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第七十三話 継続札

 校内の騒ぎは、なかったことになった。


 動画は、肝心なところが抜け落ちている。

 音がない。輪郭がない。誰も“見ていない”。

 なのに、保健室の前だけはやけに画角が安定していて、笑い声と「任意です」という職員の声だけが残る。


 「編集ミスじゃね?」

 「いや、そもそも撮れてなくね?」

 「アリスちゃん、また消える系?」


 新開市の掲示板は、いつも通りだ。

 めげない、しょげない、反省しない。

 愉快に言い換え、冗談で包み、次のネタへ滑る。


 だが、アリスは滑れなかった。


 隠れ家の薄暗い部屋。

 壁に寄りかかり、フードの影で呼吸を整えようとする。


 息を吐くたび、袖口の内側が痒い。

 痒いというより、そこだけ「正しい」感じがする。


 見えない札。


 《健康管理:最優先(継続)》


 文面が脳内に浮かぶ。

 浮かぶというより、浮かばされる。


 「……クソが」


 声は掠れた。毒を吐く余裕がない。

 腕をまくって確かめても、紙はない。

 しかし、ないものは剥がせない。


 バンダースナッチが、床の影からぞわりと蠢いた。

 群体が“心配”を表すように、足元に寄る。

 いつもならアリスはそれを鬱陶しがって蹴散らす。

 だが今夜は、蹴れなかった。


 身体が一拍遅れる。

 視界の隅で、翼の残像が閉じ切らない。

 閉じ切らない翼は、世界を二重にする。


 ——使うな。

 ——使えば削れる。


 自分に命令を下しながら、命令が届く前に身体が動こうとする。

 その“先走り”が、怖い。


 天井の電灯が一瞬だけ暗くなった。

 気のせいかと思った瞬間、空気が“綺麗”になる。


 空白。


 アリスは硬直した。

 咄嗟にバンダースナッチが壁を這い、換気口を覆う。

 粉塵を巻き上げ、輪郭を炙り出そうとする。


 だが――何も出ない。


 空白は来ていない。

 来ていないのに、来た“感覚”だけが残る。


 「……予告かよ」


 札の手順は、先に知らせる。

 拒否しても、拒否できないように。


 アリスは唇を噛んだ。


 その頃――市長室。


 市長室の扉の前に、列ができていた。


 列は人間でできている。

 人間の列は、自治だ。民主だ。生活だ。

 だが列が“自然に”揃うとき、それは手順になる。


 義弘は机に手を置いたまま、窓の外を見た。


 ガラスに、札の巨人の残像が薄く貼り付いている。

 巨人は動かない。動かないのに、覗いている。


 「……またか」


 呟いたとき、机の端で苔色が動いた。


 トミーが、義弘の書類の山を跨いで座った。

 耳が小刻みに震えている。


 「列、増えてるな」


 「市政だ」


 「市政なら、“増え方”が違う」


 トミーは鼻先で扉の方を示す。

 列の先頭の男が持っている資料の隅に、白い紙札が見えた。


 《健康管理:最優先》


 義弘の眉間が一瞬だけ狭くなる。

 あの札は、病院の廊下で見た。学校で見た。リングで見た。


 「……市政の案件に、健康管理を貼るな」


 「貼られてるんだよ」

 トミーは毒のある笑いを漏らした。

 「お前が“市長”になった瞬間からな」


 義弘は書類を一枚、ひっくり返す。

 裏側にも、小さな札がある。


 《健康管理:最優先(市長)》


 粘着が強い。

 指で角を摘んでも、剥がれない。

 紙の端が浮かない。浮かない札は、剥がせない札だ。


 「……誰がやってる」


 「誰、って言い方が甘い」

 トミーは言った。

 「手順だ。手順が、お前を列にする」


 義弘は息を吐いた。

 吐いた息の先で、巨人の残像が笑ったように見えた。


 「アリスは」


 義弘が言いかけた瞬間、トミーが被せる。


 「気にかけろ。お前のアキレス腱は、あいつだ」


 義弘は黙った。

 黙るのは認めたからではない。

 認めないと間に合わないからだ。


 「……照会を出す」


 市長の語彙で札を折る。

 戦場ではない場所で戦う。

 義弘はその戦い方を選ばされている。


 OCM本社、地下の会議室。


 光は白い。壁は滑らか。音は吸われる。

 人間がいるのに、人間の匂いが薄い部屋だ。


