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第八十一話 公式の胃袋

 市長室の窓から見える新開市は、いつもより“整って”いた。


 整っている、というのは良い言葉だ。

 それは安全だ。清潔だ。わかりやすい。

 観光客にはちょうどいい。


 ――だから、怖い。


 歩道の角が揃えられている。

 柵の位置が揃えられている。

 ARの案内矢印が、視界の隅で同じ角度で揃っている。


《新開市サムライ観光週間:推奨ルート》

《危険区域:立ち入り推奨されません》

《休憩所:推奨》

《健康管理:推奨》


 “推奨”。


 義弘は、その二文字を見るたびに、札の残像を思い出すようになっていた。

 あの時は紙だった。剥がせた。燃やせた。怪談にできた。

 今は――言葉だ。制度だ。善意だ。


 机の上に積まれた資料の山は、紙なのに、胃袋みたいに見えた。

 飲み込んだものを、二度と返さない。


 トミーが窓枠に前足をかけ、外を眺めて鼻で笑った。


「すげえな。街が“正しい顔”してる」


「正しいのは悪くない」


「悪くないから、殴れるんだよ」


 義弘は答えず、資料の最上段をめくった。

 タイトルは、妙に清潔で、妙に強い。


『観光資源化に伴う安全導線の最適化(暫定)』

『治安協力体制の可視化(推奨)』

『市長の健康管理と対外説明(推奨文例)』


 ――推奨文例。


 その言葉が、喉に刺さる。

 言葉の形まで決められたら、人間はもう半分ロボットだ。


 ノックが三回。


「市長、次の“ご相談”に入ります」


 扉の外に立つ職員の声は穏やかだった。

 穏やかで丁寧で、しかも急いでいる。


 義弘は背筋を伸ばし、いつもの顔を作った。

 百戦錬磨の顔。

 ――市長の顔。


「入れ」


 扉が開く。


 列が入ってきた。


 列。

 列は札がなくても生まれる。

 札は列を“説明”する。

 説明された列は、正しくなる。

 正しくなった列は、折れない。


 観光庁ルートらしい担当、企業の誘致担当、交通の調整担当、配信プラットフォームの渉外、保健所、そして……「監査同行」と印字されたカードを胸に付けた者。


 誰も敵の顔をしていない。

 全員が善意の顔をしている。


「市長、観光週間に向けた安全導線について――」


「市長、海外の視察団が増えています。歓迎のコメントを――」


「市長、体調管理の観点から、本日の稼働時間を――」


 “言葉が胃袋”に落ちてくる。

 義弘は一つずつ受け止め、返す。受け止め、返す。

 噛む。飲み込まない。


 トミーが机の端で座り、列を見回して小さく言った。


「ほらな。善意の口から出てくる言葉は、歯が鋭い」


 義弘は咳払いして、紙を一枚だけ抜いた。


「安全導線は認める。ただし、“現場”の裁量を残せ。

 現場を胃袋に入れるな。噛めなくなる」


 監査同行のカードを付けた男が、薄い笑みを浮かべるでもなく、丁寧に頷いた。


「承知しました。推奨文例に沿って調整します」


 推奨文例。

 またそれだ。


 義弘は口の中で、舌打ちを飲み込んだ。


 その時、窓の外で一瞬だけ、光が跳ねた。


 巨大な札の残像――巨人。

 あの“札の巨人”が、もう一度だけ窓にへばりついたような錯覚。


 義弘は瞬きをして、消した。

 消えないものは見ない。市長の技術だ。


 同じ頃。


 アリスは、教室の端で、静かに息を数えていた。


 制服。

 灰色のパーカー。

 スカーフ。

 黒ニーソックス。


 日常の格好だ。

 日常の格好は、安心するはずなのに。


 指先の感覚が、薄い。


 鉛筆を持つ。

 持ったはずなのに、持っていないような距離感。

 指と鉛筆の間に、透明な膜がある。


 視界の隅に、勝手に並び替わる優先順位が見える。


《休養:推奨》

《経過観察:推奨》

《診断待ち:推奨》

《活動:推奨されません》


 ――“推奨されません”。


 紙じゃない。

 札でもない。

 だが、札の匂いがする。


 アリスは笑いそうになって、笑わなかった。

 笑うと、崩れる。


 チャイム。

 次の時間。

 教師が話す。

 友達ということになっているクラスメイトが笑う。


 すべて、普通。


 普通の中に、普通ではないものが混ざっている。


 保健室からの呼び出し票。


『健康管理面談(要診断)』


 “要診断”。


 それは鎖ではない。鎖ではないと言い張れる言葉。

 拘束ではない。拘束ではないと言い張れる手順。


