第八十二話 要診断の柵
朝の番組は、同じ言い方をした。
局が違っても、声の温度が違っても、語彙が同じだった。
「――アリスさんは拘束ではありません。専門医の判断を待つ要診断。本人の回復を最優先に、環境の調整が行われています」
画面の隅に、白いテロップが一行、まるで札みたいに貼りつく。
《要診断(診断待ち/経過観察)》
次の瞬間、コメント欄が咲いた。花ではない。火だ。
休ませてあげて
もう戦わせるなよ、かわいそう
市長、ちゃんと守れ
OCMは責任取れ
いや拘束じゃないなら顔出せるよね?
アリスちゃん学校いる?見に行く
“要診断”って安全なやつ?
これ絶対大丈夫なやつ(大丈夫じゃない)
善意の言葉が、刃物の形になっていくのを、義弘は市長室で黙って見ていた。
机の上は、紙で埋まっている。紙の色は白いのに、空気が灰色だった。
封筒の角に揃った印影。差出人はそれぞれ違う。
保健所。教育委員会。都市医療連携機構。治安協力連絡室。提携企業連合。
そして――どれも、文章の骨格が同じだ。
「拘束ではない」
「本人の同意に基づく」
「混乱防止のため非公開」
「面会は推奨されません」
「発言は健康に影響します」
「移動は安全のため制限されます(拘束ではない)」
義弘は、息を吐いた。
拘束ではない。
だが、どこにも「自由」が書いていない。
「……言葉だけは、きれいだな」
机の横、椅子の背に乗っている苔色のウサギが、片耳だけぴくりと動かした。
「言葉がきれいなときは、汚いことやってるときだろ」
トミーは人間みたいに肩をすくめた。毛並みの緑が、朝の光でほんの少し明るい。
「拘束じゃないならさ。場所と担当者名、出せるだろ。出せないってことは、出すと困るってことだ」
「市としては、正規の手続きで照会を――」
「遅い。市長の正規は遅い。列ができる」
トミーは窓の外を見た。
市庁舎の前。相談窓口の前。記者の前。支援団体の前。
並ぶ。並ぶ。並ぶ。
誰もが、正しい顔で、正しい順番で、人を押す。
「お前のアキレス腱はアリスだって、みんな嗅ぎつけてる。動物の勘じゃなくても分かる」
「……」
「分かってるなら、早く動け」
義弘は、紙束を一枚、持ち上げた。
角が、妙に硬い。角が折れない紙――いや、折らせない紙だ。
――折れないのは、紙じゃない。手順だ。
そのとき、市長室の扉がノックされた。
秘書が顔を出し、苦い声で言う。
「市長、刀禰ミコトさんが“回復祈願配信”を――」
「……やっているのか」
「はい。『みんな、見守ろう』『押しかけないで、見守って』と呼びかけていますが……」
「呼びかけは、逆に人を動かす」
義弘は呟いた。
“見守る”という言葉は、免罪符になる。
免罪符を手にした人間は、最も無邪気に、最も残酷になれる。
学校の廊下は、いつもより明るかった。
それが、アリスには気持ち悪かった。
明るさが、優しさの形をしていないからだ。
彼女はセーラー服に、灰色のフード付きパーカー。
首元のスカーフを、いつもより深く巻いた。口元が隠れると、世界が少しだけ遠くなる。
掲示板の前に、女子が群れている。
掲示板そのものが、掲示板を越えている。
《健康相談 ご協力のお願い》
《体調に関する申告フォーム(任意)》
《保健室より:定期確認の推奨》
どれも「お願い」なのに、断る余地がない書き方だ。
アリスは、通り過ぎようとした。
しかし、背後で囁きが弾ける。
「……ほんとに要診断って、拘束じゃないの?」
「拘束じゃないって言ってたよ?テレビで」
「でもさ、面会推奨されませんって、拘束っぽくない?」
「いや、善意だよ善意。善意で守ってんだよ」
「アリスちゃん、顔見たい……」
「いまは休ませてあげなよ!」
