第七十二話 空白の刃
学校という場所は、音がある。
廊下の靴音。教室の椅子。チャイム。プリントの擦れる紙。
そして、笑い声。
だがその日の新開市の学校は、音が「整って」いた。
整いすぎている音は、音ではなく、規程だ。
「……健康管理の一環で」
保健室の前で、職員が穏やかに言った。
穏やかで、正しくて、同じ語彙だ。
「念のための確認です」
「協力は任意です」
「しかし、安全のためです」
任意。安全。確認。
その三つは、札になると刃になる。
アリスはフードの奥で舌打ちした。
「……任意の顔して、列を作ってんじゃねえよ」
言葉は荒いのに、声は小さくなる。
小さくなるのは、彼女が怖いからではない。
怖いのは、彼女の外の“空気”の方だ。
廊下の端に、白い紙札が貼られている。
《安全点検予定》
《健康管理》
《定期確認》
昨日より増えている。しかも、貼り方が丁寧だ。
角が揃い、紙の端が浮いていない。
浮いていない札は、剥がせない札だ。
アリスは一瞬、目の焦点が遅れた。
焦点が遅れると、視界の隅で“翼”が遅れて開く。
——やめろ。
——今日は、使うな。
自分に命令しても、命令が遅れて届く。
それが、最近の身体感覚だった。
背後で、制服の女子がスマホを掲げている。
「ね、今日もアリスちゃんいる?」
「え、校内撮影ダメって札あったよ」
「でも“任意”って言ってたしぃ」
笑い声が、規程の隙間から漏れる。
新開市は、相変わらずだ。めげない、しょげない、反省しない。
だからこそ、札の怪物は育つ。
バンダースナッチの群体が、壁の影に溶けていた。
違法改造のドロイド・ドローンの部品を寄せ集めた“まとめて一体”。
黒い虫のように、しかし家族のように、アリスの背後を守る。
「……逃げるぞ」
アリスは校舎裏の非常階段へ踵を返す。
その瞬間だった。
音が、抜けた。
廊下のざわめきが、ひと息ぶん“無”になる。
耳が詰まるような沈黙。
同時に、視界のどこか一角が、妙に綺麗になる。
——空白。
アリスの背筋が冷えた。
NECROテックの増幅された脳が、言語より先に答えを出す。
クウィラス。
吸音。光学迷彩。対ハック。ステルス装甲。
人間大の無人兵器。名も知られず、作戦だけを成功させる影。
「……来やがった」
バンダースナッチが反応するより早く、空白が“距離”を詰めた。
攻撃ではない。
殴りでも、撃ちでもない。
回収だ。
アリスの手首に、冷たい何かが触れた。
触れた感覚だけがある。
掴まれたのかどうか、目で確定できない。
同時に、保健室の扉がひとりでに開く。
「こちらへ」
職員が、同じ笑顔で手を差し伸べた。
笑顔が、札の延長に見えた。
《健康管理:最優先》
見たことのない札が、いつの間にか混ざっている。
アリスは唇を噛み、空白へ拳を振るう。
拳は、空を切った。
いや、切ったのは空ではない。
“当たった”手応えだけが、薄い。
クウィラスはそこにいるのに、そこにいない。
バンダースナッチが群れの一部を伸ばし、床を這わせた。
粉塵を巻き上げ、空白の輪郭を炙り出そうとする。
だが粉塵が舞う前に、空調が一拍だけ変わり、粉が落ちる。
「……対策済み、かよ」
空白の向こうで、紙が擦れる音がした。
音は小さい。だが、職員の声より鮮明だった。
《実行》
《搬送》
《記録:不要》
アリスは見えない“誰か”の手の動きを想像し、胃が冷たくなった。
白い手袋。
監査記録官。
姿は見えない。だが、手順の貼り方が同じだ。
剥がせない札の貼り方。
バンダースナッチが唸るような駆動音を立てた。
音はすぐに吸われる。
吸われた音の分だけ、アリスの心拍が浮き上がる。
——まずい。
このまま保健室に入れられたら、終わる。
健康管理という名の停止。
停止という名の回収。
アリスは階段へ飛ぶ。
跳んだはずの足が、滑った。
床に貼られた札が、靴底を“正しく”誘導したのだ。
危険回避。転倒防止。導線最適化。
優しさの形をした拘束。
アリスの視界が一瞬、白く瞬いた。
その白の中で、刀の金属音が鳴った。
——鋭い。
——音が、切れていない。
黒い装甲が廊下へ滑り込む。
派手な広告ではない。
だが、それが逆に異様だった。
義弘。
サムライ・スーツのバイザー越しの瞳が、まっすぐに空白を見ていた。
「……遅れた」
言葉は短い。
短い言葉ほど、現場は救われる。
アリスが息を吸う前に、もう一つの声。
「ほらな」
机の下や影ではなく、義弘の肩の上。
苔色のウサギが、耳を立てていた。
トミー。
「血の匂いが来る前の部屋、って言ったろ。ここだ」
職員が困惑した顔を見せる。
困惑は一瞬だけ。すぐ笑顔に戻る。
「市長、こちらは——」
義弘は言葉を切った。
切り方が、刀より冷たい。
「緊急権限。災害対応。治安連携」
