第七十五話 犬の呼吸
列は、善意でできていた。
善意は怒鳴らない。殴らない。火をつけない。
ただ、ゆっくりと、きちんと、逃げ道を塞ぐ。
市庁舎の一階ロビーは、昨日より明るかった。窓際に花束、紙袋に差し入れ、手作りの横断幕、カメラの三脚。誰もが「市長を守る」顔をしている。守る顔は、誰かを捕まえる顔にもなる。
「市長さん! これ、栄養ドリンク!」
「睡眠、大事ですから! 寝てください!」
「無理しないで! 健康第一!」
津田義弘は、胸元のバッジを押さえた。バッジは軽い。膝の痛みは重い。
そして、視線が重い。
肩の上で苔色のウサギが、鼻をひくつかせた。
「……匂いが濃くなってきたな」
「何の」
「“正しさ”の匂いだ。犬の餌にちょうどいい」
トミーは悪態をついた。悪態は刃だ。刃はまだ自由だ。
義弘は笑おうとして、やめた。笑えば「余裕」が生まれる。余裕は手順を回す。手順は列を増やす。
エレベータの前には、もう列ができていた。
市長室へ行く列ではない。
市長を「休ませる」列だ。
列の先頭にいる中年男性が、丁寧に頭を下げた。
「市長、今日は“健康相談”です。昨日、札が貼られていたでしょう。あれ、私たちも見ました。市がちゃんと管理するべきだと思ったんです。だから、協力します」
協力――という言葉が、首輪に聞こえた。
義弘は、口角だけを上げた。
「……協力はありがたい。だが――」
「市長が倒れたら困ります」
彼は遮った。遮り方が優しい。優しい遮りは、反論を悪にする。
その時、空調のダクトが短く鳴った。
スン。
犬が匂いを拾う前の呼吸。
設備音に紛れた、薄い音。
トミーの耳が伏せられる。
「来てる」
「……まだ紙の段階だ」
「紙が来たら、足も来る。俺はそう言った」
義弘は、列を横目にエレベータへ乗り込んだ。市長専用のキーはある。だが押せば押すほど「特別扱い」の証拠になる。証拠は札になる。札は巨人になる。
*
保健室は白かった。
白は優しい顔をしている。
アリスはベッドの端に座って、両手を見つめていた。
指先が、先に決まった方向へ向かおうとする。
自分の意志ではない。
身体の中のネットワークが、勝手に“最適化”を始めている。
情報翼の残像が、視界の端に薄く滲む。
本来なら、起動時の快感に近いものがあるはずだった。
今日は違う。翼は重い。翼は札の影に似ている。
《保全》
《休養》
《点検》
《最適化》
文字は見えない。だが、体が読む。読むというより、従う準備をする。
「アリスさん。大丈夫?」
養護教諭が、柔らかく聞いた。柔らかい声は、刃だ。
刃は血を見せない。
「今日はね、体温と血圧、それから――ここ、同意書。健康管理のためだから。みんなが心配してるの。無理しなくていい。休んでいいよ」
アリスの喉が、ひゅっと狭くなる。
休め。守る。保全。健康管理。
善意の語彙が、体内に刺さってくる。
「……休むのは嫌い」
「知ってる。でも、必要なときがあるよ」
必要。必要。必要。
義弘が嫌っていた言葉。
アリスも嫌いだ。だが、嫌いなものほど強い。
その時、保健室の端末が、ほんの一瞬だけ呼吸みたいに鳴った。
スン。
アリスは顔を上げた。視線が、窓の外ではなく、廊下の影を見る。
「……今、誰かいた?」
「え? 誰もいないよ」
養護教諭は微笑む。
微笑みは正しい。正しいから怖い。
「疲れてるんだよ」
疲れている――という診断が、記録になった瞬間、疲れは“管理対象”になった。
*
OCM本社。会議室。
紙は整っていた。整いすぎていた。
整いすぎた紙は、刃になる。
オスカー・ラインハルトは、紙を閉じた。閉じても内容は消えない。紙の存在は、現実を作る。
「配置は“抑止目的”――例外扱い、でしたね」
同情派は頷く。法務も、広報も、危機管理も。
味方だ。だから厄介だ。
「NECRO露出の反発を抑えます。市政と治安機関にも説明できます」
「現場稼働の集中は持続困難です。アリスは広告塔として“休ませる”べきです」
休ませる。守る。保全する。
善意の語彙が、社内で武器に変わる瞬間。
オスカーの微笑みの下で、ほんの一瞬、怒りが走った。
兄弟姉妹を守るはずの正当化が、別の刃になる。刃を持った犬が街に放たれる。
だが彼は飲み込んだ。飲み込めない者が表に出ると、NECROはまた“暗部”に戻る。
「……整えましょう。正当な形で」
同情派がほっと息をつく。その息が空調に混ざる。
スン。
会議室の端末が、呼吸みたいに一瞬鳴った。
誰も気づかない。気づかないから効く。
*
夕方。新開市。
小さな事故が起きた。事故はいつも小さく始まる。小さいから誰も止めない。