 アリスは、紙を指で弾いた。

 弾く動きが遅い。

 ほんの少しだけ、遅い。


 ――自分の身体が、自分のものじゃなくなっていく。


 あの日、白い部屋で鎮静が薄れて、怒りが戻った時。

 怒りと一緒に翼の残像が戻った時。


 戻ったはずの翼は、今、また薄い。


 教室の窓の外で、観光用の旗が揺れている。


『WELCOME SHINKAI — SAMURAI HERO CITY』


 アリスは小さく舌打ちした。


「……バカじゃないの」


 その瞬間、背中の奥――骨の裏側に、熱が走った。

 熱ではない。

 “過負荷”の警告。


 NECROの中で、誰かが静かに囁く。


《保全》

《休養》

《点検》

《最適化》


 アリスは、心の中で殴り返した。


(うるさい。黙れ。私は――)


 続きの言葉が、出なかった。


 出ない。

 出ないことが、いちばん怖い。


 保健室は白かった。

 白いカーテン、白い棚、白い消毒液の匂い。


 先生は優しい顔で、アリスに椅子を勧めた。

 その優しさが、いちばん硬い檻だ。


「アリスさん、体調どう?」


「別に」


「別に、ね。うん。じゃあ、“要診断”の説明をするね」


 先生は紙を出した。

 紙の角が揃っている。

 揃いすぎている。


「これはね、拘束じゃないの。大丈夫。

 “経過観察”っていう形で、あなたの負担を減らすためのもの」


 アリスは黙って聞いた。

 聞いている間に、視界の端に文字が浮かぶ。


《要診断:診断待ち/経過観察》

《同伴者:推奨》

《移動:推奨ルート》

《外出:事前連絡(推奨)》

《戦闘行為:推奨されません》


 ――これが“限定的に解放”だ。


 完全収容ではない。

 檻に入れられたわけじゃない。

 ただ、檻の外に“推奨の柵”が作られているだけ。


 アリスは、先生の机の端を見た。


 そこに、小さな紙片があった。

 何かのメモ。

 誰かが置いていったような。


 紙片の端が、やけに綺麗に揃っている。


 そして、白い粉のように薄い繊維が、ほんの少しだけ付いている。


 ――白い手袋の繊維。


 アリスは喉の奥が冷たくなるのを感じた。


(ここまで来てる)


 先生が優しく続ける。


「あなたはね、頑張りすぎ。

 みんな、あなたの回復を願ってる。

 新開市の人たちも――」


 言葉の途中で、保健室の廊下がざわめいた。

 生徒ではない足音。

 職員でもない足音。


 コツ。

 コツ。


 アリスの背筋が反射で伸びる。

 その反射が、少し遅れる。


 先生が立ち上がる。


「大丈夫。心配しないで。今日は“要診断”の説明だけ――」


 扉が開いた。


 そこにいたのは、校内の誰でもない。

 制服でもない。医療でもない。警察でもない。


 ただ、袖口だけが白い。


 白い手袋。


 顔は見えない。

 見せない位置に立っている。

 しかし、手だけがはっきり見える。


 その手が、紙を一枚差し出した。


 先生が受け取る。

 受け取る動作が、まるで決められた振り付けみたいに滑らかだ。


「えっと……こちらは……」


 先生の目が紙を追い、声が一段だけ硬くなる。


「……“要診断の継続”」


 アリスは、内心で笑った。


(継続。札の語彙)


 白い手袋の人物は、何も言わない。

 ただ、指先で紙の角を揃えるように軽く叩いた。


 トン。


 その音が、保健室の空気を変えた。

 優しさが、手順に変わる音。


 先生が、申し訳なさそうに笑った。


「アリスさん。今日はね、説明だけのはずだったけど……

 “診断の待機場所”が変更になったって」


 アリスは、椅子の背に指を掛け、立ち上がろうとした。


 立ち上がる。

 ――立ち上がれない。


 膝が言うことを聞かない。

 筋肉が“最適化”の名目で、力を抜く。


 視界に文字が重なる。


《休養:最優先》

《抵抗:推奨されません》


 アリスは歯を食いしばった。


「……拘束じゃないんだろ」


 先生が慌てて首を振る。


「違う違う、拘束じゃない。

 あなたのため。安全のため。回復のため」


 白い手袋が、床に落ちた紙片を拾った。

 拾って、角を揃えた。

 揃えて、ポケットにしまった。


 アリスは見た。

 その手が、慣れすぎていることを。


 怪談の清掃員は札を剥がす。

 この手は札を揃える。


 同じ“清掃”でも、方向が違う。


 保健室の窓の外で、生徒がスマホを見て笑っている。

 画面には刀禰ミコトの配信。


『今日も新開市、すごいよ!