「休ませるために見に行くんじゃん……」
アリスは、歩幅を変えない。顔も変えない。
変えないけれど、視界の端で、翼の残像がちらついた。
NECROが修理されたはずなのに。
修理されたからこそ、感じる。
――自分の身体が、自分の身体じゃない。
胸の奥に、勝手に貼られる札がある。
《保全》
《休養》
《点検》
《最適化》
最適化。
それはいつも、誰かの都合の言い換えだ。
呼び止められる前に、アリスは保健室の方へ向かった。
向かった、というより、向かうように“推奨”される空気に流された。
保健室の扉は、開ける前に開いた。
中から出てきたのは、見知らぬ大人だ。
腕章がある。白地に、整った字。
《健康支援》
大人は笑った。笑顔は上手い。
上手い笑顔は、壁だ。
「アリスさん。今日は念のため、いくつか質問を。拘束ではありませんよ。ご安心を」
「拘束じゃないなら、質問拒否していい?」
「もちろんです。ただ、拒否は“健康管理上のリスク”として記録されます」
「……」
アリスは、口の中で舌打ちした。
記録。札。手順。
拒否していい。
拒否していいけど、拒否したことが、次の手順を呼ぶ。
保健室の奥には、小さな端末があった。
学校用。保健用。都市連携用。
アリスの眼が、そこに吸い寄せられる。
――触れたら勝てる。
そう思った瞬間、NECROが勝手に息を詰まらせた。
指先が、遅い。
いつもの“十人分”が、ここにはない。
代わりに、静かな圧がある。
「休め」「守れ」「最適化しろ」という圧。
アリスは、笑う練習をした。
ぎこちなく、口角だけを上げた。
CMでやらされた笑顔。
あの笑顔は、装甲より重い。
「……質問、早く終わらせて」
「はい。では、まず体調の変化――」
質問は、まるでチェックリストの読み上げだった。
人間の声で、札を貼っていく作業。
昼。
配信は加速していた。
刀禰ミコトは、街のど真ん中で、透明な声を放つ。
「新開市のみんな! 今日も“公式”でいこう! でもね、アリスちゃんと市長さんは働きすぎ! 休息が必要! だから私たちが、見守る!」
見守る。
見守るために集まる。
集まって、視界を塞ぐ。
塞いで、列を作る。
ミコトちゃん天使
休ませるために学校行こう(?)
見守り隊集合
市長も休め(市長室前集合)
アリスちゃんのために“静かに”盛り上がろう!
静かに(大音量BGM)
お見舞いに行くのは善意だよね?
善意は正義(危険)
善意が、手順に似てくる。
義弘の端末にも、地図の通知が流れてくる。
学校周辺に、点が増えていく。人の点。
点が線になり、線が列になり、列が“導線”になる。
「……始まったな」
義弘は、椅子から立ち上がった。
膝が軋む。あのときの損傷は、まだ残っている。
トミーは、すでに肩に跳び乗っていた。
「だから言ったろ。列ができるって」
「治安側に連絡する」
「治安は“保全上”で濁す。だって善意だもんな」
義弘は、治安連絡の番号を押した。
鳴海、真鍋、そして高速機動隊の窓口。
繋がるまでが遅い。繋がっても、言葉が遅い。
「市長、学校周辺への人流が増えています。自主的な集会の範囲です」
「自主的であれば、なおさら危険だ。誰も責任を取らない」
「……保健支援の方からも要請がありまして。混乱防止のため、現場への干渉は――」
「干渉? これは治安だ」
義弘の声が低くなる。
低くなった声ほど、相手は丁寧になる。
「承知しました。可能な範囲で……」
可能な範囲。
可能な範囲という言葉は、何もしないことの化粧だ。
電話を切った瞬間、トミーが耳を立てた。
「……来る」
「何が」
「犬。犬みたいな“気配”。でも犬じゃない。音がない」
義弘の背中に、冷たいものが走った。
