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第七十七話 正当化の檻

 朝のニュースは、落ち着いた声で“平和”を宣言した。


 画面の左上には、丸い文字のテロップ。


《未成年難病患者、治療に専念》

《市長も“配慮”を表明》

《国家の善意、歓迎の声》


 映像には、白い車両。清潔な廊下。柔らかい光。

 映るべきものは映らない。白い手袋は一度も画面に入らない。


 飯屋のテレビは無音で、油のはぜる音だけがやけに大きい。

 客の一人がスマホを傾け、コメント欄の流れだけを読んで笑った。


〈やっと休めるじゃん〉

〈よかった、無理させんなよ〉

〈市長も反省しろ〉

〈治療は正義〉

〈オールドユニオン優しい〉

〈アリスちゃん、守られてる〉


 守られている。

 守られているから、もう“取り返す”という言葉が悪になる。


 *


 市長室の机は、列でできていた。


 机の前に列があるのではない。

 机の上に列がある。


 紙の列。

 角の揃った白い列。


 義弘は、指先で一番上の書類の端を持ち上げた。

 めくるだけで、手首が疲れる。

 疲労は、たちまち“管理対象”になる。


《未成年患者の現場投入は倫理的問題がある》

《市長として配慮の姿勢を示すことが望ましい》

《善意の医療を妨げる言動は避けるべき》

《説明責任:推奨》

《面談:推奨》

《謝意表明:推奨》


 推奨、推奨、推奨。

 推奨は命令ではない。

 命令ではないから、拒否が難しい。


 トミーは肩の上で、苔色の毛を僅かに逆立てた。

 いつも毒を吐く口が、今朝は慎重だった。


「……ジジイ。お前、今“助けに行く”って言ってみろ」


 義弘は黙って次の紙をめくった。

 そこに、昨日よりも太い文字がある。


《健康管理:最優先(対象:市長)/継続》

《移動相談:列形成/自然発生》

《対処:不要》


 不要。

 不要だから止められない。


 トミーが、鼻で笑った。


「ほらな。言った瞬間、お前は“治療を妨害する市長”だ。

 善意ってのは、噛む場所がねえ鎖だ」


 義弘は、窓の外を見た。


 札の巨人の残像が、今日も薄く貼り付いている。

 見ている。覗いている。

 “あなたのために”という目で。


 義弘は、列の奥に埋もれた別の紙を引き抜いた。

 市警の印。


 真鍋佳澄。

 サイバー課。警部補。


 あの時の顔が浮かぶ。

 “取り締まりたい”顔と、“助けられた”顔が同居している女。


 義弘は口の中で、言葉を選んだ。

 救出。奪還。襲撃。――それらは全部、札になる。


「……監査だ」


 義弘は低く言った。


「救出じゃない。監査を要請する」


 トミーが耳を立てた。


「珍しく賢い言い方だな」


「賢いのではない。生き残る言い方だ」


 *


 市警のサーバールームは、冷たかった。

 冷たい場所ほど、嘘が長持ちする。


 真鍋佳澄は、端末の前で目を細めた。

 画面のログは整っている。整いすぎている。


「……搬送記録、面会記録、診断記録。完璧ですね」


 “完璧”は、嫌な言葉だ。

 人間の手順は、必ずどこかで摩擦が出る。

 摩擦がないのは、人間がいないか、擦り減ったか。


 義弘は腕を組んだ。

 鎧の腕ではない。市長の腕だ。

 それが無力に見えるのが、今日の戦いだった。


「穴はないのか」


「穴がないのが、穴です」


 真鍋は、ログの書式を拡大した。


 文の癖。改行の癖。語彙の癖。


《保全》

《休養》

《点検》

《最適化》


「……この並び、最近よく見ます。

 市の保健行政の文面にも混ざり始めた。自然に」


 “自然に”。

 自然に混ざるものほど、危険だ。


 真鍋は口を結んでから、言った。


「津田さん。あなたが何を思ってるか、私には……分かりません。

 でも、これは――」


 義弘が続きを待つと、真鍋は言い切った。


「――“治療”じゃなくて、“保護”です。

 保護って言葉は、守るためにある。

 でも守るって言葉は、奪うためにも使える」


 トミーが小さく舌打ちした。


「ほらな。鎖だ」


 *


 夕方。

 路地の暗がりで、八重蔵は茶をすすっていた。

 服はボロいのに靴だけが新しい。逃げ道の靴。


「おや、市長サマ。いやぁ、忙しいのにわざわざ」


「忙しいから来た」


 義弘は、紙ではなく“匂い”を求めてここに来た。

 八重蔵は、情報より先に噂の形を持ってくる。


 八重蔵は笑って、茶碗を置いた。


「“病院”じゃないねぇ。

 “施設”だ。言葉がそう言ってる」


「場所は」


「場所じゃない。道だ」


 八重蔵は指を折る。


「搬送車が通った道。

 監視カメラが、そこだけ“更新工事”で欠けてる。

 欠け方が綺麗すぎる。欠けるなら、もっと汚く欠ける」


 義弘は、視線を落とした。


「……手順か」


「手順さ」


 八重蔵は、軽い声で重いことを言う。


「人間は、怖いものには歯向かう。

 でも“正しいもの”には、並ぶ。

 列になって、勝手に歩く」


 義弘の背中に、札の巨人の残像が重なる。

 並ぶ。歩く。

 正しいものに沿って。


 *


 OCM本社。


 同情派の会議は、真剣で、優しく、そして刃だった。


「アリスさんは、広告塔として価値が高い。

 現場から下げて、“守る”べきです」


「治安協力は続ける。だからこそ、露出は適切に――」


 オスカー・ラインハルトは微笑んで聞いた。

