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第八十五話 公用保全:新開市管轄

 「拘束ではありません」


 同じ言葉を、違う声が、違う速度で言う。

 搬送車の天井は白く、白すぎて、視線が止まる場所がない。窓は薄いフィルムで曇り、外の新開市は「あるはずの喧騒」を音だけ落として遠くに見えた。


 「診断待ちです。経過観察です。安全のためです」


 安全。観察。推奨。最優先。

 札の語彙が、車内の空気に混ざっている。紙の匂いはしないのに、舌の奥が乾く。乾いたぶんだけ、怒りが戻る――はずなのに、怒りは途中で引っかかる。


 アリスは、自分の手を見た。


 指が、わずかに遅れて動く。

 命令して、動くまでに、拍がある。

 その拍の間に、身体のどこかで“最適化”が走っている感触がある。骨の中に入った冷たい水が、勝手に流路を選び直していくみたいな。


 ――いやだ。


 口に出すと、声が思ったより小さい。

 小さい声は、勝手に“配慮”される。配慮は、手順に吸われる。


 視界の端に、ARの札が浮かぶ。

 貼られている。貼られたことに気づくより早く、貼られている。


 《経過観察:継続》

 《保全:移送準備》

 《休養:推奨》

 《最適化:推奨》

 《健康管理:最優先》


 札の角が揃いすぎている。揃いすぎて、逆に怖い。

 人間が貼ったものじゃない、というより、人間が貼った痕跡だけが削られている感じ。


 そして、その札の列のいちばん外側に――

 “窓口”がある。


 《同意確認:取得済》

 《同意:閲覧不可》


 誰の同意だ。

 いつの同意だ。

 何に対する同意だ。


 問いを作ろうとするたびに、頭の奥の人格たちが勝手に並び替えられていく。いつもなら、主人格が命じれば三人が動き、六人が補佐して、残りは静かに眠っている。それが今は、眠る順番が変わっている。眠らされる順番が。


