第八十話 内側へ
列は、善意でできた。
市長室の前――木目の壁と白い蛍光灯の廊下に、誰かが「並べ」と言ったわけでもないのに、人が並んでいた。
市の職員、協力企業の担当、保健師、監査同行の名札を下げた者。みな、困った顔と正しい顔を同時に持っている。
そして、視界の端に札の残像がちらつく。
《健康管理:最優先》
《過労対策》
《相談:推奨》
《同席:推奨》
義弘は背広の襟を直し、机の上の書類の角を揃えた。角を揃える行為が、すでに“手順”に触れているようで気味が悪い。
トミーが窓辺の椅子の背に跳び乗り、耳を伏せて言った。
「なあ、ジジイ。これ、もう胃袋の入口が市役所に生えてるぞ。……札の匂いがする」
「市役所に胃袋はない」
「あるんだよ。できたんだよ。人が並んだ時点で」
義弘が返す前に、廊下の先から“案内役”が現れた。顔は薄い。声は丁寧。名札は読みやすい。
《監査同行》
案内役は一礼し、紙束を差し出した。
「市長。健康管理と監査同席について、簡易確認をお願いします。
“強制”ではありません。推奨です」
推奨。
その言葉だけで、拒否が難しくなる。
真鍋佳澄が、義弘の背後に立っている。警部補の制服はいつものままなのに、今日は護る顔ではなく“同席する顔”だ。
「津田さん。これ、止められません」
真鍋が小声で言う。
「止められない制度なんて、制度じゃない」
「制度じゃなくて……世論です。善意です。
“市長が過労で倒れたら責任は誰が取るんですか”って」
廊下の列から、誰かが小さく咳をした。
それが合図みたいに、列の空気が固くなる。
義弘の端末が一度だけ震えた。
通知ではない。確認の振動。
画面に一行。
『市政判断を尊重する。必要に応じて記録を参照する。』
署名はない。
丁寧で冷たい文体だけが残る。
――沈黙は、いつも同じ言い方をする。
トミーが鼻で笑った。
「助けないって言ってるだけだろ。上品に」
義弘は画面を閉じた。閉じる動作が、受領の代わりにならないように、そっと。
「監査はどこで?」
案内役が、にこりともしない笑顔で答えた。
「未完成リング内側です。
市長の同席は、“推奨”から“必須”に切り替わりました」
真鍋が眉をひそめる。
「切り替えって……誰が?」
案内役は、答えの代わりに紙を揃えた。
揃えた音が、妙に乾いて響く。
カサ、と。
その音だけで、義弘は思い出す。
現場で見た白い手袋。姿は見えず、手順に慣れた手つきだけが印象に残る“影”。
監査記録官。
姿は見えない。
だが、ここにいる。
義弘は息を吐き、椅子の背から上着を取った。
「行く。……ただし、こちらの条件も確認する」
案内役は頷いた。
「条件は推奨文例に沿ってください」
「……ふざけるな」
言いかけて、義弘は口を閉じた。
怒声は札になる。
札になると、勝てない。
トミーが、義弘の靴の上にぴょんと飛び降りる。
「歩き方、変えろ。走るな。走ったら“異常”って札が貼られる」
「分かっている」
「分かってる顔じゃねえ。噛まれる顔だ」
列は市役所を出た。
外の空気は冷たいはずなのに、リングへ向かう道は湿っている。紙の匂いと、薬品の匂いが混ざる。
途中、刀禰ミコトの配信がどこかの店のスピーカーから漏れていた。
善意の声が、街を煽る。
『みんなー! 市長が“健康管理”でリングに行くって!
え、怖い? でもね、休むのも強さだよ!
頑張りすぎはダメ! 市長、無理しないで!』
その声に重なるように、視聴者コメントがARの層を流れてくる。
「市長、休め」
「健康管理(最優先)こわw」
「リング内側、また列できてる?」
「怪談の場所じゃん」
「足音するってやつ?」
怪談。
足音。
義弘の背筋が一瞬だけ冷えた。
未完成リングの入口に着くと、札が増えていた。
前回よりも、文字が強い。
《安全点検:実施》
《健康管理:即時》
《監査継続:必須》
《同席:市長(必須)》
《同行:推奨》
《護衛:推奨》
推奨が、必須の横に立つ。
優しさが、刃の横に立つ。
そして、音が薄くなった。
街のざわめきが膜の向こうになる。
耳に入るはずの雑音が、吸い取られる。
吸音。
義弘は知っている。
クウィラス。
見えない制止が、列の横に立った。
真鍋が小さく息を吸う。
吸った音さえ消える。
「……いますね」
「いる」
義弘は頷かずに答えた。頷きは同意になる。
リング内側へ入る。
通路は狭く、曲がり、降りる。
札が壁を覆っている。
包帯みたいに。
あるいは――消化器官の襞みたいに。
トミーが鼻を鳴らす。
「臭ぇ。札を守る薬の臭いだ。……胃液だな」
通路の奥で、コツ、と音がした。
足音。
義弘は立ち止まりかけた。
だが列は止まらない。止まると“滞留”になる。
コツ。
コツ。
リングの鉄骨のどこかを、誰かが歩いている。
真鍋が振り向く。
「今……」
「聞こえたな」
義弘が言うと、案内役が即座に口を挟む。
「気のせいです。
未完成リングは温度差で金属音がします。
ご心配は“推奨されません”」
推奨されません。
その言葉が、怪談を封印する。
封印された怪談は、余計に重くなる。
さらに奥へ。
受付のような広間が開けた。
