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第七十八話 監査の入口

 朝の光が、窓ガラスに貼り付いたまま動かない。

 義弘は市長室の机の列を、指先で一度だけ撫でた。紙の角が、揃いすぎている。


 トミーが肩の上で鼻を鳴らす。


「なあ、ジジイ。これ……“列”が机にできてる時点で終わってんだよ。お前が作ってんじゃねえ。作られてんだ」


「分かっている」


 義弘は、最上段の書類を引き抜いた。

 市長印が押された文書。

 “救出”ではない。

 “監査”だ。


 送信ボタンを押した直後、端末が一度だけ震えた。

 メール着信の小さな音。

 早すぎる。


 画面には、丁寧で美しい文面。


《監査要請:受理》

《監査対応:最優先》

《情報開示:制限》

《同席者:必要最小限》

《案内開始:本日》


 義弘は、無言で画面を見つめた。

 “拒否”ではない。

 “案内”だ。


 トミーが毒を吐くより先に、真鍋佳澄から通信が入った。


『津田さん。今、同じ文面が市警にも来ました。……早すぎます』


「同席者は必要最小限だそうだ」


『なら、私が行きます。あなたが“監査”という言葉を守れるかどうか、見張る役が必要です』


 真鍋の声は冷たい。だが、冷たさの奥に、僅かな焦りがある。

 “正しい手順”の匂いを嗅いでいる。


『今日、“返せ”って言ったら終わりです。言葉が札になります。』


「分かっている」


『分かってる人ほど、口が滑るんです』


 通信が切れた。


 *


 路地の暗がり。

 八重蔵はいつも通り茶をすすっていた。

 服はボロいのに靴だけ新しい。逃げ道の靴。


「おや、市長サマ。今日は“顔”が固いねえ」


「道を寄こせ」


「道、ね」


 八重蔵は笑って、薄い紙の束を差し出した。

 地図ではない。

 地図のような“欠け”だ。


 新開市の監視網。更新工事。

 そこだけ、白紙の島みたいに空白が浮いている。


「搬送車が通った道。カメラが“欠けた”場所。欠け方が綺麗すぎる」


「どこへ繋がる」


「施設さ」


「病院か」


「“施設”だ。言葉がそう言ってる」


 八重蔵は茶碗を置いた。


「白い場所は、最短で迷う。最短で戻れない。

 それでも行くなら、行きな」


 トミーが地図を嗅いで、鼻で笑った。


「紙が白いんじゃねえ。匂いが白い」


 義弘は紙束を懐に入れ、背を向けた。


 *


 施設の看板は普通だった。

 “健康管理センター”のような、曖昧に安心する名前。

 入口には花。受付には笑顔。壁は清潔な白。


 だが、音が少ない。


 靴底の摩擦が、床で消える。

 息が、廊下に吸われる。


 真鍋佳澄が、すぐ横で小さく言った。


「……吸音材?」


 義弘は視線を動かした。壁の角。天井の継ぎ目。

 どこにも“特殊”は見えない。

 見えないのが特殊だ。


 受付の女性は、丁寧すぎる微笑で頭を下げた。


「本日は監査のご来訪、ありがとうございます。こちらで手順をご案内します」


 主語が薄い。

 “誰が”がない。

 義弘は喉の奥に言葉を溜めた。


「案内は誰の権限だ」


「最適化された経路です。逸脱は推奨されません」


 返答は質問の形をしていない。

 回答ではなく、布告だ。


 トミーが肩の上で耳を伏せた。

 動物の勘が、床の下の何かを踏んだ。


「……ジジイ、ここ。くせえ」


 義弘は、少しだけ頷く。


 受付が紙を差し出した。

 角が揃い、紙質が札に近い。

 署名だけが名乗っている。


《監査記録官》


 真鍋が紙を取り、細い指で文面を追った。

 目が、ほんの一瞬だけ硬くなる。


「……同席者、必要最小限。

 録音・録画、制限。

 移動経路、指定。

 質問、事前提出を推奨……」


 “推奨”。

 推奨は命令ではない。

 命令ではないから、拒否が難しい。


 義弘が一歩踏み出す。


 その瞬間、廊下の空気がさらに薄くなる。

 誰かが息を止めたような静けさ。


 視界の端に、透明な歪みが走った。

 光学迷彩の“端”が、ほんの一瞬だけ壁を舐めた。


 真鍋が唇を結ぶ。


「……見えない。なのに、いる」


 *


 案内はエレベーターではなかった。

 サービス通路。点検路。

 病院らしい導線から、自然に外れていく。


 壁のプレートが、医療語彙ではなく行政語彙を並べる。


《保全》

《休養》

《点検》

《最適化》

《継続》


 義弘は、喉の奥が冷えるのを感じた。

 この並び。

 札の並びだ。


 真鍋が低い声で言う。


「津田さん。これ、病院の導線じゃない。都市インフラの導線に似てる」


「……“施設”だ。言葉がそう言ってる」


 八重蔵の声が、頭の中で反響する。


 廊下の途中、ガラスの向こうに人影が見えた。

 患者ではない。職員でもない。

 ただ、同じ方向に向かって歩く影が、等間隔に並んでいる。


 “列”。


