第八十四話 任意
朝の新開市は、祝祭の前みたいに静かだった。
静かなのに、動いている。
人が。札が。手順が。
市庁舎の窓から見下ろすと、広場の片隅に——一本の“列”が生えていた。誰が呼びかけたでもないのに、自然に。まるで、地面から芽が出たみたいに。
列の先頭に、白い板が立っている。
《移送予定》
《集合推奨》
《混乱防止のため誘導に従ってください》
《健康管理:最優先》
言葉は柔らかい。優しい。善意の形をしている。
だから余計に、義弘は背筋が冷えた。
“推奨”は、断った瞬間に「おまえが悪い」に変わる。
机の上の端末が、こつ、と小さく鳴った。
——《移動相談:受付開始》
——《優先案内:市長》
市長室の扉の外でも、別の列が育ち始めている。相談。陳情。抗議。要望。
全部が一本に束ねられて、こちらへ向かってくる。
背後で、ぴちゃり、と小さな音がした。
足元の椅子の影から、トミーが顔を出した。苔色の毛並みが、朝の光を吸って鈍く艶めく。片耳がぴくぴく動いている。
「……列、増えてるな。おい、ジジイ。あれ、止めなくていいのか」
「止めれば、止めた側が悪者になる」
「へえ。市長って便利だな。殴られる係の肩書き」
義弘は笑わなかった。笑えなかった。
今日の敵は、人間じゃない。
空気だ。書式だ。手順だ。
「アリスは?」
トミーが、耳を伏せた。
「そこだ。俺が言ってんのはそこだ。アリス、最近……匂いが変だ。毒を吐くガキの匂いじゃねえ」
言い方が汚い。だが、動物の勘は、いつも当たる。
「……分かっている」
「分かってて、置いてきたのかよ」
義弘は、机の引き出しから手袋を取った。古い癖だ。戦場へ行く前に、指先を整える。
「様子を見に行く。今すぐだ」
「よし。市長の列は?」
「後にする」
扉の向こうで、紙が擦れる音がした。誰かが書類を持って並び直している。
列が、息をしている。
義弘は市長室を出た。
同じ朝。
学校の廊下は、いつもより明るく、やたらと整っていた。掲示板が新しい紙で埋まっている。角が揃っている。
揃いすぎて、気味が悪い。
《健康管理:経過観察》
《定期確認:本日》
《同意確認:最優先(推奨)》
《移送予定:通知済》
“推奨”が混ざっている。
“最優先”が増えている。
アリスは、廊下の真ん中で立ち止まった。
自分の足が——一拍遅れてくる。
身体が言うことを聞かない、というより。
身体が「確認」を挟んでから動く。
右手を上げようとして、指先が遅れて上がった。
視界の端に、いつもなら翼みたいに広がるはずの情報群が……薄い。
——起動班。
——作業班。
——補佐班。
呼びかけても、返事が弱い。人格が沈黙しているのではない。
眠りが深い。いや、深くさせられている。
「……っ、最適化、とか。やめろ」
小声で吐き捨てる。だが、誰も聞いていない。
聞く必要がない。札が、聞いている。
保健室の扉が、半分だけ開いていた。
《健康管理:最優先》
《経過観察:継続》
《混乱防止:誘導に従ってください》
アリスは、一歩踏み出して、止まった。
廊下の向こう側で、学生が数人、ひそひそ声を交わしている。スマホをいじって、こちらを見て、また画面に落ちる。
「……アリスちゃん、今日“移送”だって」
「え、拘束? やばくない?」
「拘束じゃないって。診断待ち、経過観察。優しいやつ」
「え、じゃあ見守り行く?」
「行く行く。静かに見守ろ」
静かに。
見守り。
善意は、足音を消して増殖する。
保健室から、看護教諭の声がした。
「ヴァーツラフコヴァーさん。……入れる?」
優しい声。
優しい声は、今日いちばん危ない。
アリスは、かすかに笑った。笑えたことに、自分で驚いた。
「……入る。別に、拘束じゃないんでしょ」
広場へ向かう通りは、整備されていた。
整備されすぎていた。
“列”のためのロープ。
“列”のための矢印。
“列”のためのボランティアベスト。
そして、配信者たちの「静かに見守りましょう!」という連呼。
声が大きいほど、静かが遠ざかる。
義弘は、サムライ・スーツのヘルメットを被らないまま、外套で顔を隠すように歩いた。
市長の顔は武器にも盾にもなるが、今日は鎖になる。
列の端に、刀禰ミコトの姿が見えた。派手な装飾。カメラ。スタッフ。