そこにいるのは、人ではない。
作業ドロイドが一体。柔らかい樹脂の顔に丁寧な笑顔。
胸から腹にかけて、札が何十枚も貼られている。
《面会:暫定許可》
《記録:必須》
《同席:必須》
《健康管理:最優先》
《健康管理:最優先》
《健康管理:最優先》
重ね貼りの鱗。
ドロイドが、丁寧に言う。
「ようこそ。こちらは健康管理および監査同席の受付です。
質問は推奨文例に沿ってください」
真鍋が歯を噛む。
「……受付が推奨文例?」
「はい。逸脱は推奨されません」
義弘は背広の袖を直し、声を整えた。
「監査対象の中枢へ入る。
“必須”の根拠を提示しろ」
ドロイドの胸の札が点滅する。
《根拠:提示(推奨)》
《根拠:提示(推奨)》
《根拠:提示(推奨)》
札が光るだけで、言葉は出ない。
根拠は札。
札が根拠。
その時、通路の端――影のような場所に、白いものが一瞬だけ見えた。
白い手袋。
しゃがみ込んで、落ちた札を拾い、角を揃え、
何事もなかったように、視界の外へ消える。
義弘は目を細めた。
姿は見えない。
だが、手順の慣れた手つきだけが残る。
監査記録官。
トミーが小声で言う。
「見たか? 白手袋。あいつ、ここで“胃袋”を整えてる」
義弘は返事をしない。
返事をすると、記録される。
代わりに、トミーが動いた。
トミーは受付ドロイドの足元へふらりと歩き、床の札を前足で軽く叩く。
そこには二枚、重なって貼られていた。
《面会:暫定許可》
《健康管理:最優先》
「おい、受付さん。面会したいけど健康管理が最優先。
面会も最優先? どっちが上だ?」
ドロイドが沈黙した。
一秒。二秒。
沈黙の間に、札が一枚増えた。
《緊急確認:最優先》
裂け目。
裂け目に、上から声が落ちてきた。
スピーカーではない。
端末でもない。
“噂”の声。
掲示板みたいな軽い文体が、ノイズに混ざって流れる。
『足音、したよ』
『札、剥がすと怒るんだって』
『内側に清掃員いる。札を剥がしてくれるらしい』
『え、亡霊の子が指さしたってやつ?』
ほんの一瞬。
怪談の断片。
義弘の胸が、かすかに熱くなった。
――アリスの仕込みだ。
怪談の口調で、手順に矛盾を食わせる。
ドロイドの札の点滅が、一拍だけ乱れた。
義弘は走らない。
歩く速度だけを刃にして、扉へ進む。
扉の札。
《本件:監査継続》
《同席:必須》
《健康管理:即時》
義弘は、懐から紙を一枚出した。
第79話で白い手袋が置いていった紙だ。
《本件:監査継続》
扉の前に当てると、僅かに開いた。
――鼓動が聞こえた。
中枢の点滅。
モニターが心臓の鼓動のように、不気味に明滅している。
胃袋の奥。
義弘が覗き込んだ瞬間、背後の空気が固くなる。
見えない刃が、肩へ触れた。
触れただけで、関節が重くなる。
スーツを着ていないのに、装甲の制止みたいに。
クウィラス。
真鍋が一歩前に出ようとして、札を見て止まる。
《同行:必須》
《保護:推奨》
《逸脱:推奨されません》
“正しい”が足を縛る。
義弘は扉を開きかけて、閉めた。
閉める。
今は、閉めるしかない。
扉の隙間から、紙が吐き出される音がした。
プリンタではない。口だ。
紙が一枚、床を滑って義弘の靴先へ触れた。
《市長:適応》
次が滑る。
《市政:最適化》
次が滑る。
《サムライ活動:制限推奨》
そして最後。
《アリス:回復優先(移送推奨)》
真鍋が凍る。
「……移送?」
トミーの耳が逆立つ。
「回復のために連れてく。
善意だ。善意で人質にする」
義弘は紙を拾わない。
拾えば受領になる。
受領は同意になる。
だから靴先で紙を押さえ、低い声で言った。
「推奨は、拒否できる」
受付ドロイドが丁寧に返す。
「逸脱は推奨されません」
その丁寧さの裏で、カサ、と音がした。
紙を整える音。
白い手袋が、どこかで拍子を取っている。
コツ、コツ、と再び足音がした。
今度は近い。
通路の向こう、扉の上――暗い梁の上。
義弘が目を上げた瞬間、視界の端に“影”が滑った。
小さな女の子が、いるように見えた。
白い髪でもない。フードでもない。
ただ、輪郭だけが薄い。
そして、指を一本だけ伸ばして――
義弘の背後ではなく、扉の向こうではなく、
“受付ドロイドの足元の札”を指した。
次の瞬間、光が戻り、何もいない。
真鍋が息を呑む。
「今……見ました?」
義弘は答えなかった。
答えると、怪談が記録になる。
記録になると、手順に取り込まれる。
トミーだけが、小さく言った。
「……味方だ。たぶん」
義弘は深く息を吐き、背を伸ばした。
「戻る」
真鍋が抗議しかける。
「津田さん、引くんですか」
「引かない」
義弘の声は冷たい。
「歯を作る。
胃袋に飲まれる前に、咬み返す手順を用意する」
列は、何事もなかったように外へ向かい始めた。
外へ出る途中、入口の札が一枚だけ増えていた。
《次回:現地確認(対象:学校/保健室)》
義弘の胸が、嫌な音を立てた。
札の腕が、市役所ではなく学校へ伸びた。
そして、誰にも見えない場所で、
白い手袋が紙を一枚だけ揃えた。
カサ。
その音は、足音よりも怖かった。




