第七十九話 面会は許可された
面会室は、清潔な檻だった。
柔らかい色の椅子。角の丸いテーブル。壁の花。
それらが“安心”の形をしているのに、配置だけが妙に正しい。
視線が通る。死角がない。逃げ道がない。
そして壁には、紙が貼られていた。
《面会:暫定許可》
《録音・録画:制限》
《発言:推奨文例》
《健康管理:最優先》
義弘は、紙の角を見ただけで胃が冷えた。
角が揃いすぎている。
“人”の貼り方ではない。手順の貼り方だ。
真鍋佳澄が、息を吸って、吐かなかった。
「……“発言:推奨文例”?」
テーブルの上に、同じ紙質の冊子が置かれている。
質問テンプレート。確認リスト。
監査のはずが、いつの間にか“同意”を取る側の道具になっている。
トミーが肩の上で耳を伏せ、机の端を嗅いだ。
「なあ、ジジイ。ここ、言葉に値札が付いてるぞ。喋った瞬間に取られる」
「喋らなければ始まらん」
「だから“喋らせ方”が用意されてんだろ」
受付の女性――いや、もはや受付という役割ではない。
“案内”の顔が、薄い微笑で言った。
「監査開始のご宣言、確認いたしました。こちらへ」
面会室の奥、薄いガラスの向こうに、もう一つ白い空間が見えた。
そこに、椅子が一脚。
誰かが座っている。
小柄な影。フード。長い髪。
アリスだった。
義弘の胸の奥で、言葉が暴れた。
返せ。連れ出す。今すぐ――。
トミーの爪が、義弘の襟元を軽く引っ掛けた。
「言うな」
義弘は唇を噛み、代わりに言った。
「監査対象の状態を確認する。説明責任は誰が負う」
案内の顔が、頷いた。
頷き方が“回答”ではない。
“手順の次”を示す動き。
「こちらの項目に沿って、ご確認ください」
義弘の前に、紙が一枚追加された。
いつの間にか増えている。
《質問:推奨》
《質問外:推奨されません》
《逸脱:推奨されません》
真鍋が、ほとんど音を立てずに舌打ちした。
「……監査って言いながら、監査させる気がない」
義弘は紙をめくらない。
めくると“同意した”ことになる気がした。
ガラスの向こうで、アリスがこちらを見た。
目は鋭い。
なのに、瞬きが少し遅い。
身体の反応が、ほんの少し“良すぎる”――整えられすぎている。
アリスが口を開いた。
「……何しに――」
語尾がほどけた。
声が、途中で小さくなる。
まるで、誰かが音量を“推奨値”まで下げたみたいに。
壁の札が、淡く点滅した。
《鎮静:推奨》
《不安:管理》
真鍋が、顔色を変えずに目だけで怒る。
「今……声が削られた」
義弘は拳を握らない。
握ると“抵抗”になる。
抵抗は札になる。
だから、言葉だけを刃にした。
「本人の意思でここにいるのか」
案内の顔が答えるより早く、紙が増えた。
《本人同意:確認(推奨)》
《本人意思:推奨文例》
“本人”が答える前に、“本人の答え方”が配られる。
義弘の背骨が、静かに軋んだ。
アリスが、唇を歪めた。
毒を吐く顔だ。
吐けるなら――吐け。
「……本人の――」
アリスは、言い直そうとして喉を止めた。
目の奥で、怒りが燃えたのに、身体が“整って”それをなだめる。
札が点滅する。
《健康管理:最優先》
最優先。
その言葉が、あまりに正しいから、誰も殴れない。
トミーが、机の端から床へ降りた。
小さな足で、紙の匂いを嗅ぎながら歩く。
「……あ?」
トミーの鼻が止まる。
床の隅。テーブル脚の陰。
そこに貼られた札が、二枚重なっている。
《面会:暫定許可》
《健康管理:最優先》
優先順位が、同じ場所で喧嘩している。
同時に成立しない。
トミーは、わざとらしく尻尾を振り、テーブルの脚に体をこすりつけた。
――コップが倒れた。
