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第七十六話 音のない善意

 善意は、音を立てずに近づく。


 音を立てないものほど、都市は受け入れる。

 都市は「静かなもの」を「安全」と呼ぶ癖がある。


 *


 OCM本社の会議室は、いつも通り整っていた。

 整っていることが、ここでは強さだった。


 紙は白く、端は揃い、文字は均一。

 差し戻しも、再申請も、余白の中で行われる。怒鳴り声はない。殴打もない。

 あるのは、「正当化」の往復だけだ。


 リッチが、机の上の通知を指で弾いた。音がしない程度に。


「“稼働ログの整合性確認”。……これ、モルテ側が投げてきたな」


 レヴェナントは頷いた。目元だけが笑っている。口は笑わない。


「海外部門の経由だ。支払いじゃない。人だ。人の動線を止めたい」


 ドッペルは、ペン先で数式を書きながら、興味なさそうに言った。


「最小コストで最大拘束。……おお、綺麗だ。嫌い」


 “嫌い”は、彼にとって最大の罵倒だった。


 紙束の端に、付箋がひとつ貼られている。


《保全/休養/点検/最適化》


 いつからそこにあった?

 誰が貼った?

 誰も思い出せない。


 レヴェナントが、ゆっくりと付箋を剝がした。


「……この語彙、社内だけのはずだ」


 リッチが言う。


「“社内だけ”ってのはさ。裏から見ると“誰でも使える”と同義なんだよ」


 ドッペルが、数式の端を舐めるように指でなぞった。


「言葉が走った。……手順が走る」


 *


 市庁舎。


 義弘の机は、列でできていた。


 市長室の前の列ではない。

 机の上の列だ。


 紙、紙、紙。

 市民の陳情、議会の要請、専門家の提言、行政の通知、保健局の「おすすめ」。


 すべてが「あなたを守る」顔をしている。


 トミーは肩の上で、苔色の毛を逆立てた。


「……おい、ジジイ。これ、列だぞ。紙の列」


 義弘は黙って、一番上の紙をめくった。


《重病患者の稼働は、回復を遅らせる恐れがあるため、行政として配慮を要する。

 特に、未成年の難病患者については――》


 次。


《市長は、療養と安全のため、当該者の活動停止を要請することが望ましい。》


 次。


《市民は心配している。市長の判断に期待する。》


 次。


《“善意の声”が増加している。世論対応を推奨。》


 トミーが鼻で笑った。


「正論ってのは、いちばん鈍い刃だ。切られたことに気づかねえ」


 義弘は、膝の痛みを押さえながら窓の外を見た。

 札の巨人の残像は、今日も薄く貼り付いている。


 見ている。

 覗いている。

 市長の窓から、ずっと。


「……アリスのほうは」


 言いかけて、義弘は口を閉じた。


 “心配している”という言葉が、どこかで待ち構えている気配がした。

 心配は、手順になる。

 手順は、列になる。


 トミーが小さく言った。


「今さら気づいた顔すんな。お前のアキレス腱は、最初からあいつだよ」


 義弘は返さなかった。

 返す言葉はある。だが、返せば“言質”になる。

 言質は札になる。


 *


 学校の保健室。


 白い部屋で、アリスは自分の指先を見ていた。


 指が、勝手に“正しい位置”に戻ろうとする。

 椅子の脚は、床の線に沿って揃う。

 呼吸は、機械が推奨する間隔に寄る。


 自分の身体が、自分の敵になる。


 《保全》

 《休養》

《点検》

《最適化》


 見えない札が、体内に貼られていく。


 養護教諭は優しかった。

 優しいのが、いちばん怖い。


「アリスさん、大丈夫。今日はね、少し休もう。ここに座って、深呼吸」


「……深呼吸くらい、勝手にできる」


 アリスは悪態をついた。悪態はまだ自分のものだ。

 だが、声が少し遅れて出る。

 声の速度まで、最適化されているみたいだった。


 端末が、ほんの一瞬、呼吸みたいに鳴った。


 スン。


 アリスは顔を上げた。


 廊下の影が、角度を変えた気がした。

 誰もいない。

 いないのに、いる。


「……今、誰か」


「え? 誰もいないよ」


 養護教諭は笑った。笑い方が“正しい”。