 オスカー・ラインハルトは、端末を見ていた。

 通知が積み上がる。


 《保全》

 《休養》

 《点検》

 《最適化》


 どれも正しい。

 正しいからこそ、刃になる。


 「……“配置最適化”か」


 オスカーの声は柔らかい。

 柔らかい声ほど、刃の裏側が見えない。


 向かいに座るのは、敵ではない。

 敵なら分かりやすい。

 ここにいるのは“味方”だ。


 法務。広報。労務。危機管理。株主対応。

 オスカーに同情的な顔。疲れた顔。善意の顔。


 「我々はあなたの味方です」

 広報が言った。

 「だからこそ、止めます」


 「止める?」

 オスカーは微笑んだ。


 「現場です」

 労務が続ける。

 「アリスは限界に近い。NECROの稼働は“例外”で維持されている。例外はいつか事故になります」


 「事故」

 オスカーは繰り返した。

 単語を口に含むように。味を確かめるように。


 危機管理が言う。


 「現場から下げましょう。広告塔として公式導線に固定する。VXシリーズ、LCシリーズとセットで“成果”として示す。社会は安心します」


 株主対応が頷いた。


 「守るためです。守るとは、動かさないことです」


 法務が資料を差し出す。

 紙の端が揃っている。角が浮いていない。


 「点検を。休養を。保全を。最適化を」

 法務は淡々と言った。

 「あなたは責任者だ。あなたが背負っている。だから軽くして差し上げたい」


 軽くする。

 その言葉の中に、梱包がある。


 オスカーの表情が、一瞬だけ崩れた。


 憤怒。

 ほんの一瞬。

 目尻が冷たく細まり、唇が薄くなった。


 それは、彼がNECROテックエージェントだからだ。

 “兄弟姉妹”の身体を、箱に入れられる痛みが分かるからだ。


 しかし、次の瞬間には微笑が戻る。


 「なるほど。正しい提案です」


 味方たちはほっとした顔をした。

 その顔が、オスカーには一番恐かった。


 正しさは、逃げ道を塞ぐ。


 「ただ」

 オスカーは指先で端末を軽く叩いた。

 「私は、正しさを信用していない」


 広報が眉を上げる。


 「信用しない、とは?」


 オスカーは穏やかに言った。


 「正しさは、遅れてくる。――そして、誰かを置き去りにする」


 部屋の空気が一拍だけ硬くなる。

 硬さの中で、端末に新しい通知が出た。


 《配置最適化:対象A(継続)》


 “対象A”。

 誰がどう見ても、アリスだ。


 その文字列は、社内の善意に紛れているのに――どこか外部の匂いがした。

 札の匂い。

 角の揃いすぎた紙の匂い。


 オスカーは微笑んだまま、内側で歯を噛んだ。


 「……寄生しているな」


 誰にも聞こえない声で。


 そして彼は、端末を閉じた。

 閉じる動作が、決断だった。


 会議室の外へ出た瞬間、オスカーは通信を投げる。


 リッチ。レヴェナント。ドッペル。


 短い命令。


 「守るのではなく、導線を折れ」

 「“保全”の名で梱包されるな」

 「最適化の箱を壊せ」


 命令の末尾に、彼自身の感情が混ざる。


 「――あれは、人間だ」


 夕方。

 アリスは隠れ家の外に出た。


 出た理由は単純だ。

 隠れていても、札は追ってくる。


 路地の角。電柱。掲示板。

 貼り紙が増えている。


 《安全点検予定》

 《健康管理》

 《定期確認》


 それだけなら、まだいつもの新開市だ。

 だが、今日は違う札が混ざっていた。


 《健康管理:最優先》

 《健康管理:最優先(継続)》

 《健康管理:最優先(移動相談)》


 札が“更新”されている。


 しかも、道が自然にできる。

 人が自然に並ぶ。

 並ぶ人々は、善意の顔だ。


 「アリスちゃん、大丈夫?」

 「無理しないで」

 「休もう? ね?」


 声は優しい。

 優しい声は、拒否しづらい。

 拒否しづらいものは、拘束になる。


 アリスは笑顔を作ろうとした。

 作ろうとして、口角が引き攣った。


 「……うるせえ」


 毒が薄い。

 薄い毒は、自分が弱っている証拠だ。


 バンダースナッチが群体で広がり、列の足元を避けさせる。

 だが人々は驚かない。


 「あ、これがアリスちゃんのやつ!」

 「かわいー」