水が広がり、紙が濡れ、机の上の冊子がずれた。
案内の顔が、一瞬だけ固まる。
拾うべきか。止めるべきか。
拭くべきか。注意すべきか。
“推奨”が多すぎて、手順が迷う。
その一秒の裂け目に、アリスが息を吸った。
「……来んなって言ったろ、ジジイ」
声は小さい。
でも、言葉の芯は残った。
義弘は、ほんの少しだけ頷いた。
「来た」
その二文字が、監査でも手順でもない。
ただの“家族の返事”だった。
裂け目が閉じる。
案内の顔が動く。紙が増える。
そして、空気が消えた。
音が、吸われる。
義弘のバイザーの端に、ノイズが走った。
視界の片隅が歪む。
姿は見えない。
だが、圧がある。
クウィラス。
“見えない制止”が、部屋に立った。
義弘が一歩でも踏み込めば、刃は折られる。
折られるのは刀じゃない。
言葉だ。手順だ。監査だ。市長印だ。
真鍋が、肩で息をせずに言う。
「……津田さん。ここで動いたら、あなたは“治療妨害者”になります」
義弘は動かない。
動かないことでしか、守れない時がある。
ガラス越しに、アリスの手がテーブルの端に乗った。
指が震える。
震えるのに、すぐ収まる。
勝手に“最適化”されていく。
アリスの視線が、義弘の背後――空気の歪みへ向いた。
見えているのか、見えていないのか。
分からない。分からない方が怖い。
案内の顔が、紙を一枚、真鍋に渡した。
《市長の安全配慮:推奨》
《公衆の安心:推奨》
《象徴の保全:最優先》
真鍋の指が、紙の端を押さえる。
怒りで紙を折らないように。
折ったら“拒否”になる。
「……アリスさんのためじゃない」
真鍋の声は、冷たいのに震えた。
「市のためでもない。“象徴”のためです」
義弘は、奥歯を噛み締めた。
象徴。
誰の?
誰の都合で?
トミーが小声で笑う。
「ほらな。お前もアリスも、名前じゃなくてラベルだ。
“市長”と“最優先”だ」
義弘は、監査官に向けて言うべき言葉を探した。
探す間に、紙が増える。
増える紙が、義弘の喉を塞ぐ。
――その時。
ガラスの向こうの廊下で、スン、と呼吸がした。
犬が匂いを嗅ぐ前の息。
アリスの瞳が細くなる。
「……ハウンド……」
義弘の背中に、冷たい汗が浮いた。
ここにいるはずがない。
だが、匂いは嘘をつかない。
“善意”の配置。
治安協力。健康管理。
そういう名目で、兵器が滑り込む。
案内の顔は、何も聞こえないふりをした。
聞こえないふりのプロだ。
紙が、最後に一枚だけ増えた。
《健康管理:最優先(対象:市長/継続)》
《監査継続:推奨》
義弘の喉が、ひりついた。
市長にも札が貼られる。
貼られるのは、噂ではない。現実の紙だ。
そして、白い手袋の影が、床を滑った。
姿は最後まで見えない。
見えないから、否定もできない。
机の上に、薄い紙が一枚だけ置かれる。
置かれ方が丁寧すぎて、優しすぎて、怖い。
《本件:監査継続》
《同席:市長(推奨)》
《場所:未完成リング/内側》
真鍋が紙を見て、息を呑む。
「……戦場を指定してきた」
義弘は紙を折らなかった。
破かなかった。
握り潰さなかった。
ただ、紙の重さを掌に受けた。
ガラスの向こうで、アリスが小さく笑った。
笑いではない。
歯を剥く代わりの、苦い表情。
「……最短で迷うんだろ。ジジイ」
義弘は、初めて目を逸らさずに言った。
「迷う」
そして、監査官に向けて、もう一度だけ言葉を整えた。
「監査は継続する」
白い手袋の影が、頷いた。
頷き方が手順そのものだった。
面会は許可された。
救出は、まだ許可されない。
扉の外の廊下に、吸音の静けさが戻る。
その静けさの中で、犬の呼吸だけが一度、近づいて――遠ざかった。