 ――やめろ。


 アリスは、目を閉じる。閉じても札は残る。

 翼の残像がちらつく。翼は、情報とアプリと回路の群れで出来ているはずなのに、今は“見えない重さ”になって、背中を押しつぶしてくる。


 車が、止まった。


 ドアが開く。空気が変わる。病院の空気。

 消毒、静けさ、清潔。どれも“善意”の匂いだ。


 「――アリスさん。こちらへ」


 案内する職員は優しい顔をしている。優しい顔は“正しい”から、殴れない。

 アリスは降りる。降りる瞬間、足首が一拍遅れる。転びそうになるのを、誰かの手が支えた。


 白い手袋だった。


 視線を上げる前に、白い手袋は消えた。

 消えたのに、支えた感触だけが残る。

 それがいちばん嫌だった。


 入口の自動扉の上に、札が貼られている。


 《要診断(診断待ち/経過観察)》

 《拘束ではない》

 《見守りはご遠慮ください》

 《差し入れは受付へ》

 《呼びかけは禁止》


 “禁止”が混ざっている。

 善意の語彙に、禁止が混ざったとき、手順は完成する。


 病院のロビーに、列がある。

 患者の列ではない。見守りの列だ。

 「頑張って」「無理しないで」「治療受けて偉い」

 薄い拍手、スマホのレンズ、無音の配信。

 善意が列を作る。列は、逃げ道を塞ぐ。


 掲示板みたいに浮かぶコメントが、ロビーの空気に重なる。


 ――《治療が最優先だよね》

 ――《逃げたら病人を裏切ることになる》

 ――《市長はちゃんと守って》

 ――《アリスちゃん笑って!》


 笑え。

 笑えれば、札が増える。

 笑えなければ、“保全”が増える。


 アリスは、スカーフの端を握った。

 握った感触が遅れて返ってくる。

 怒りはある。けれど怒りが、手に届かない。


 そのとき、病院の奥のほうで、音がした。


 足音。

 一拍遅れる足音。


 誰かが歩いた音にしては軽すぎる。

 作業ドロイドにしては、規則がない。

 足音が、曲がっていく。曲がった先の廊下は、誰もいないはずなのに――


 アリスの視界の端で、少女の影が、ほんの一瞬だけ見えた。


 白いワンピース。

 顔は見えない。

 でも、こちらを見ている“気配”だけがある。


 NECROテックが、反応しない。

 視神経の端末が、何も拾わない。

 なのに、見えてしまう。


 “観測できないもの”が、そこにいる。


 アリスが息を止めた瞬間、影は消えた。

 代わりに、札が一枚増えた。


 《安静:推奨》


 ――ふざけんな。


 怒りが、ようやく喉まで来た。

 来たのに、口に出すと薄まる。薄まる怒りは“配慮”される。

 配慮は、手順に吸われる。


 アリスは、心の中で言い直した。


 薄まる前に裂く。

 札を剥がすんじゃない。

 札の中の矛盾を太らせる。


 《休養:最優先》と《検査:最優先》

 最優先が二つ並んだら、どちらが先だ。

 先が決まらなければ、列が止まる。


 アリスは、呼吸を整えて、端末の奥へ手を伸ばした。

 翼の残像が、ぎし、と鳴った。


 市長室の窓は大きい。

 大きいくせに、外が見えない日がある。

 今日は、見えない日だ。


 津田義弘は椅子に座り、机の上に積み上がる紙を見た。

 紙は、言葉だ。言葉は、札だ。札は、列だ。列は、手順だ。

 手順は、人を守る顔をして、人を締め上げる。


 「市長、こちら“安心声明”の文案です。あと、病院側から“推奨”の表現について――」


 職員の声が丁寧で、丁寧すぎて、息が詰まる。

 義弘は喉を守る。喉を守らなければ、言葉が餌になる。


 机の端で、トミーが前脚を組んでいた。

 苔色の毛並みが、いつもより荒れている。


 「ジジイ」


 「……何だ」


 「アリス、見に行かなくていいのかよ」


 義弘は、目を上げない。目を上げると、“正しさ”が溢れてくる。

 正しさは遅れてくる。遅れてくる正しさは、札になる。


 「行けない」


 「行けない? 行かない、だろ」


 トミーの声は毒がある。毒があるから、真実を混ぜられる。

 義弘は紙の束を一枚めくった。そこにあったのは、“善意”の文章だった。


 《重病患者の現場活動は望ましくない》

 《治療を優先すべき》

 《市長は配慮を》


 配慮。

 配慮は、鎖だ。