 「触っていい?」


 触るな。

 触るなと言えない。

 言えば炎上する。炎上すれば列が増える。


 列が増えれば、札が増える。

 札が増えれば、継続する。


 《継続》。


 アリスの袖口がまた痒くなる。

 痒い場所が、熱くなる。

 熱さが、痛みに変わる。


 ——やめろ。

 ——翼を開くな。


 開きたくない。

 でも、開かないと逃げられない。


 そのとき、音が一瞬だけ抜けた。


 ざわめきの中に、真空が生まれる。

 視界の端が、異様に綺麗になる。


 空白が、列の後ろに立っている。


 来た。


 アリスは息を吸い、バンダースナッチへ命令を走らせる。

 走らせようとして、命令が遅れる。

 遅れた分だけ、袖口の札が強くなる。


 《健康管理:最優先(対象確認)》


 “対象確認”。


 空白が、距離を詰める。

 掴むのではない。搬送する。

 その“正しさ”が一番怖い。


 アリスが歯を食いしばった、その瞬間――


 人波の向こうから、低い声が割って入った。


 「そこまでだ」


 義弘。


 市長が来るはずのない場所に、市長がいる。

 それだけで列が迷う。

 迷いが裂け目になる。


 トミーが義弘の肩で歯を剥いた。


 「遅いんだよ、ジジイ!」


 義弘は抜刀しない。

 抜刀すれば配信になる。

 配信になれば列が増える。


 代わりに、義弘は“語彙”を抜いた。


 「緊急権限」

 「安全確保」

 「導線の解消」


 市長の言葉は、札と同じ形式で現場を縛る。

 だからこそ、札の手順とぶつかり合う。


 空白が一拍止まった。

 止まるのは、判断が必要になったからだ。


 アリスはその一拍に、翼を開いた。


 世界が二重になる。

 光が膜になる。

 情報が羽になる。


 鮮やかすぎる。

 自分でも、復活したように錯覚するほどに。


 バンダースナッチが群体を散らし、粉塵を舞わせる。

 空白の輪郭が、一瞬だけ“咳き込む”ように揺れる。


 「……そこだ!」


 義弘が刀を抜く。

 抜いた瞬間、都市戦用ブレードが空白の端を切り裂く。


 薄い金属音。遅れて衝撃。

 空白が“そこにいた”と確定する。


 そして確定した瞬間、文面が走った。


 見えないどこかで、紙が擦れる。


 《判断》

 《撤退》

 《記録:不要》


 空白が滑るように後退する。

 同時に、列がほどけ始める。


 人々が我に返り、笑い、スマホを下ろす。


 「あれ? 私、なんで並んでたんだっけ」

 「ウケる」

 「新開市って、こういうの多いよね」


 戻り方が早い。

 早すぎて、夢のようだ。


 だがアリスだけが、夢から戻れない。


 翼が閉じない。

 世界の二重が解けない。

 袖口の痒みが痛みに変わって、骨まで響く。


 義弘が近づき、腕を伸ばす。


 「大丈夫か」


 アリスは頷こうとして、頷けない。

 体が一拍遅れる。


 トミーが義弘を睨む。


 「言ったろ。勝ってねえ。時間を買っただけだ」


 アリスは笑おうとした。毒を吐こうとした。

 「見たかよ、ジジイ」とか、「お前の市政、札まみれじゃねえか」とか。


 だが出たのは、乾いた息だった。


 「……ちょっと、やりすぎた」


 その瞬間、袖口の内側に“貼られる感覚”が走る。

 さっきより強い。さっきより確実。


 《健康管理:最優先(継続/対象:A)》


 対象が確定した。


 義弘の視線が、アリスの袖口に落ちる。

 見えない札を、見えたかのように。


 窓ガラスの向こうで、札の巨人の残像が――

 ほんのわずかに、顔を巡らせたように見えた。


 義弘は歯を食いしばり、短く言った。


 「……次は、折る」


 折る。

 斬るではない。潰すでもない。

 手順を、手順の形で折る。


 トミーが小さく笑った。


 「やっと分かったか、市長さん」


 アリスは目を閉じた。

 閉じても、札の文面が焼き付いて消えない。


 そして耳の奥で、音が一度だけ抜けた。


 空白の中に、紙が擦れる。


 ――どこかで白い手袋が、次の札を揃えている。


 そう確信できるほど、角が揃った静けさだった。

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