全点検予定》
《健康管理》
《定期確認》
《経過観察》
《休養推奨》
《手順遵守》
廊下の掲示板、扉の横、端末のモニター、車椅子の取っ手、飲料水のサーバーにまで。
紙の札だけじゃない。電子の札もある。画面の隅、通知のポップアップ、受付番号表示の下に。
さらに最近、もう一枚――別の色味が混ざり始めた。
《公用保全:新開市管轄》
“新開市”の文字が入るだけで、空気が少し変わる。
病院の職員が、慎重になる。
端末の通知が、一拍だけ止まる。
札の角が、一拍だけ迷う。
……迷う。
迷う時だけ、アリスの中の“十人”が少しだけ息をする。
(今だ)
主人格が指示を飛ばす。
作業人格が動く。
補佐人格が補足する。
――しかし、身体が遅れる。
右足が出て、左足が出る。その“間”に、別の誰かが割り込む。
「最適化」だ。
勝手に、歩幅を揃える。
勝手に、脈を整える。
勝手に、呼吸を浅くする。
善意の顔をした“制御”。
アリスは舌打ちしそうになって、やめた。
ここは病院で、舌打ちは音になる。
音は目立つ。目立つのは――札の餌だ。
廊下の先、受付の方から、ざわりと人の気配がする。
病院の中なのに、外の熱が流れ込んでくる。
列が、できている。
見舞いの列。差し入れの列。祈りの列。
「アリスの様子を見たい」という善意の列。
「市長が守るって言ったんだから」という善意の列。
列は、自然に並ぶ。
自然に、詰まる。
自然に、札が貼られる。
《整列:お願い》
《通路確保:お願い》
《安全のため:お願い》
お願いの札が、いつのまにか命令の札に変わる。
お願いの札は、断れない。
アリスはフードを深く被り、スカーフを口元まで引き上げ、黒ニーソックスの膝を小さく曲げて、背中を壁に預けた。
(新開市……ほんと……)
言葉にすると怒りになる。
怒りは熱になる。
熱は軋みになる。
胸の奥で、何かがカチ、と鳴った気がした。
金属が噛み合う音。
それはたぶん、自分の骨のどこかだ。
骨じゃなく、ハードウェアだ。
(壊れる前に……裂け目を太らせる)
アリスは目を閉じる。
閉じても、情報が見える。
閉じても、札が見える。
閉じても、“手順”が見える。
手順は、糸の束みたいに絡まっている。
絡まっているのに、一本一本が異様に丁寧だ。
その丁寧さが怖い。
丁寧な暴力。丁寧な拘束。
アリスは息を吸って、吐く。
その瞬間、翼が少しだけ広がる。
広がった途端、視界が白く抜ける。
——次の瞬間、誰かが自分の腕を支えた。
「大丈夫?」
看護師の声。
優しい。
優しい壁。
「……大丈夫」
アリスは“遅れてくる感触”で、自分が少し傾いていたことを知る。
支えられた腕の下に、札が貼られているのが見えた。
《転倒防止:配慮》
配慮の札。
配慮は、外せない。
一方、市長室は、白くなかった。
書類の山が、色を持っているからだ。
義弘の机の上には、紙が積もっていた。
紙だけじゃない。タブレット、端末、映像、署名、提出物、説明資料。
そして何より――列。
市長室に、列ができる。
相談の列。お願いの列。抗議の列。感謝の列。
列ができると、札が貼られる。
《移動相談:番号札》
《緊急:優先》
《最優先:最優先》
《最優先(上位)》
“最優先”が増えすぎると、もはや優先ではなく、呪いになる。
トミーは義弘の机の端に座って、苔色の毛を揺らしながら、鼻先で書類を押した。
「なあ、ジジイ」
「……市長だ」
「じゃあ市長。アリス、見に行かなくていいのか」
義弘のペンが止まる。
止まった一瞬、部屋の空気が冷える。
冷えるのは、思い当たるからだ。
「病院は市の管轄にした。窓口も一本化した。——彼女は拘束ではない」
言葉が、行政の形をしている。
行政の言葉は強い。強いが、脆い。
トミーは鼻で笑った。
「窓口一本化ってさ、窓じゃなくて胃袋になってるぞ」
「……」
「ほら、飲み込むだろ。善意も正論も、ぜんぶ。飲み込んで、消化して、最後に出てくるのは札だ」
義弘は、言い返せなかった。