 鎖は、見えないときほど重い。


 「……市長」


 職員が、もう一枚差し出す。

 封筒。差出人欄は空白。置いた人間の痕跡がない。

 義弘は指で封を切った。紙が、鳴った。嫌な音だった。


 中身は短い。

 短いのに、息が止まる。


 《要保全》

 《長期休養推奨》

 《現場活動の自粛推奨》

 《本人同意:取得済》

 《適用開始:本日》


 “診断待ち”のはずなのに、結論めいた言葉が並んでいる。

 推奨が、命令より強い顔をしている。


 義弘は、紙を机に置いた。

 置いた瞬間、トミーが鼻を鳴らした。


 「うわ。出た。推奨」


 「……」


 「ジジイ、喉守ってる場合じゃねえぞ。これ、もう喋ってる」


 紙が喋っている。

 そうだ。

 義弘がどれだけ言葉を飲んでも、紙が先に喋る。


 ――なら、紙で殴るしかない。


 義弘の中で、嫌な経験が一本に繋がった。

 列。手順。推奨。責任不在。

 責任が薄い札が、街を動かす。

 責任が薄いから、誰も止められない。


 だったら。


 責任を厚くする。

 厚すぎる責任で、札を上書きする。


 義弘は、ペンを取った。

 ペン先が紙に触れる前に、職員が息を呑んだ。

 市長が紙に書くという行為が、すでに札だからだ。


 「市長……それは」


 「管轄を取る」


 義弘は淡々と言った。

 淡々と言うほうが、怖い言葉になる。怖い言葉は、効く。


 「病院の診断も、治療も、移送も、広報も――全部“窓口一本化”だ。責任部署を明記する」


 職員が目を見開く。

 トミーが笑った。笑い声が軽くて、逆に重い。


 「うわ、最悪。守るって顔して、市役所が首輪作る気かよ」


 義弘は答えない。否定しない。

 否定できない。守るとは、首輪を作ることでもある。


 紙の上に、文字が並ぶ。


 《公用保全:新開市管轄》

 《対象:NECROテック治療対象者(個人識別:秘)》

《状態区分:要診断(診断待ち/経過観察)》

 《実施権限:新開市長(行政)/指定医療機関(医療)》

 《記録責任:新開市長(署名)》

 《外部介入:協議必須(窓口一本化)》

 《適用開始:本日》


 “署名”を書く指が、少しだけ震えた。

 震えは恐れじゃない。

 覚悟だ。


 義弘は紙を持ち上げ、職員に渡した。


 「貼れ。見える場所に。紙でもARでもいい。札にしろ」


 職員は一拍遅れて頷き、走った。

 走る背中が、列を裂く刃になることを、義弘は知っていた。


 OCM本社の会議室は、冷たい。

 冷たいというより、温度の議論が許されない。


 オスカー・ラインハルトは、端末を見ていた。

 画面の上に浮かぶ社内アラートが、札の語彙に侵食されている。


 《保全:最優先》

 《休養:義務化(推奨)》

 《点検:未実施はリスク》

 《最適化:提案》

 《露出:最適》


 “露出:最適”

 その一行で、彼の口角がほんの僅かに落ちた。

 怒りの顔は、一瞬しか許されない。長くなると“危険”と判定される。


 「同情派からの提案です」

 部下が言う。善意の声で。


 「アリスを現場から下ろし、広告塔に。VXシリーズやLCシリーズの象徴として、休養と保全を――」


 善意。

 敵より厄介な味方。

 オスカーは、短く息を吐いた。


 「却下ではない」


 却下ではない。

 それは“採用”ではない顔をした“採用”だ。

 官僚の言い方を、彼は完璧に知っている。


 「ただし順番が違う。まず“手順”を止める」


 部下が瞬いた。

 “手順”という単語を、社内で出すのは危険だ。危険な単語は、札になる。


 オスカーは、端末の別窓を開いた。

 そこにあるのは、モルテへの暗号化通信。短文だけでいい。短いほど刃になる。


 《海外部門、動かす。遅延を作れ》

 《監査記録官の導線、相互牽制》

 《目的:善意拘束の解除》


 送信ボタンを押す瞬間、オスカーの表情が一瞬だけ歪んだ。

 憤怒。

 兄弟姉妹を、“善意”で縛るな。

 縛るなら、せめて責任を名乗れ。


 しかし次の瞬間には微笑に戻る。

 冷たいビジネスの微笑。

 微笑のまま、彼は言った。


 「市長が管轄を取るなら、こちらも“公式”を取る。義弘を止めるな。むしろ――」


 “使う”