 そして列の先、扉の前に札が貼られているのが見えた。


《面談:推奨》

《説明:推奨》

《謝意:推奨》


 トミーが歯を見せた。


「列が“自然に”できてやがる。怖えな。人間ってよ」


 義弘は足を止めない。止めれば列になる。


 *


 白い部屋で、アリスの鎮静は少しずつ薄れていた。

 薄れた分だけ、怒りが戻ってくる。

 怒りが戻る分だけ、翼の残像がちらつく。


 翼の一本一本が、紙の端みたいに揃っている。

 揃っていることが怖い。


 端末が点滅する。


《保全》

《休養》

《点検》

《最適化》

《健康管理:最優先》


 アリスは舌打ちした。

 舌打ちはまだ自分のものだ。

 だが、声が遅れる。

 怒鳴りたいのに、喉が“推奨”に従う。


「ふざけんな……」


 拳を握る。

 握ったはずなのに、指が“安全な形”に戻ろうとする。

 自分の身体が、自分の申請書になる。


 その時。

 端末の点滅が、一瞬だけ乱れた。


 《健康管理:最優先》の下に、見たことのない札が混ざる。


《監査対応:最優先(暫定)》


 暫定。


 暫定は、裂け目だ。

 裂け目は、息をする。


 アリスが顔を上げた瞬間。

 壁の角に、女の子が立っていた。


 白いワンピース。

 髪が揺れている。

 揺れているのに、風がない。


 NECROの観測が、そこだけ空白になる。

 測れない。映らない。

 存在だけが、そこにある。


 女の子は、指を一本だけ立てて端末を指した。


 アリスは、喉の奥で小さく息を呑む。


「……お前、誰」


 女の子は答えない。

 ただ、端末の点滅がまた乱れる。


《監査対応:最優先(暫定)》が、

《監査対応:最優先》に戻り、

戻り切る直前に、ほんの一枚だけ別の札が混ざった。


《面会:暫定許可》


 女の子が、指を廊下の方向へ向けた。

 “逃げろ”ではない。

 “見ろ”だ。


 そして、女の子は札のように消えた。

 剥がれ落ちるように。


 廊下の奥で、スン、と呼吸がした。

 犬が匂いを嗅ぐ前の息。


 VX-07 HOUND。


 胃が冷える。

 冷えるのも“症状”になる。


《不安:管理》

《鎮静:推奨》


 アリスはベッドの端を掴んだ。

 掴んだはずの手が、微妙に力を抜く。

 抜かされている。


 壁の向こうで、紙の音がした。

 角を揃える音。めくる音。


 白い手袋が、どこかで記録している。


 *


 義弘たちは、薄い扉の前に通された。

 扉には新しい札が貼られている。


《面会:暫定許可》

《同席:監査記録官(補助)》

《録音・録画:制限》

《質問:推奨》


 真鍋が、扉の札を見て小さく笑った。笑いではない。


「面会……暫定。

 監査記録官(補助)……。姿を見せないのに同席するつもりだ」


 トミーが囁く。


「ジジイ。扉の向こう、匂いが“無い”ぞ」


「吸音の次は、無臭か」


 義弘は扉に手をかけた。


 その瞬間。

 透明な歪みが、扉の隙間に走った。


 見えないものが、そこにいる。

 そこにいるから、ここは“安全”だと言わんばかりに。


 義弘は、口の中で言葉を選んだ。

 返せ。救え。奪い返す。――それらは全部、札になる。


 トミーが、肩の上で小さく言った。


「言うなよ。“返せ”って。

 向こうはそれを待ってる」


 義弘は、息を一つだけ深く吸った。

 市長としての息。

 サムライとしての息ではない。


「監査だ」


 そう言って、扉を押した。


 白い光が、廊下に溢れた。

 光が溢れたのに、影が増えた。


 床に、白い手袋の影が落ちた。

 影は二つではない。

 もっと多い。


 真鍋が、背筋を伸ばす。

 拳を握らない。握れば“抵抗”になる。


 扉の向こうで、誰かがしゃがみ込んでいた。


 回収班の制服でもない。親善の腕章でもない。

 ただ、手順に慣れた手つき。

 紙の角を揃える手つき。


 両手につけた白い手袋だけが、妙に印象に残る。


 声は聞こえない。

 聞こえないはずなのに、文面だけが名乗る。


《監査記録官》


 白い手袋が、紙を一枚だけ差し出した。

 差し出し方が丁寧すぎて、優しすぎて、怖かった。


《健康管理:最優先(対象:市長/継続)》

《面会:許可(暫定)》

《手順逸脱:推奨されません》


 義弘は紙を受け取った。

 受け取った瞬間、窓の外――見えないはずの場所で、札の巨人がこちらを覗き込む気配がした。


 扉の向こうの白い空気が、さらに静かになる。

 音が消える。

 光が吸われる。


 スン、と呼吸がした。


 クウィラスが、待機している。


 義弘は紙を折らなかった。

 折れば“拒否”になる。

 拒否になれば、札になる。


 だから、ただ言った。


「監査を開始する」


 白い手袋は頷いた。

 頷き方が、手順そのものだった。

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