「疲れてるんだよ」


 疲れている。

 その瞬間、疲れは“管理対象”になる。


 アリスの視界の端で、情報翼の残像が滲んだ。

 いつもの翼ではない。

 羽根の一本一本が、紙の端みたいに揃っている。


 怖い。


 その時、廊下が静かに割れた。


 人が入ってくる。

 だが「訪問」ではない。

 「手続き」だ。


 最初に見えたのは、白い手袋だった。


 両手。

 白。

 清潔。

 汚れのない手で、汚れたことをする手。


 誰も名乗らない。

 名札も、腕章も、顔も印象に残らない。

 ただ白い手袋だけが、すべてを記録する。


 養護教諭が、慌てて立ち上がった。


「え……あの、どちらさまですか?」


 白い手袋の人物は、返事をしない。

 返事の代わりに紙を差し出す。紙が答えになる。


 書かれている文面だけが、名乗る。


《監査記録官/面会記録:健康管理(最優先)》


 監査記録官――という語は、声にならなかった。

 紙だけが、淡々と名札を名乗る。


 後ろに、もう一体。


 VX-07 HOUND。


 色が決まらない輪郭。

 人間大の筐体。

 犬の名前を持ちながら、犬の形を捨てた抑止。


 さらに、空気が一段、静かになる。


 音が消える。


 吸い込まれる。


 クウィラス。


 見えない。

 見えないのに、圧だけがある。

 視界の端のノイズが、ひとつ増える。


 アリスの背筋が凍る。


「……やめろ」


 アリスは言った。

 言ったのに、足が引けない。

 引けないように、体が“安全な姿勢”を作る。


 監査記録官の白い手袋が、紙をもう一枚めくる。


《難病患者の安全確保/搬送手続》


 養護教諭が口を挟んだ。


「あの、アリスさんは……ここで休ませれば……」


 白い手袋が、首を傾けた。

 ほんのわずか。

 それが“配慮”に見えるのが恐ろしい。


 そして紙。


《学校内での管理は推奨されない/最適化対象の逸脱が確認された場合、追加措置》


 追加措置。

 言葉が、あまりに丁寧で、あまりに冷たい。


 アリスは唇を噛んだ。


「……ふざけんな。私は、物じゃない」


 言い切った瞬間、身体が勝手に“安全”に傾く。

 怒りを抑えるように、心拍が調整される。

 悔しさを、保全が撫でる。


 アリスの翼が、少しだけ広がった。

 広がった瞬間、クウィラスの“無音”がそれを包む。


 翼が、音もなく折れる。


 ハックが通らない。

 通らないのに、手順だけが通る。


 HOUNDが一歩、前に出た。


 スン。


 呼吸の音。

 犬の匂いを嗅ぐ前の息。


 床に“タグ”が貼られる感覚が、アリスの足首から這い上がってきた。


 《安全確保:対象》

 《健康管理:最優先》

 《移動:推奨》

 《抵抗:危険》


 最後の《抵抗:危険》が、刺さった。


 抵抗した瞬間、全部が正当化される。

 抵抗しない限り、相手は“善意”のまま。


 監査記録官の白い手袋が、アリスの腕を取る――取らない。

 触れない。

 触れないのに、アリスの腕が上がる。


 HOUNDの拘束は、柔らかい。

 柔らかいから、痛くない。

 痛くないから、暴力にならない。

 暴力にならないから、証拠が残らない。


 養護教諭が、泣きそうな声で言った。


「アリスさん……大丈夫だから……きっと、よくなるから……」


 よくなる。

 回復。

 治療。

 善意。


 善意の語彙が、牢屋の鍵になる。


 アリスは笑おうとした。

 笑えない。

 笑顔を作る筋肉が、最適化で固まっている。


「……くそ」


 悪態だけが、まだ自由だった。


 *


 搬送車は綺麗だった。

 医療車両の外観。

 見た目は救急。中身は収容。


 窓は外が見える。

 外が見えるのに、逃げ道が見えない。


 アリスは座らされる。

 座らされるのではない。

 座る“べき”形に、体が勝手に落ち着く。


 監査記録官の白い手袋が、書類の角を揃える。

 揃えるたびに、何かが“完了”する。


 ペン先が紙を走る音だけが、小さく響いた。

 署名。

 同意。

 記録。


 アリスは、どれにもサインしていない。

 それでも“同意”は成立する。

