第七十話 毎日ショー
朝の新開市は、呼吸より先に配信が立ち上がる。
空が白むと同時に、街のあちこちに貼られた巨大モニターが点き、飯屋のカウンターに据え付けられた無音の画面が光り、避難所跡の仮設スクリーンに「今日の事件速報」が踊る。
毎日ヒーローショー。
それが、復興都市の新しい体温になっていた。
アリスは校門の前で立ち止まり、フードの端を指でつまんだ。
息を吸う。吐く。
吐き切る前に、視界の端に白い羽根が一枚だけ残る。
——遅い。
いつもなら、まばたき一回で消える。
今日は、まぶたを閉じたあとに、もう一枚、紙が挟まるように残像が挟まる。
翼。
自分の中に組まれた、十人分の作業が開くときの“散らばり”。
アリスは舌打ちした。
「……昨日の続きかよ」
それでも足は動く。
歩ける。見える。悪態もつける。
だから——誰も気づかない。
教室へ向かう廊下は、掲示物で埋まっていた。
安全点検、健康管理、定期確認。
文字は丁寧で、フォントは柔らかく、色合いは清潔で、みんな“あなたのため”の顔をしている。
アリスの視神経の裏側に、勝手にタグが貼りつく。
《安全点検予定》
《健康管理》
《定期確認》
……札だ。
アリスは見ないふりをして、視界の隅を削る。
削るたびに、目の奥が乾いた紙みたいに軋んだ。
教室前で、クラスメイトが声をかけてくる。
「アリス、昨日の配信見た?」
「ミコトさまがさ、やばかったよね」
「今日も来るって!」
来る。
来るという単語が、事故より軽く使われる街。
アリスは口角だけ上げた。
「知らね。配信とか脳が腐る」
笑い声。
その笑いが、善意で、無邪気で、だからこそ—胃が冷える。
廊下の先から、保健室の先生が顔を出す。
「アリスさん。今朝の体調チェック、まだですよね」
“チェック”。
言葉が、手順の匂いをする。
「元気」
「規程です。念のため」
念のため。
この街でいちばん強い呪文だ。
アリスは歩きながら、指先でフードの縫い目をなぞった。
縫い目がある。現実だ。
なのに、心拍は普通なのに鼓動の音だけが大きい。耳の内側が、配信の歓声の形をして鳴る。
「……あとで」
その“あとで”が、手順の入口になることを、アリス自身がよく知っている。
昼休み。
窓の外の街路には、すでに人だかりができていた。
事故が起きているわけじゃない。
事件が起きているわけでもない。
ただ、今日の“供給”を待っている。
視界の端に勝手に浮かぶ、切り抜きサムネ。
まとめ動画の見出し。
煽り文句が、ARの層になって校舎の窓ガラスをなぞる。
《【公式】今日の新開市は○○コラボ》
《【神回】市長も出るってマジ》
《【速報】ヴァーチャル・サムライ刀禰ミコト、現地入り宣言》
宣言。
その文字だけで、街が一段熱くなる。
屋上へ行く階段の踊り場で、誰かがスマホを掲げていた。
画面には、刀禰ミコト。
——きらきらした装束。
派手なサムライのアバター。
笑顔。
そして“今日も新開市を守りに行くよ!”という、あまりに軽い正義。
「みんな聞いてー!」
ミコトの声がスピーカーから漏れる。
「今日の新開市はね、“公式の日”! 事件がなくても集まっていい日! えへへ!」
コメントが滝みたいに流れる。
- 「ミコト様きたあああ」
- 「公式供給助かる」
- 「新開市、毎日更新で草」
- 「今日の撮れ高どこ?」
- 「市長も出る? マ?」
- 「アリスちゃんも出ろ」
- 「ゴーストは顔出せ」
アリスの歯が、奥で鳴った。
“顔出せ”。
善意の命令。
アリスは視線をそらした。
