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第八十三話 推奨

 新開市の朝は、いつも何かが足りない。

 空気か、睡眠か、反省か。

 足りないものほど、誰かが補おうとする。善意で。


 端末が鳴った。鳴ったというより、静かに点いた。

 市庁舎の壁面モニター、駅前の公共端末、学校の保健室の端末、医療連携のパネル――同じ書式、同じ余白、同じ丁寧さで。


《要診断(診断待ち/経過観察)

 更新:経過観察継続

 付帯:保全:移送準備(推奨)》


 “推奨”という文字が、妙に柔らかい。

 柔らかいのに、指を挟んだら折れそうもない硬さがある。


 義弘は、書類の山の向こうで目を細めた。

 机の端でトミーが、前足で画面を叩く。


「おい。ジジイ。これ、“推奨”って書いてあるけどさ」


「推奨は、命令より強い」


「知ってるよ。推奨は、断った側が悪者になるやつだろ」


 市長室の窓の外は、朝の光に濡れている。

 その光の中で、街はもう動き始めていた。

 “列”の気配――人の気配ではなく、手順の気配が。



 義弘は、鳴海と真鍋へ同時に連絡を入れた。

 市政ルートと治安ルート。正規の最短距離だ。


「搬送先。担当医療機関名。面談の場所。搬送の同意書式。差出部署」


 返ってきたのは、丁寧な壁だった。

 丁寧すぎて、そこに“人”の息がない。


『医療情報につき回答不可』

『本人の同意が前提』

『混乱防止のため現場対応は秘匿』

『安全確保に協力を』


 ――安全確保。

 その四文字が、札の角みたいに見えた。


「真鍋」


 義弘は短く言った。


『津田さん。あなたが動くほど、燃えます』


「燃えるから、消せと言っている」


『消火の権限が、こちらに残っていない』


「残っていない?」


『“善意”に移りました』


 真鍋の声が、少しだけ悔しそうだった。

 鳴海はもっと短い。


『市長。壁が“書式”になっている。今は、殴れない壁だ』


 義弘は受話を置き、書類に目を落とした。

 書類の文字が、どれも同じ字体で揃って見える。

 揃い始めると、怖い。


 トミーが鼻を鳴らした。


「“善意”ってやつ、ほんと武器だな」


「武器は、持っている側が武器だと思わない」


 義弘は、椅子を引いた。

 市長としての肩書きが、今日は鎧にならない。

 鎧にならない鎧ほど重いものはない。



 アリスは校門の前で、一歩だけ止まった。

 セーラー服に灰色のフード付きパーカー。口元を覆うスカーフ。黒ニーソックス。

 いつもの格好だ。いつものはずだ。


 なのに、足が“遅い”。


 体内の翼――情報の翼が、いつもの幅で開かない。

 視界の端に浮かぶはずのアプリの群れが、今日は薄い。

 人格の作業班が立ち上がってこない。

 起動音の代わりに、体の奥で鈍い軋みだけが鳴る。


(……ふざけんな)


 怒りは戻っている。

 怒りが戻っている分だけ、余計に分かる。

 戻ってきた怒りの行き場が、身体にない。


 保健室の前に、貼り紙が増えていた。

 先生が貼ったような丸い字ではない。

 端末から印刷された、余白の揃った札。


《要診断(診断待ち/経過観察)

 登校時:健康確認(推奨)

 下校時:経過観察(推奨)》


 “推奨”が、並んでいる。

 推奨は列になる。列は道になる。道は囲いになる。


 廊下ですれ違う同級生の目は、好意的だった。

 それが一番、刺さる。


「アリスちゃん、今日来れたんだ」

「無理しないでね」

「保健室、行っといたほうがいいよ。なんかさ、先生たちも焦ってる」


 焦ってる。

 焦ってるのは、先生じゃない。

 手順だ。


 保健室の先生は、優しい顔で笑った。

 笑って、端末を指差す。


「ね。あなたを守るためだから。怖くないように、すぐ終わるようにするから」


 “すぐ終わる”。

 その言葉が、新開市では最も怖い。


 アリスは笑わない。笑えない。

 笑おうとすると、頬の筋肉が遅れる。

 笑顔の作り方まで、手順に奪われそうだった。



 昼。

 新開市の“公式”は、配信の中にある。


 刀禰ミコトは、いつも通り美しく整った画面で、落ち着いた声を出した。

 背景の装飾すら、安心のためにデザインされている。


『今日はお願いがあります。

 市長さんも、アリスちゃんも、休ませてください。

 押しかけない。追いかけない。撮らない。

 見守るなら、静かに。』


 正しい。

 正しすぎる。


 コメント欄は、正しさを食べて膨らんだ。


「#市長を休ませ隊」

「#アリス快復祈願」

「#並ばず見守ろう(※並ぶ)」

「“静かに”なら、現場に行ってもいいよね?」

「祈願スポット作った!駅前端末の前!」

「同業ヒーロー、巡回しようぜ。治安協力!」


 “同業ヒーロー”。


 その言葉で、街の動きが一段変わった。

 企業所属のサムライ・ヒーローたちが、制服みたいに揃ったスーツで歩き出す。


「市長を守るため、通学路の安全確保を行います」

「混乱が起きないよう、誘導を行います」

「撮影は控えめに。代表者だけ前へ」


 代表者だけ前へ。

 その瞬間、列が“運営”を得た。


 さらに、ヴァーチャル・サムライが便乗した。

 顔も身体も、透明な正義の形をした存在が、画面越しに呼びかける。


『今日は“静かに見守る配信”です!