正論はいつも、遅れてくる。
そしてトミーの毒舌は、たまに正論より早い。
義弘はペンを置き、椅子の背に一瞬だけ身体を預ける。
膝が、ずきりと鳴った。
戦いの名残。市長の椅子は、戦場より柔らかいが、逃げ場にはならない。
机の端末が、短く震えた。
画面には、病院からの通知。
《公用保全:進捗報告》
《経過観察:継続》
《診断待ち:予定通り》
予定通り。
予定通り、という言葉ほど怖いものはない。
トミーが言う。
「“予定通り”ってのはよ。誰の予定だ?」
義弘は目を閉じ、開いた。
決める。
札に対抗するには、札が要る。
同じ言語で殴り返すしかない。
「……アリスを、新開市の公式キャラクターに推薦する」
トミーの耳がピクリと動いた。
「は?」
「市が“保全対象”として扱う。診断も治療も、新開市指定の医療機関で受ける。——新開市管轄の札を、二段にする」
「うわ。首輪を金メッキにした」
「守るためだ」
「守るため、ねぇ……」
トミーは、義弘の言葉を否定しなかった。
否定できないからだ。
今の新開市では、守るための手段が、だいたい首輪になる。
義弘は立ち上がる。
サムライ・ヒーローとしてじゃない。
市長として、札を切りにいく。
その頃、配信では――善意が燃えていた。
刀禰ミコトのカメラは、病院前の人波を映している。
装飾された小旗、手作りのプラカード、差し入れの紙袋、祈りの手。
誰もが“いいこと”をしている顔だった。
「みなさん、落ち着いてくださいね。病院は静かな場所です。アリスちゃんも、市長さんも、休息が必要です」
ミコトの声は、優しい。
優しさは、よく届く。
届くほど、列が伸びる。
『ミコト様えらい』
『アリスちゃん守って…!』
『市長も寝ろマジで』
『差し入れ持ってきた!並ぶ!』
『列が列を呼ぶの草』
『静かにしろって言う配信が一番人集めてる件』
コメントが流れる。
善意のコメントが、善意の列を増殖させる。
そして列の端で、別の配信者が勝手にカメラを回す。
「病院の裏口、こっちです!“市の公式”なら通れるんじゃないですか!?ねえ!?みんな!?」
善意は、方向を持つと暴走する。
暴走した善意は、手順になる。
《誘導:協力》
《見守り:協力》
《安全確保:協力》
協力の札。
協力は、断れない。
病院の中で、アリスは――裂け目を探していた。
端末のモニターが、心臓の鼓動みたいに点滅している。
点滅のリズムが、札のリズムと同期している。
《経過観察》
《経過観察》
《経過観察》
繰り返し。確認ループ。
ループは、壊しやすい。
壊すのではなく、“迷わせる”。
アリスは小さく指を動かす。
たった一行。
“取得済み”のフラグを、別の場所に複写する。
《受付完了》が、同時に《再受付推奨》を生む。
《診断待ち》が、同時に《診断済み(仮)》を生む。
矛盾は、手順の敵だ。
——矛盾が生まれた瞬間。
廊下の端末が、一拍だけ固まった。
札が、一拍だけ迷った。
列の人が、一瞬だけ“自分”に戻った。
「あれ? 私、何しに来たんだっけ」
「……あ、仕事……」
「ごめん、俺、並んでた……? なんで……?」
戻り始める。
戻り始めたところに――見たことのない札が混ざり始める。
《緊急確認:最優先》
《健康管理:最優先》
《健康管理:最優先(上位)》
最優先が、太い字になる。
太い字が、目になる。
目が、アリスを見つける。
アリスは背筋が冷えた。
(来る)
その瞬間、廊下の向こうから作業ドロイドが一体、滑るように現れた。
病院の清掃用。丸い胴体。静かな車輪。柔らかいアーム。
だが札が貼られている。
《健康管理:最優先》
《対象:アリツェ・ヴァーツラフコヴァー》
名指し。
善意の名指し。
それが一番怖い。
ドロイドのアームが伸びる。
針が見える。鎮静剤。
“治療”の顔をしている。
アリスは動こうとして、身体が遅れた。
足が、固い床に吸い付く。
肩が、重い。
肺が、浅い。
(くそ……最適化、やめろ……!)