リングの外周――未完成の構造物の下で、配信者が叫んでいた。
若者が、ドロイドの腕を改造して見せびらかし、火花を散らしながら踊る。
周囲の市民は笑い、コメントが流れる。
〈今日も新開市は平和だな〉
〈市長が守ってる街〉
〈アリスちゃんは? 出ないの?〉
〈本物のサムライはいつ来る〉
〈休ませろって言っただろ!〉
誰かが投げた冗談が、誰かの挑発になり、誰かの挑戦が、事故になる。
治安機関が到着したとき、現場はすでに「列」だった。
野次馬の列。撮影の列。善意の列。
誰もが「安全のため」と言いながら、最前列を取り合っている。
そこに、紙が現場になった。
――VX-07 HOUND。
見えたのは、輪郭だけだった。
人間大。装甲は黒でも白でもなく、光の中で“色が決まらない”。
犬の名前を持っているくせに、犬の形はしていない。
ただ、足取りが犬だった。鼻先で空気を読むみたいに、静かに角度を変える。
そして“音”が、現場の空気に混ざる。
スン。
誰かが言った。
「……え、今の何?」
「空調じゃね?」
「機械の排気音だろ」
否認できる程度に弱い。
だから、恐怖も否認できる。
HOUNDが一歩踏み出すと、周囲のドロイドが“従う”ように配置についた。
治安機関の隊員たちが、ほっと息をつく。
「抑止だ。非致死。低侵襲――」
言葉が整いすぎている。
その整いが、現場を縛る。
配信者は喜んだ。
「うおおお! 公式の新兵器きた! これが市長の街の治安ってやつ!」
コメントが爆発する。
〈HOUND!? 犬!?〉
〈かっけえ〉
〈やば、公式すぎ〉
〈これで安全だ〉
〈市長、正しい〉
HOUNDは配信者を見ない。
配信者を見ないのに、配信者の“位置”を固定する。
見えないワイヤが走り、足元の床に薄いタグが貼られる。
《安全確保:対象》
人の目には札は見えない。
だが、身体が“そこに留まる”ようになる。
「あれ? ……足、動かねえ」
配信者が笑いながら言った。笑って言える程度の拘束。
だから視聴者は笑う。
「演出だろ」「やらせだろ」「おもしれえ」
若者の改造ドロイドが腕を振り上げた。
HOUNDは動かない。
代わりに、空気の角度だけが変わる。
スン。
次の瞬間、改造ドロイドの肘関節が“ロック”した。
関節の角度だけが、きちんと正しい角度で止まる。
破壊ではない。拘束だ。
それが怖い。
若者が叫ぶ。
「な、なんだよこれ、俺のじゃん! 俺のだろ!」
HOUNDは答えない。
答えないから、正しい。
その頃、義弘の端末に現場の映像が流れてきた。
市長室。列に囲まれた机の上。
画面の中で、HOUNDが“優秀に”現場を収束させている。
トミーが机の上で毛を逆立てた。
「ほらな。紙が足になった」
義弘は、歯を食いしばった。
止める理由がない。
止めれば「市長が治安協力を拒否した」という札が生える。
その時、机の上の決裁書に、白い紙片が一枚増えていた。
《健康管理:最優先(対象:市長)/継続》
いつの間に。誰が。
義弘は窓の外を見た。
夕暮れの空に、札の巨人の残像が貼り付いている。
今日も覗いている。
市長室の窓から、ずっと。
*
夜。
保健室の廊下は暗い。暗いと怖い。だが、明るくても怖い。
怖さは明暗ではなく、手順でできる。
アリスは、養護教諭に「帰っていい」と言われた。
帰っていい。帰れる。自由。
……自由のはずなのに、足が勝手に“安全な方向”へ向かおうとする。
自分の身体が、自分の敵になる。
壁の掲示板に、白い紙が貼られていた。
学校の掲示物にしては、角が揃いすぎている。文字が整いすぎている。
《健康管理:最優先(対象:A)/継続》
A。
アリスの喉が鳴った。笑いでも悪態でもない、乾いた音。
「……は?」
背後で、設備音がした。
スン。
振り向いても誰もいない。
だが、廊下の角の影が、ほんの少しだけ“角度を変えた”気がした。
アリスの視界の端で、薄い翼の残像が滲む。
翼は情報を読む翼だ。
今夜、翼は札を読む翼になっている。
《保全》
《休養》
《点検》
《最適化》
《健康管理:最優先(対象:A)/継続》
言葉が身体を引っ張る。
引っ張られるのは嫌だ。
でも、拒否すると“危険”になる。危険になると、もっと管理される。
アリスは、爪を立てるみたいに自分の指を握りしめた。
「……くそ」
悪態が、かろうじて彼女の形を保つ。
その時、遠くで――どこかの空調が鳴ったのか、端末が混線したのか、街が吸ったのか。
スン。
犬の呼吸みたいな音が、今夜は少しだけ近かった。