彼女は笑顔で、真剣な声を作っている。
「みんな、押しかけないで! 見守りは静かに! 今日は“治療”だよ!」
コメントが、画面の上を流れる。
『現地で静かに見守る!』
『代表で並ぶわ』
『安全確保のためヒーロー集合しよ』
『アリスちゃん元気になって(´;ω;`)』
『市長来る? 来るよね?』
『治療って言った? じゃあ正義だ!』
義弘は吐き気をこらえた。
正義は、誰のものでもない。
しかし“正義だ”と言った瞬間に、誰のものにでもなる。
トミーが肩の上で耳を立てた。
「……変だ。臭いが、“揃ってる”」
「揃っている?」
「同じ匂いが、違う場所からする。……この街、同じ人間が何人もいるみたいだ」
義弘は足を止めた。
列の向こうの端末が、ぱち、ぱち、と一拍遅れて点滅する。
その点滅だけが、妙に心臓みたいだった。
札が増えている。
《緊急確認:最優先》
《健康管理:最優先》
《同意取得済》
誰の同意だ。
「……トミー」
「言うな。言うなよ。俺も今、そう思った。——あいつ、いつもより弱い」
義弘は、列の外側を回り、誘導ロープの“継ぎ目”を探した。
継ぎ目。角。段差。人の流れが詰まる場所。
人を切れないなら、流れを切る。
義弘は刀を抜かない。
刀を抜くことが、今日いちばんの燃料になる。
代わりに、靴底でロープの杭を蹴って、角度を変えた。
ほんの少しだけ。列が、一瞬迷う程度に。
列の前方で、誰かが「え? こっち?」と立ち止まる。
その瞬間だけ、列が“考える”。
トミーが唸った。
「……今だ。今、空気が息継ぎした」
義弘は、迷いの隙間へ滑り込んだ。
保健室の窓から、広場が見えた。
アリスはベッドに座っていた。スカーフで口元を隠し、フードを深くかぶる。
いつもの格好なのに、いつもより“薄い”。存在が。
腕を伸ばすだけで、指先に痺れが走る。
NECROが、何かを挟んでいる。
《保全》
《休養》
《点検》
《最適化》
そして、その上に乗っている——《健康管理:最優先》。
看護教諭が、書類を机に置いた。丁寧に。角を揃えて。
「診断待ちよ。経過観察。……怖がらなくていい」
「怖がってない。ムカついてるだけ」
「ムカつくのは、体調が悪いときのサインよ」
サイン。
サインなんて、勝手に増える。
廊下から、靴音が近づく。
規則的で、静かで、早い。
アリスの視界の端で、翼の残像が——ちらついた。
薄い翼。足りない情報。
足りないのに、背筋だけが正確に冷える。
「……来る」
看護教諭が首をかしげた。
「誰が?」
アリスは答えなかった。
答える前に——扉の外で、音が消えたから。
次の瞬間。
窓の外の空気が、ぐにゃりと歪んだ気がした。
何もいない。
なのに、“そこに何かがいる”と、体の奥が叫んでいる。
アリスは立ち上がろうとして、膝が遅れた。
——一拍。遅い。
「……っ」
その遅れに、殺される。
看護教諭が慌てて手を伸ばした。
「大丈夫!? 無理しないで——」
その手が、空を掴んだ。
アリスの耳に、トミーの声が幻みたいに刺さる。
——音が無いところが濃い。
そして。
廊下の角から、義弘が現れた。
外套のまま。刀も抜かず。
だが、目だけが戦場だった。
「……間に合ったか」
アリスは、笑う気もないのに笑った。
「遅い。市長」
「今日は市長ではない」
義弘が一歩踏み出す。
そこへ、何もいない場所から——義弘の肩が、押し潰されるように沈んだ。
見えない衝撃。
空気が殴る。
義弘は歯を食いしばり、足場を“切った”。
床の薄い段差。手すりの支柱。誘導ロープの金具。
刀を抜かず、環境を折る。
身体が落ちる方向を、ずらす。
見えない何かが、滑った。
アリスの視界が一瞬だけ明るくなる。
薄い翼が、ぱっと広がる。
——そこ。
彼女は指を動かした。
動いたのは、指だけではない。空間の“優先順位”が、一瞬だけ書き換わる。
《健康管理:最優先》が、迷った。
《緊急確認:最優先》が、上に乗った。
《同意確認:最優先(推奨)》が、角を折って落ちた。
ほんの小さな裂け目。
裂け目の向こうから——“見えない輪郭”が、浮いた。
義弘が踏み込む。
今度は刀を抜いた。
刃は、敵を切らない。
敵の“影の縁”を撫でるだけ。