音がない、というのは“存在”の証明だ。
普通は、音がする。
音がないのは、消しているからだ。
夕方。
学校の裏手。
アリスは、ひとりで校舎の影を歩いていた。
保健室から“推奨”された帰宅ルート。
推奨ルートは、最短で、最も見られる。
視線が刺さる。
刺さるだけならいい。
刺さった視線が、写真になり、動画になり、まとめになり、札みたいに貼られるのが最悪だ。
彼女は、フードを深く被った。
スカーフを引き上げた。
視界が狭くなる。
その狭い視界の端で、空気が裂けた。
――音が、消えた。
足音も、風も、遠くの笑い声も。
吸い取られたように、世界が無音の膜に包まれる。
アリスは止まった。
止まるな、と身体が言う。
動け、と頭が言う。
NECROは、どちらにも従わず、勝手に《保全》を貼る。
そして、見えないものが近づく。
見えないのに、近づく。
近づくのに、音がない。
アリスの喉が、ひゅ、と鳴った。
鳴った音だけが、世界で唯一の音になる。
「……クウィラスじゃない」
彼女は言った。
クウィラスほど“冷たくない”。
でも、同じ匂いがする。
――オールドユニオンの影。
違う種類の“怪談じみた兵器”。
空気の圧が変わった。
何かが、狙いを定める。
その瞬間。
「アリス!」
義弘の声が、無音の膜を破った。
破れる音すらなく、破れた。
義弘が、校舎の角から飛び出してきた。
肩にトミー。手には都市戦用ブレード。
彼のバイザーが、暗闇を切り裂くように光る。
「来たか……!」
義弘は、見えない相手に斬りかかった。
だが刃が空を切る。
空を切るのに、何も切った感触がない。
相手は“そこ”にいない。
いるのに、いない。
義弘のブレードが、コンクリートに火花を散らす。
火花だけが、敵の輪郭を一瞬だけ照らした。
人間大。
ステルス装甲。
吸音。光学迷彩。
そして――対ハックの匂い。
「HOUND……?」
義弘が吐き捨てる。
アリスの脳裏に、別の記憶が刺さる。
資料の一行。
紙の端。
誰かの机の上で、さらっと載っていた“犬”。
《VX-07 HOUND》
――…………
音が、点線みたいに消えるのが、そこに書いてあった。
HOUNDは、義弘の背後を取る。
取ったのに、義弘は気づけない。
視覚も聴覚も、奪われる。
義弘の膝が、嫌な角度で沈みかけた。
アリスの胸が、ひゅ、と縮む。
――だめだ。
この人は、折れたら終わる。
アリスは、端末がなくてもできることを探した。
都市システムに触れない。
触れた瞬間、対ハックに弾かれる。
なら、自分の身体の内側。
NECROの隙間。
自分が自分に命令を出す。
「……起動。三人格。補助六。優先度、戦闘じゃない。視界だけ――」
声に出して命令する。
声に出すのは、恥だ。
でも、恥より命のほうが大事だ。
NECROが、ぎし、と軋んだ。
骨格のどこかが、冷たく鳴る。
それでも、彼女の視界に“データの翼”が一瞬だけ戻った。
ほんの一瞬。
その一瞬でいい。
アリスは、HOUNDの“無音”を逆に利用した。
無音は、周囲と違う。
違うものは、輪郭を持つ。
彼女は、地面の粉塵の動き、落ち葉の浮き方、空気の揺らぎだけを読み取る。
そこに“穴”がある。
穴が動く。
「右、三。膝の外側――!」
義弘が反応した。
年の功の狡知。
刃ではなく、足場を切る。
ブレードが、コンクリートの縁を抉った。
段差が生まれた瞬間、HOUNDの重心が崩れる。
崩れた“穴”に、アリスは最後の力で札を貼った。
《点検:最優先》
違う。
本来そんな札はない。
でも、手順は矛盾に弱い。
矛盾は、裂け目になる。
HOUNDが、ほんの一拍、迷う。
迷った瞬間、義弘の刃が“輪郭”を捉える。