 その単語は飲み込んだ。

 代わりに、別の単語を置く。


 「支える」


 支える。

 支えるは、時に縛ると同じ形を取る。

 オスカーはそれを知っている。


 病院のロビー。

 列はまだある。善意の列。撮影の列。見守りの列。

 アリスは診察室へ通される途中、壁に貼られた新しい札を見た。


 角が、異様に揃っている。

 揃っているのに、揃い方が違う。


 そこには、見覚えのある語彙が並んでいた。

 でも、違う匂いがした。


 《公用保全:新開市管轄》

 《外部介入:協議必須(窓口一本化)》

 《記録責任:新開市長(署名)》


 ――ジジイ。


 心の中で毒を吐く。

 毒を吐くと、少しだけ楽になる。

 楽になると、翼が一瞬だけ戻る。


 札の上に札が重なる。

 重なった瞬間、アリスの視界の端で――

 札が、一度だけ“角を折る”ように表示を乱した。


 《健康管理:最優先》が点滅する。

 その上に《公用保全》が重なる。

 最優先が二つになって、手順が迷う。


 一拍。

 ほんの一拍だけ、処理が止まる。


 その一拍で、アリスは見た。


 ロビーの端、ボランティアの腕章。

 整列誘導の人波。

 その中に――白い手袋。


 白い手袋は、誰かに話しかけない。

 誰かに触れない。

 ただ、札の貼り替え位置を見ている。

 “貼るべき場所”を知っている目で。


 アリスの背中に、冷たい汗が走った。

 見つけたのに、追えない。

 追えない理由が、身体の遅れだと分かるのが、いちばん腹立つ。


 だが。


 義弘の札が、裂け目を作った。

 裂け目があるなら、太らせられる。


 診察室の前で、アリスは立ち止まった。

 職員が優しい声で言う。


 「こちらで、少しお休みを」


 休み。

 休みは、鎖の別名だ。


 アリスは、笑おうとした。

 笑顔の筋肉が遅れて動く。

 動く途中で、止まる。止まったところで、職員が“配慮”する。


 配慮される前に、アリスは言った。


 「……同意確認」


 職員が瞬く。

 その瞬きに、札が一枚増える。


 《同意確認:再取得(推奨)》


 出た。

 矛盾。


 “取得済”なのに、“再取得”。

 最優先なのに、“推奨”。


 アリスの翼が、ぎし、と鳴った。

 痛い。痛いのに、嬉しい。

 裂け目がある。


 アリスは低い声で、呟いた。


 「……最優先が二つあるなら、迷えよ。迷って、止まれ」


 止まれ。

 その言葉は命令じゃない。祈りでもない。

 手順に対する呪いだ。


 診察室の奥で、モニターが点滅した。

 心臓みたいな点滅。

 胃袋みたいな場所が、どこかで動いている。


 アリスの身体は遅れる。

 遅れるぶんだけ、手順は近づく。

 近づくぶんだけ、裂け目は必要になる。


 アリスは、深く息を吸った。

 肺が痛い。

 痛いのに、頭は冴える。


 ――ジジイ、首輪作ったな。

 ――でも、その首輪で引っ張るなら、私も裂く。


 診察室の扉が閉まる直前、ロビーのほうで――

 一拍遅れの足音が、また聞こえた。


 誰もいない廊下。

 見えない影。

 観測できないはずのものが、こちらを見ている気配。


 官僚ホラーか、オカルトホラーか。

 その境目で、札は増える。


 《健康管理:最優先》

 《公用保全:新開市管轄》

 《同意確認:再取得(推奨)》


 札の列が、三つ巴で絡み合う。

 絡み合った瞬間だけ、世界が一拍止まる。


 その一拍で、アリスは確信した。


 白い手袋は、貼るだけじゃない。

 “投入”の札を、いつでも出せる。


 クウィラス。

 怪談じみた兵器。

 怪談ではない現実。


 そして――

 自分の身体は、もう臨界の縁にいる。


 アリスは目を閉じ、翼の残像を押さえ込んだ。

 押さえ込むたびに、どこかが軋む。

 軋みは、音にならない。音にならないから、誰も気づかない。


 気づかれないまま、手順だけが進む。


 扉の向こうで、誰かが紙をめくる音がした。

 紙が喋る音だ。


 そして遠く、市長室では、別の紙が喋り始めている。


 《公用保全:新開市管轄》

 《適用開始:本日》


 その“本日”が、アリスの身体にとって、どれだけ重いか――

 まだ、誰も知らない。

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