 みんな、祈願スポットで心をひとつに!』


 ARのピンが街に立った。

 ピンが立つ=人が集まる。

 人が集まる=列が生まれる。


 善意が、合法の形を手に入れる。

 合法は、誰も止められない。



 OCM本社。会議室。

 空調は完璧で、笑顔も完璧で、資料はもっと完璧だった。


 資料の見出しに、同じ語彙が並ぶ。


《保全》

《休養》

《点検》

《最適化》


 それらが、慈愛の仮面で一行に揃っている。


「アリスを実務から外しましょう。広告塔として“休ませる”。社会的に正しい形です」

「NECROテックの負担を減らす。本人のためです」

「市長との協力関係にも、好影響が――」


 オスカー・ラインハルトは微笑んだまま、視線だけを落とした。

 薄い金髪。青い瞳。完璧な企業人の皮膚。

 その皮膚の下に、ほんの一瞬だけ――怒りが走った。


(“正しい形で閉じる”……)


 兄弟姉妹を、善意で檻に入れる言葉だ。

 あの札と同じ匂いがする。


 オスカーは、指先でペンを回した。

 サボテンの棘のように、静かで、痛い。


「……言葉が揃い始めましたね」


 会議室が一瞬だけ黙る。

 誰も、彼が何を言ったか理解しない。理解しなくていい。

 理解されたら遅い。


 オスカーは、席を立つでもなく、端末を一度だけ叩いた。

 送信先は、会議室の中ではあり得ない名前。


――モルテ。


 短い命令。

 文面は“公式”ではない。実務の言葉だ。


《海外部門に回線を開け。

 条件は一つ。兄弟姉妹を“善意で閉じる”語彙に対抗する。

 形式ではなく、利害で動かせ》


 送った瞬間、オスカーはまた微笑んだ。

 会議室の誰も気づかない。

 気づかないのが一番怖い。



 義弘の机に、一通の文面が届いた。

 紙ではない。電子署名の欄が空白のまま、正規の経路を通っている。


 差出部署名は曖昧だった。

 担当者名はない。

 ただ、書式だけが完璧。


《健康管理協定への協力依頼

 対象:要診断(診断待ち/経過観察)

 付帯:保全:移送準備(推奨)》


 そして、一文だけが冷たい。


《協力を拒否した場合、健康リスクを放置した責任が発生し得ます》


 責任。

 市長の首に巻くための、柔らかい縄。


 トミーが鼻で笑った。


「責任って言葉、便利だな。誰かの善意の棍棒だ」


 義弘は文面を閉じた。

 閉じても消えない。

 書式は記憶に残る。残ったら勝ちだ。



 夕方。

 アリスが校門を出た瞬間、空気が薄くなった。


 音が消える。

 消えるのに、何かが来る。


 視界の端で、黒い影が“居る”。

 居るのに見えない。

 見えないのに、道だけが塞がっていく。


(……HOUND)