 成立させるために、善意がある。


 HOUNDは同乗しない。

 だが、外を歩く。影がついてくる。

 クウィラスは見えない。

 見えないのに、車内の空気が静かすぎる。


 アリスは目を閉じた。


 閉じると、札が見える。

 目を開けると、札が見えない。

 どちらが現実か、分からなくなる。


 *


 新開市は、喜んだ。


 翌日の街は、横断幕でできていた。


「アリスちゃん、治療がんばれ!」


「オールドユニオンさん、ありがとう!」


「国家の善意に感謝!」


 “ありがとう”は、刃になりにくい。

 だからこそ、恐ろしい。


 飯屋のテレビには、搬送のニュースが繰り返し流れた。

 映像は丁寧に編集され、白い手袋は映らない。

 映るのは「笑顔の職員」と「安心する市民」と「正しい判断」だけ。


 コメントが流れる。


〈よかった……休めってずっと思ってた〉

〈市長もこれで安心だろ〉

〈医療は正義〉

〈治療受けて戻ってきて!〉

〈オールドユニオン優しいな〉

〈アリスちゃん、守られてる〉


 守られてる。

 守られているから、もう取り返せない。


 取り返すと言った瞬間、守る側が正義になる。

 正義に逆らう者は悪になる。


 *


 義弘は、市長室でその映像を見た。


 見ながら、言葉が出ない。

 言葉を出した瞬間、札が貼られる未来が見える。


 《患者を戦わせる市長》

 《配慮不足》

 《危険思想》


 トミーが机の上で吐き捨てた。


「ほらな。善意で縛られたら終わりだ。噛みつく場所がねえ」


 義弘は、拳を握りしめた。膝が痛む。

 痛みは現実だ。

 現実は、札より遅い。


 その時、机の上に新しい紙が一枚置かれていた。

 置いた覚えがない。

 置かれているのに、誰も見ていない。


 《健康管理:最優先(対象:市長)/継続》

 《面談推奨:保健行政》

 《列形成:自然発生/対処不要》


 “対処不要”が、義弘の背中を冷たく撫でた。

 不要。

 不要だから、止められない。


 窓の外で、札の巨人の残像が、ほんの少しだけ姿勢を変えた気がした。

 まるで、市長の次の動きを待っているように。


 *


 OCM本社。


 オスカー・ラインハルトのもとにも、善意が届いた。


《NECROテックエージェントは国家の庇護下で治療されるべき》

《企業の現場投入は倫理的問題》

《広告塔としての露出は継続可能/実務から外すことを推奨》

《市民は安心する/投資家も評価》


 同情派の顔は真剣だった。

 真剣な味方ほど、やっかいだ。


 オスカーは微笑んだ。

 微笑んだまま、紙を閉じた。


 閉じた瞬間、ほんの一瞬だけ、目の奥に怒りが灯った。

 怒りはすぐ消えた。

 消さなければ、NECROがまた“暗部”になる。


「……整えましょう」


 同情派は安心する。

 安心が手順を回す。


 オスカーは、自分の胸の奥に、兄弟姉妹の声が渦巻くのを感じた。

 “守られる”という言葉で、奪われる声。


 *


 白い部屋。


 アリスはベッドの端に座っていた。

 椅子でもいいのに、ベッドが“推奨”されたのだろう。

 推奨は命令ではない。

 命令ではないから、拒否が難しい。


 壁の端末が、心臓の鼓動みたいに点滅している。

 鼓動ではない。

 手順の点滅だ。


 《保全》

 《休養》

 《点検》

 《最適化》

 《健康管理:最優先》


 アリスは、笑った。

 笑いではない。喉が鳴っただけだ。


「……ふざけんな」


 悪態はまだ出る。

 だが、翼は出ない。

 翼が出ないのに、札は増える。


 透明な壁の向こうで、誰かが書類をめくった。

 姿は見えない。

 声もない。

 ただ、両手についた白い手袋だけが、こちらを向いた気がした。


 手袋が、紙の角を揃える。


 その仕草だけが、異様に丁寧だった。


 そして、端末が小さく鳴った。


 スン。


 犬の呼吸みたいな音。

 それが、この白い部屋にも届いている。


 アリスは目を閉じた。


 閉じた瞼の裏で、札の巨人の影が、ゆっくりと育っていく気がした。

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