ガン、と鈍い音。
やっと音がした。
装甲に刃が当たる音。
HOUNDは、後退した。
姿は見えない。
だが、いま確かに“逃げた”。
無音の膜が、少し薄くなる。
遠くの笑い声が戻る。
校門の方で、誰かが叫ぶ。
「うわ、いまの見た!? 市長!? アリス!?」
善意の列が、見世物の列に変わる気配がする。
最悪の変化だ。
アリスは、膝が震えるのを隠すために、壁にもたれた。
呼吸が浅い。
胸の奥が、熱い。
NECROが、また勝手に札を貼る。
《休養》
《休養》
《休養》
連打みたいに。
義弘が、アリスの前に立った。
彼は背中で壁を作る。
戦場で何度も見た背中。
守る背中。
「……来るのが遅くなった」
「うるさい、ジジイ」
言い返したのに、声が震えた。
悔しい。
悔しいほど、身体が言うことを聞かない。
トミーが、義弘の肩からぴょんと飛び降りて、アリスの足元に来た。
「ほら見ろ。お前が“要診断”って札を貼られた瞬間に、犬まで嗅ぎつけた」
「……ウサギのくせに偉そう」
「偉いから偉そうなんだよ」
アリスは笑いそうになって、咳き込んだ。
笑いは、体力を使う。
いまの彼女には贅沢だ。
義弘が、端末を見た。
画面に通知が出ている。
保健支援の担当から、丁寧すぎる文面。
《本日の件は“体調変化”の可能性があるため、次回より校外待機場所で面談を推奨します》
《拘束ではありません》
《安全のためです》
《同意に基づきます》
義弘の目が細くなる。
「……校外へ出す気だ」
アリスは、壁にもたれたまま、遠くを見た。
校舎の窓。
そこに反射する夕日。
夕日の中に――一瞬だけ、白いものが見えた気がした。
白い手袋。
両手だけが、やけに白い。
顔は見えない。
背丈も分からない。
ただ、手順に慣れた手つき。
次の瞬間、反射は消える。
見間違いかもしれない。
でも、見間違いという言葉は、この街では信用できない。
アリスは、喉の奥で小さく呟いた。
「……“拘束じゃない”って言い方、いちばん嫌い」
義弘は答えない。
答えない代わりに、刃を収めた。
彼は市長だ。
手続きで動く。
手続きは遅い。
だが、遅いものほど強いときもある。
アリスは知っている。
手順に勝つには、手順を裂かなきゃいけない。
裂け目は、いま生まれた。
HOUNDが迷った、あの一拍。
あれが裂け目だ。
その裂け目に、また札が混ざり始める。
校門の方から、誰かの声が飛ぶ。
「え、いまの札なに!? “点検:最優先”って出たぞ!」
「新しい札きた!?」
「アリスが何かした!?」
「健康管理より点検が上なの草」
「いや草じゃない、怖い」
「札が増えてるのはやばい」
アリスは、笑えなかった。
札が増えるのは、勝利じゃない。
――手順が、混乱しているだけだ。
混乱は、怒りに変わる。
そして怒りは、次の「最優先」を作る。
アリスの胸の奥で、NECROが低く鳴った。
ぎし、ぎし、ぎし。
臨界は、近い。
近いのに、誰も気づかない。
気づかないまま、街は今日も“見守る”列を作る。
義弘が言った。
「帰るぞ。……今夜は、俺が送る」
「……拘束じゃないんだよね?」
アリスは、わざと意地悪く言った。
義弘は、ほんの少しだけ笑った。
「拘束じゃない。これは、俺のわがままだ」
その言葉だけが、今日の中で一番まともだった。
アリスは立ち上がろうとして、足がもつれた。
義弘が支えた。
支える手が、硬い。
硬いのに、温かい。
その背後。
見えない場所で。
誰かが、淡々と“次の札”を準備している気配がした。
《保全:移送準備(推奨)》
夕暮れの空気に、紙の角が擦れるような音がした気がした。
錯覚かもしれない。
でもこの街では、錯覚が一番厄介だ。