三つの語彙を並べただけで、廊下の列が迷う。
迷う隙間が、生まれる。
その隙間に、義弘は踏み込んだ。
刀を抜かない。抜けば派手だ。
派手は配信になる。配信は列を呼ぶ。
義弘は、刃を“出さずに”戦うことを覚えていた。
義弘の両手首のアンカーが伸びた。
人工蜘蛛糸が壁へ吸着する。
義弘は一気に身体を引き、空白の横を薙ぐように蹴る。
蹴りは当たらない。
当たったのは、空気の綺麗すぎる部分だ。
その瞬間、床のワックスが一拍だけ歪んだ。
「そこか」
義弘の言葉は短い。
短いから、迷わない。
義弘は刀を抜いた。
刃は白い。だがその白は、広告の白ではない。
都市戦用ブレードの、機能の白だ。
斬る。
だが、斬れない。
刃が“何か”を掠め、掠めた部分だけが無音のまま、滑って逃げる。
クウィラスは、攻撃しない。
義弘の刀の軌道を、ただ少しだけずらす。
ずらされるたびに、義弘の体幹に微細な負荷が蓄積する。
見えない敵は、見えないところを削る。
トミーが怒鳴った。
「ジジイ!そこじゃねえ!アリスが運ばれる!」
確かに。
空白と戦っている間に、職員が保健室の扉を大きく開ける。
「こちらへ。安全のためです」
安全。
その言葉が、いま最も危険だ。
アリスは歯を食いしばった。
義弘の背中が見える。
背中があるのに、背中が遠い。
——ここで私が、やる。
アリスは、NECROテックの“翼”を呼ぶ。
呼びたくないのに、呼ぶ。
呼んだ瞬間、世界が二重になる。
現実の廊下の上に、ウェブ情報が膜のように張り付く。
バンダースナッチの群体に命令が走る。
いや、命令ではない。
呼吸のような同期だ。
床。空調。照明。ワックス。粉塵。
見えないものを、見えるものの側で縛る。
「……おい、空白」
アリスの声が、妙に落ち着いていた。
落ち着いているからこそ、怖い。
「お前、消えてるつもりだろ。消えてんのは情報だけだ」
バンダースナッチが壁際に散った。
散った群体が、壁の微細な埃を巻き上げる。
空白が、一瞬だけ“咳き込む”ように揺れた。
「そこだ」
アリスの指が動く。
指は、両頬に当てない。
今は余興じゃない。
これは切断だ。
《安全点検予定》
《健康管理》
《定期確認》
札の優先順位を、わざと矛盾させる。
《緊急確認:最優先》
見たことのない札を、アリスが“混ぜた”。
空白が止まる。
止まるのは、迷ったからだ。
手順が迷う。
迷いは裂け目だ。
義弘が裂け目へ刃を差し込んだ。
——斬れた。
音が戻る。
薄い金属音。遅れて衝撃。
クウィラスの迷彩装甲が一瞬、輪郭を失い、輪郭を得る。
アリスの翼が完全な形で開く。
錯覚するほど鮮やかに、世界が整う。
「撤退」
誰かの声ではない。
画面の隅に、文面が走ったように見えた。
《判断》
《導線:再構成》
《記録:不要》
《撤退:実行》
空白が後ろへ滑る。
滑る途中で、壁の影が一瞬だけ“白い”手袋を映した。
しゃがみ込む影。
回収班の制服でもない。親善の腕章でもない。
ただ、手順に慣れた手つき。
白い手袋だけが、やけに清潔だった。
そして影は、消える。
消えるというより、“そこにいたことが確定しないまま”いなくなる。
クウィラスも、同じだ。
最初からそこにいなかったかのように、廊下の音が戻る。
職員は笑顔のまま、首を傾げる。
「あれ……? 今、何を……?」
列が、ほどける。
生徒が現実のざわめきに戻り、スマホを下ろし、笑って、また前を向く。
新開市は、戻るのが早い。
早すぎるのも、また怖い。
義弘が振り返った。
「……大丈夫か」
アリスは、頷こうとして頷けなかった。
体が一拍遅れる。
視界が揺れる。
翼が閉じない。
バンダースナッチが群れの一部を戻し、アリスの背中を支える。
支えられて、初めて分かる。
——自分の膝が、笑っている。
アリスは口を開いた。
毒を吐こうとした。
いつものやつだ。「ジジイ遅え」とか、「次は保健室ごと燃やす」とか。
だが毒が、喉の途中で引っかかった。
代わりに出たのは、乾いた息だった。
「……ちょっと、やりすぎた」
義弘の瞳が細くなる。
“ちょっと”の言い方が、嘘だと分かる眼だ。
トミーが机の端から見上げた。
耳が微かに震える。
「ジジイ」
トミーは言った。
「勝ってねえ。……時間を買っただけだ」
義弘の指が、アリスの手首へ伸びる。
支えるために。確かめるために。
その瞬間、アリスの袖口の内側に——
紙が擦れるような感覚が、確かに走った。
見えない札が、貼られる感覚。
《健康管理:最優先(継続)》
アリスは笑おうとして、笑えなかった。
笑えないまま、義弘の腕に体重を預ける。
廊下の向こうで、チャイムが鳴った。
音はある。
だがその音が、今日の終わりではなく、手順の始まりに聞こえた。