 微笑むことが、この部屋の礼儀だった。


 彼の背後で、薄くサボテンの鉢が光を受けている。

 サボテンは余計なことを言わない。

 だから彼は、余計なことを言わないために世話をする。


「整えましょう」


 彼はそう答えた。

 同情派は安心する。

 安心は手順を回す。


 だが、紙が閉じられた瞬間。

 オスカーの目の奥に、ほんの一瞬だけ怒りが灯った。


 兄弟姉妹を“保護”の言葉で奪う。

 それは、彼らが生まれ直した理由を踏みにじる。


 彼は端末を叩いた。

 叩いた、といっても音は出さない。

 ただ、通知が送られる。


 リッチ/レヴェナント/ドッペルへ。


《回収手順に監査の裂け目を作る。

 “正しい手順で、正しい手順を壊す”》


 *


 白い部屋で、アリスの鎮静は少しずつ薄れていた。

 薄れた分だけ、怒りが戻ってくる。

 怒りが戻る分だけ、翼の残像がちらつく。


 残像はいつもの翼じゃない。

 羽根の一本一本が、紙の端みたいに揃っている。

 揃っていることが、怖い。


 壁の端末が点滅する。


《保全》

《休養》

《点検》

《最適化》

《健康管理:最優先》


 アリスは舌打ちした。

 舌打ちはまだ自分のものだ。

 だが、声が少し遅れて出る。

 怒鳴りたいのに、喉が“推奨”に従う。


 廊下の向こうから、スン、と音がした。


 呼吸みたいな音。

 犬が匂いを嗅ぐ前の息。


 VX-07 HOUND。


 それだけで胃が冷える。

 胃が冷えるのも、ここでは“症状”になる。


《不安:管理》

《鎮静:推奨》


「ふざけんな……」


 アリスは拳を握った。

 握ったはずなのに、指が“安全な形”に戻ろうとする。

 自分の身体が、自分の申請書になる。


 その時、点滅が一瞬だけ乱れた。


 端末の光が、鼓動みたいに早く、遅く、ずれて。


 アリスは顔を上げた。


 透明な壁の向こう。

 誰もいないはずの角に、女の子が立っている。


 白いワンピース。

 髪が揺れる。

 揺れるのに、風がない。


 アリスは目を凝らした。

 NECROの観測が、そこだけ空白になる。

 測れない。映らない。

 存在だけが、そこにある。


 女の子は、指を一本だけ立てて――端末を指した。

 点滅がまた乱れる。

 乱れた瞬間、端末の表示が一枚だけ変わった。


《健康管理:最優先(暫定)》


 暫定。


 暫定は、弱点だ。

 暫定は、監査の入口だ。


 アリスが息を呑んだ瞬間、女の子は消えた。

 消え方が、札みたいだった。

 剥がれ落ちるみたいに。


 そして、廊下の奥で紙の音がした。

 めくる音。角を揃える音。


 白い手袋の人物が、どこかで記録している。


 *


 翌日。

 義弘は会見場に立った。


 市長の会見。

 本来は“安全”な儀式だ。

 今日は儀式を武器にする。


 記者のライトが眩しい。

 眩しさすら、札になりそうだ。


 義弘は、言葉を選び抜いた。


「未成年の難病患者が治療に専念できる環境は、守られるべきです」


 拍手はない。だが空気が緩む。

 これが“正論の前置き”。


「だからこそ、完全な透明性が必要です」


 空気が固まる。

 正論は、二段目で刃になる。


「誰が、どの権限で、どの手順で、保護を行っているのか。

 搬送のログ、面会の記録、施設の管理体制――」


 義弘は一拍置いた。


「市長として、監査を要請します」


 会場がざわめいた。

 記者の手が動く。

 コメント欄が燃える音が聞こえる気がした。


〈治療の邪魔すんな!〉

〈透明性は大事〉

〈市長えらい〉

〈いや政治利用だろ〉

〈アリスちゃんを返せじゃなくて監査って言い方うまい〉

〈善意にケチつけるな〉

〈善意こそ一番怖いんだよ〉


 分裂。

 分裂は危険だ。

 だが分裂は、列を一瞬だけほどく。


 義弘は続けた。


「善意を否定しない。

 善意が“善意のまま”であるために、監査が必要です」


 言い切った瞬間、義弘の視界の端に、札の巨人の残像が揺れた。

 顔がこちらを向く。

 “市長にも健康管理が必要”とでも言いたげに。


 *


 会見の映像は、すぐに街へ流れた。


 飯屋で。

 避難所跡で。

 学校で。


 誰もが言った。


「監査か。正しいな」

「でも治療の邪魔はだめだろ」

「正しいから怖いんだよ」


 正しさが、正しさを噛む。

 その噛み跡が、裂け目になる。


 *


 白い部屋の外。


 沈黙した機体の影――ではない。

 今は施設の廊下の影で、誰かがしゃがみ込んでいた。


 回収班の制服でもない。

 親善の腕章でもない。


 ただ、手順に慣れた手つき。

 紙の角を揃える手つき。


 両手につけた白い手袋だけが印象に残る。


 文面だけが、名乗る。


《監査記録官/記録更新:対応》


 白い手袋は、何も言わない。

 言わないまま、新しい札の文言を紙の上に落とす。


《監査対応:最優先》

《情報開示:制限》

《対象:市長(健康管理:最優先/継続)》


 そして、最後の一行。


《クウィラス:待機》


 “待機”という単語が、廊下の温度を下げた。

 音が消える。

 光が吸われる。


 白い手袋は立ち上がり、紙を胸に抱えた。

 抱え方が丁寧すぎて、優しすぎて、怖かった。


 その背後、見えない場所で、スン、と呼吸がした。

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