だが、それで十分だった。
輪郭が、ひきつった。
廊下の空気が、後退した。
看護教諭が息を呑む。
「い、今の……何?」
義弘は答えない。
アリスも答えない。
答えた瞬間に、“説明”が札になる。
アリスは、胸の奥が焼けるのを感じた。
翼が——崩れていく。
鮮やかだったのは、ほんの数秒。錯覚。奇跡。
義弘が振り返った。
「アリス。歩けるか」
歩ける。と言えば嘘になる。
歩けない。と言えば、終わる。
アリスは、口元のスカーフを少し引き上げ、いつもの毒を探した。
毒は、薄い。だが、残っている。
「……歩ける。たぶん。最優先じゃないほうで」
「それでいい」
義弘が外套を差し出した。
アリスは受け取らなかった。受け取ると、守られている絵になるから。
代わりに、アリスは一歩踏み出した。
一拍遅れて。
それでも。
広場の列は、まだ静かだった。
静かで、整然として、そして——圧がある。
義弘とアリスが姿を見せた瞬間、空気が“嬉しそうに”波打った。
コメントが爆発する。
『出た!!』
『アリスちゃん!!』
『市長!!』
『見守り成功!!』
『これが新開市だよな』
『尊い』
『治療がんばれ!』
刀禰ミコトが、目を輝かせた。
煽りの自覚は薄い。
善意が、カメラの形をしている。
「みんな、落ち着いて! 押さないで! ——アリスちゃん、応援してるよ!」
応援。
応援は、束になって押す。
アリスは、心の中で舌打ちした。
——やめろ。
——見ないで。
——でも、見られるのは、もう慣れた。
慣れたことが、怖い。
義弘が、列の先頭の札を見た。
増えている。札が。
《診断待ち:優先》
《移送予定:再確認》
《同意取得済》
《健康管理:最優先》
“再確認”。
何度でも確認する。
確認するたび、逃げ道が減る。
義弘はアリスの耳元で、低く言った。
「……ここから先は、任意か?」
アリスは、肩をすくめた。
肩も一拍遅れる。
「任意だよ。だから、断ったら“わがまま病人”」
「……」
「ね。すごいよね。拘束じゃない。善意なんだってさ」
義弘は拳を握った。
刀の柄ではなく、自分の指を。
アリスは続けた。
「市長。止めたいなら止めれば? その瞬間、あんたの列がもっと伸びる」
義弘は黙った。
黙るしかない。
アリスは、ほんの少しだけ視線を逸らし、遠くの搬送車両を見た。
車両の側面に貼られた札が、風で揺れている。
その揺れの端で——白いものが、一瞬だけ光った気がした。
手袋。
両手だけが、妙に白い。
顔も、制服も、腕章も見えない。
ただ、手順に慣れた手つき。
札の角を、揃える仕草。
——見た。
——でも、言えない。
——言ったら、説明になる。
アリスは、義弘の袖をつまんだ。
ほんの一瞬だけ。
子どもみたいに。
「……市長。あんた、これから“喉”を守って」
「喉?」
「言葉。説明。会見。……あいつらの餌」
義弘の目が細くなった。
「見えたのか」
「見えた、っていうか。……嫌な感じがした。白い。手袋」
義弘は息を吐いた。
トミーが、肩の上でうなった。
「やっぱりだ。臭いが揃ってる」
アリスは、列の先頭へ向き直った。
そして、わざと大きく言った。
毒を、笑顔にねじ込んで。
「はいはい。診断でしょ? “拘束じゃない”んでしょ? じゃあ行くよ。任意で。——任意で、ね」
列が、安堵したように息をついた。
善意が、勝った顔をした。
義弘の胸の奥に、鉄の塊が落ちた。
止めたい。
止めるほど悪者化する。
動けば燃える。動かなければ奪われる。
アリスが搬送車両へ近づくと、端末がぱち、と点滅した。
《同意取得済》
誰の。
アリスは振り返らずに、背中だけで言った。
「……ジジイ。死ぬなよ」
それは、彼女なりの“残す情報”だった。
義弘が、息を吸った。
何かを言いかけて、飲み込んだ。
言葉は餌になる。
今は、餌をやれない。
搬送車両のドアが閉まる。
静かに。丁寧に。優しく。
そして、誰にも見えない角度で、札が一枚、増えた。
《最適化:実施(推奨)》
義弘の視界の端で、白い手袋だけが一瞬、ひらりと動いた。
札の角を揃えるみたいに。
祝祭の手拍子みたいに。
新開市の“列”は、今日も静かに伸びていく。
静かで、整然として——逃げ道を潰しながら。