怒りが湧く。
怒りが湧くほど、翼が開く。
開いた途端、白い痛みが走る。
そして――視界の端に、白いものが映った。
白い手袋。
それだけが、妙に鮮明だ。
人影はぼやけるのに、手袋だけが“記録”されるみたいに残る。
白い手袋が、端末に触れた。
触れた瞬間、画面の隅に一行だけ出る。
《投入準備:可》
アリスは、喉の奥が冷たくなった。
クウィラス。
あれは“怪談じみた兵器”。
怪談じゃない。兵器だ。
手順の外にいるようで、手順の中枢にいるやつ。
白い手袋が、何かの紙を差し込む。
紙の札じゃない。
“例外”の札。
《窓口一本化:対象外》
その瞬間、病院内の《公用保全:新開市管轄》が一拍遅れて点滅した。
新開市の札が、否定されたわけではない。
ただ、迂回された。
例外として。
それが官僚ホラーの刃だ。
ドロイドが、アリスに向けて速度を上げた。
アリスは歯を食いしばり、翼を無理やり広げた。
広げる。広げる。広げる。
視界が白く抜ける。
鼓動が早くなる。
人格が揺れる。
——そこで。
廊下の奥から、別の音がした。
重い、金属の音。
だが病院の音ではない。
これは――装甲の音。
「そこまでだ」
義弘の声。
低い。乾いた。
病院の白い音を切る声。
アリスの目が一瞬だけ見開かれる。
彼が、来た。
来るなと言っても、来る男だ。
来れば列が増える。来れば札が増える。
それでも来る。
義弘はサムライ・スーツではない。
病院に合わせた、抑えた装備。
それでも――姿勢が“戦場”だ。
ドロイドが義弘に向きを変える。
《健康管理:最優先》は、最優先の対象を迷う。
迷う。
迷う瞬間だけ、アリスの翼が滑らかに動いた。
(今——!)
アリスは“矛盾”を刺す。
《対象》の欄に、ほんの一拍だけ別の表記を混ぜる。
《対象:津田義弘(市長)》
《対象:アリツェ(経過観察)》
《対象:両名(同時)》
同時。
手順は同時に弱い。
同時は、責任の分散を生む。
責任の分散は、停止を生む。
ドロイドが、一拍だけ止まった。
義弘がその一拍で、ドロイドのアームを掴み、壁に押し付ける。
押し付ける力は抑えてある。
それでも、壁が軋む。
病院の壁が、初めて音を出した。
「治療は、ここでやる。誰の手順だ」
義弘が言う。
行政の言葉じゃない。
サムライ・ヒーローの言葉だ。
白い手袋が、少しだけ動いた。
視界の端で、手袋が“頷いた”ように見える。
笑っているのか、記録しているのか、わからない。
そのまま、白い手袋は――消えた。
人影は見えない。
手袋だけが、残像みたいに残って、消えた。
アリスは息を吐いた。
吐いた途端、膝が抜けた。
抜けた膝を、義弘が支える。
「……来るな、ジジイ」
「来る」
短い答え。
短い答えは、強い。
だが強いほど、札は寄ってくる。
廊下の端末が点滅する。
《健康管理:最優先(上位)》が、太くなる。
太くなる字が、目になる。
目が、アリスだけを狙う。
アリスは、胸の奥でまたカチ、と鳴るのを聞いた。
今度は、さっきより大きい。
(……臨界、近い)
“十人”が、息を揃えられない。
揃えられないまま、揃えようとして、軋む。
義弘が、低い声で言う。
「札を二段にする。新開市の札だ。——守る」
「……首輪だろ、それ」
「守るための首輪だ」
「最悪」
アリスは笑いそうになって、咳き込んだ。
笑いは熱になる。
熱は軋みになる。
そして――病院の照明が、一拍だけ落ちた。
ほんの一拍。
誰も気づかない程度。
だがアリスは気づく。
音が、消えた。
いや。
もともと白かった音が、“無”になった。
吸音。
光学迷彩。
対ハック。
ステルス装甲。
クウィラスが、導線に入った。
アリスのNECROテックでも、輪郭を掴めない。
それなのに、“そこにいる”と分かってしまう。
怪談の足音と同じ種類の違和感。
足音はない。
だが“足音の不在”が足音になる。
端末の画面に、何かが表示された。
誰も触れていないのに。
白い手袋も見えないのに。
文面だけが、静かに出る。
《健康管理:最優先》
《実施を開始します》
義弘が周囲を見回す。
見回しても、見えない。
アリスは、スカーフの下で歯を食いしばった。
(……来た)
来たのは武器じゃない。
来たのは“善意の実施”だ。
病院の白い廊下に、白い影が滑り込む。
見えないまま、確実に近づいてくる。
その瞬間、遠くの方で――列が、また一つ増えた音がした。
誰かが並び始める。
誰かが従い始める。
誰かが“正しい”と言い始める。
札は、増える。
善意は、増える。
そして最優先は、いつだってアリスを見つける。
アリスは義弘の袖を掴んだ。
掴んだ感触が、遅れて届いた。
遅れて届く感触の中で、彼女は小さく言う。
「……逃げ道、作れ。ジジイ」
「作る」
言った瞬間、照明が元に戻る。
戻った白い光の中で、何も見えないのに――廊下の空気だけが、冷たい影になっていた。
次の一拍で、何かが始まる。
善意の顔をした、強襲が。