 市長も頑張ってる!

 アリスちゃんも“健康管理”だって! 良かったぁ!

 みんな、応援しよ!』


 コメントが流れる。


「アリスちゃん休んで!」

「治療が先!」

「守られてて安心」

「健康管理(最優先)ってあれw」

「でも正しいよね」

「善意の圧」


 善意の圧。


 アリスは小さく笑った。

 笑顔じゃない。

 笑いだ。


「……世界って、ほんと便利だね」


 白い手袋の人物が、初めて動く気配を見せた。


 手袋の指先が、アリスの前に差し出される。

 触れない。触れないが、触れたのと同じだ。


 圧がかかる。


 アリスの身体が、ほんの少しだけ、前へ倒れかける。


 先生が慌てて支えた。

 支える手が震えている。


「ごめんね……ごめんね……」


 謝る相手は誰だ。

 アリスか。

 手順か。

 善意か。


 廊下の奥で、コツ、コツ、と足音がした。


 ――怪談の足音みたいに。


 アリスは反射でそちらを見た。

 暗い廊下の曲がり角に、ほんの一瞬だけ、小さな影が見えた。


 女の子。

 輪郭だけ。

 指を伸ばして――“出口”ではなく、白い手袋の背後を指した。


 次の瞬間、何もいない。


 先生は見ていない。

 白い手袋も、見ていないふりをした。


 アリスだけが見た。


 それが救いなのか、

 ただの幻なのか、

 判断する余裕はない。


 白い手袋が、先生に向けて小さく頷いた。

 頷きは命令だ。


「……行きましょう、アリスさん。

 “待機場所”へ」


 待機場所。

 拘束じゃない。

 ――拘束じゃないと言い張れる檻。


 アリスは歯を食いしばり、足を動かそうとした。

 足が動かない分、心で足掻いた。


(私は、まだ)


 その瞬間、ポケットの中の小さな部品が指に触れた。

 シュヴァロフの、欠けた装甲の破片。

 修理中の机から持ってきたもの。


 アリスは、それを握りしめた。


(諦めない)


 保健室を出る。

 廊下の先で生徒が振り向く。

 見慣れた“悪い子”を見る目ではない。


 “守られるべき子”を見る目だ。


 善意の目。


 善意の目は、銃よりも真っ直ぐ刺さる。


 同じ時間。


 市長室では、列が途切れなかった。


 義弘は、紙に署名しないまま、紙の上を走り回っていた。

 署名しないために。

 受領しないために。

 同意しないために。


 トミーが椅子の背に乗り、義弘の耳元で言った。


「なあ。アリス、見に行かなくていいのか」


 義弘のペンが止まる。


「……要診断だ。拘束じゃない」


 言った瞬間、自分の声が嘘みたいに聞こえた。

 拘束じゃない。

 拘束じゃないと言い張れるだけ。


 トミーが目を細めた。


「その言葉、札と同じ匂いがするぞ。

 ジジイ。お前のアキレス腱は、アリスだって、俺は知ってる」


 義弘は視線を上げ、窓の外を見た。


 観光の旗。

 推奨ルート。

 列。

 善意の街。


 巨人の残像が、また窓にへばりつく錯覚。


《健康管理:最優先》


 義弘は、息を吐いた。


「……行く」


 列の誰かが言った。


「市長、次のご相談が――」


「後回しだ」


 義弘は立ち上がった。

 立ち上がりながら、自分でも分かる。


 これは市長の判断ではない。

 サムライの判断だ。


 そして、その判断を――

 “推奨”がどこまで追いかけてくるか。


 扉を開けた瞬間、床に一枚の紙が滑ってきた。

 誰も投げていない。

 勝手に来たように見える。


 角が揃っている。


《健康管理:最優先(対象:アリス)》


 義弘は拾わない。

 拾わずに、靴先で押さえた。


「推奨は拒否できる」


 呟く声は、小さかった。

 だが、どこかで白い手袋が、紙の角を揃える音がした気がした。


 カサ。


 その音が、追いかけてくる。

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