 VX-07。

 吸音。光学迷彩。対ハック。ステルス装甲。

 “追跡”のために生まれた犬。


 アリスは、口の中で悪態をついた。

 言葉はまだ動く。身体が動かない。


 路地へ入ろうとした瞬間、路地の入口に“善意”が立った。

 ボランティアの腕章。配信者のモデレーター。企業ヒーローの見習い。

 笑顔で手を広げる。


「ここ、危ないので。こっちが安全です」

「静かに見守りましょう」

「代表者だけ前へ」


 ――列だ。

 列が“安全な道”を指定する。

 指定された道の先に、搬送ルートがある。


 HOUNDは吠えない。

 吠えずに、追い立てる。

 追い立てられる先に、善意の人波がある。


 アリスは、手を伸ばそうとして、指が遅れた。

 翼が開かない。

 人格が立たない。

 視界のアプリは薄い。


 そこへ、足音が割り込んだ。

 重い足音。都市戦の足音。


 義弘だ。

 スーツは今日は“市長の鎧”ではなく、ヒーローの鎧だった。

 派手な広告の光が、夕方の路地に反射する。

 テカテカの正義が、ちゃんと嫌な光を放っている。


「遅い」


 アリスが言う。毒だ。照れ隠しだ。

 義弘は言い返さない。

 代わりに、地面を見た。


「トミー。どっちだ」


 トミーが耳を立てた。

 小さな動物の勘は、無音の穴を嗅ぐ。


「……こっち。音が“ない”ほうが濃い。気持ち悪いだろ」


 義弘は頷いた。

 そして、斬るべき相手を斬らない戦い方を選ぶ。


 段差。未完成の構造。足場の悪い工事用の梁。

 義弘は、HOUNDを“見える場所”へ追い出すために、自分が先に動く。


 刀は振るわない。

 刀は、道を切る。


 建設途中のフェンスを、紙みたいに裂く。

 路地の出口を変える。

 人波の“安全導線”を外す。


 ――列が、一瞬迷った。

 角折りの札が混じったみたいに、手順がためらう。


 その刹那、アリスの支援が決まった。


 薄い翼が、針みたいに一筋だけ伸びる。

 “見えない敵”の輪郭だけを、街の反射で拾い、義弘の視界に刺す。


「左、二。足元。……いけ」


 義弘の刀が、空を斬らずに、地面を斬った。

 地面の鉄骨の固定具が切れ、重い梁がわずかに傾く。

 “見えないもの”が、避けるために迷彩を一瞬乱す。


 黒い輪郭。

 HOUNDが、そこに居た。


 だが、勝ちではない。

 HOUNDは殺しに来ていない。

 追い立てに来ている。


 義弘が一歩踏み込むより先に、HOUNDは無音のまま退いた。

 退く方向が、搬送ルートから外れている。

 今日は引く日だ、とでも言うみたいに。


 アリスは息を吸って、吐いた。

 吐いた瞬間、膝が笑った。

 膝が笑うのは、人間の冗談ではない。


(……やばい)


 自分の体が、手順に追いつけない。

 手順のほうが、体より先に動く。



 次の日の朝。

 学校の前に、見慣れない搬送車両が停まっていた。

 医療連携仕様。作業ドロイドが並ぶ。

 札が貼られている。


《保全:移送準備(推奨)》

《健康管理:最優先》


 “最優先”が来た。

 推奨の次は、最優先だ。

 最優先は、誰も逆らえない。


 先生たちは優しい顔をしていた。

 同級生たちは心配そうだった。

 市民は道を開けていた。


「よかったね」

「休めるね」

「国が守ってくれるね」


 アリスは笑顔を作ろうとして、頬が遅れた。

 作った笑顔が、割れた。


 義弘は、その場に割り込んだ。

 市長としてではない。

 サムライ・ヒーローとしての立ち方で。


「推奨は推奨だ」


 それだけ言うと、周囲の空気が一瞬だけ凍った。

 凍った瞬間、誰かが悪者を探す。

 悪者はいつも、声を出した側になる。


 義弘は悪者になるのに慣れていた。

 慣れたくないが、慣れてしまった。


 搬送車両の端末が、丁寧に点滅した。


《混乱防止のため、誘導に従ってください》


 ――誘導。

 列の言い換え。


 トミーが義弘の肩の上で、低く言った。


「ジジイ。これ、止めても負け。止めなくても負け。どっちも負けだぞ」


「知っている」


「じゃあ、勝てる手だけ残せ」


 義弘は一瞬だけ、目を細めた。

 勝てる手。

 勝てる手なんて、もう残っていない。


 だから、負け方を選ぶしかない。

 負け方で、次の手を残す。


「今日は、見送る」


 義弘はそう宣言した。

 アリスの肩が、微かに揺れた。

 怒りか、悔しさか、安心か。

 全部だ。


 見送る。

 見送るという言葉が、手順に“次”を与える。


 それでも、今日ここで完全に連れていかれるよりはマシだ。

 限定解放の檻のまま、檻の外にいる時間を稼ぐ。



 夜。

 新開市の端末が、じわっと同じ色に染まる。


《移送予定:――》

《集合推奨》

《混乱防止のため誘導に従ってください》

《健康管理:最優先》


 “推奨”が、もう一度現れる。

 推奨は、逃げ道を丁寧に塞ぐ。


 市長室の窓に、街の灯りが映る。

 灯りの中に、“列の未来”が見える。

 列が生まれる場所が、あらかじめ指定されている。


 義弘は窓に手を置いた。

 手のひらの向こうで、街が“正しく”動き始める。


 その時、窓の反射の端で、白いものが動いた。


 誰かが背後にいるわけではない。

 ただ、反射の中に一瞬だけ――白い手袋が映った。


 しゃがみ込む仕草。

 札を揃える仕草。

 手順に慣れた手つき。


 義弘が振り向いた瞬間には、もう何もない。

 あるのは、端末の点滅だけだ。

 心臓の鼓動みたいに、丁寧に、規則正しく。


 トミーが、窓の外を睨んだ。


「……来るな。あれは“来る”ぞ」


 義弘は短く息を吐いた。

 市長としての息。

 ヒーローとしての息。

 どちらも、同じ重さで肺を圧す。


「来るなら、受ける」


 受ける。

 受けるという言葉の中に、戦うという意味も、守るという意味も入っている。


 窓の外で、街が静かに整列を始める。

 善意の列。

 正しさの列。

 推奨の列。


 そして、誰にも見えない場所で、白い手袋がもう一度だけ動いた気がした。

 それは“合図”というより、確認だった。


 ――この街は、手順を受け入れる。

 受け入れるから、次へ進める。


 新開市の夜は、いつも何かが足りない。

 足りないものほど、誰かが補おうとする。善意で。


 善意が、今日も札を増やした。

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