そらした瞬間、翼の残像が窓の外にまで滲んだ気がして、まぶたの裏が熱い。
——出力は出る。
でも、戻らない。
午後、校内アナウンスが入る。
「近隣区画にて、無人作業ロボットの暴走が確認されました。安全確保のため、外周に近づかないでください」
“暴走”。
その言葉に、校内の空気が一瞬で沸く。
怖がるより先に、期待が走る。
「来た!」
「今日の事件じゃん!」
「ミコト様行くかな」
「配信回るぞ」
アリスは机から立ち上がった。
体が軽い。
軽いのに、動き出しが重い。アクセルが一拍遅れる。
考えが追いかけてくる。
アリスは唇を噛んだ。
それでも、出る。
校舎裏の路地。
作業ドロイドが一体、足場材を振り回していた。
周囲にはもう、スマホを掲げた人が輪になっている。学生、配信者、観光客。
「危ないから下がれ!」
誰かの声。
下がらない。むしろ前に出る。
“見たい”。“撮りたい”。“参加したい”。
アリスは息を吸う。
胸骨のあたりに冷えた硬貨が押し込まれる感じ。
視界の周縁に、アプリと情報が翼のように開く。
——いつも通り。
いつも通りにやるだけだ。
彼女は、暴走ドロイドの制御系へ最短経路の命令を差し込む。
手順を裂く。
裂け目を広げる。
たった数秒、世界が一段静かになる。
ドロイドの腕が止まった。
足場材が、落ちる前に支えられて固定される。
収束。
拍手。歓声。コメントの洪水。
その次に——遅れて来る。
世界の静けさが剥がれ、耳鳴りが戻り、背中が冷え、指先だけが熱い。
口の中に金属味。
アリスは膝をつきそうになって、踏みとどまった。
立っているのに、足の裏が床に追いついていない。
——戻りが、遅い。
誰も気づかない。
誰も見ていない。
見ているのは、結果とサムネだけだ。
歓声の輪の外側。
機体の影。
誰かがしゃがみ込んでいた。
回収班の制服でもない。
親善の腕章でもない。
ただ、両手だけが——白い。
白い手袋。
縫い目が見えない。汚れもない。濡れても白いまま。
手袋が、端末の画面を拭いていた。
汚れじゃない。表示を。ログを。
“責任”を、布でなぞって消しているみたいに。
アリスの視界の隅に、一瞬だけ文面が浮かぶ。
アリスは読めた。
読めたのに、追えない。目の奥が軋む。
《監査記録官:現場到達》
《観測:完了》
画面の隅。ほとんど息みたいな文字。
《クウィラス:待機(即応)》
——なに、それ。
白い手袋は何も拾わない。
拾わず、ただ一回、指先を止める。
そして、立ち去る。
立ち去った直後、輪の熱狂が変わった。
誰かが「ここ危ないから向こうで撮ろう」と言い出し、
誰かが「公式の導線こっちだよ」と言い、
群衆が、まるで前から決まっていたみたいに、ずれる。
ずれる方向が、事故の二次被害を避ける方向。
しかも“自発的な善意”に見える方向。
——根回し。
義弘の根回しとは違う。
オスカーの根回しとも違う。
もっと無音で、もっと上位の、空気そのものを撫でる根回し。
アリスは喉の奥で笑った。
「……気持ち悪」
でも、その気持ち悪さは、助けになる。
だから余計に最悪だ。
スマホが震えた。
義弘からの定型。
《安全確保、優先。無理をするな》
短い。
いつもより短い。
別の通知。
OCM内部アラートの断片が、誤って視界に混ざる。
オスカーの部門の通信だ。
《NECRO露出:反発/対処》
《社内調整:緊急》
《責任分界:再設定》
責任。
分界。
札の匂い。
義弘は街に貼りついている。
オスカーは社内に貼りついている。
だから——
アリスが今、何を失いかけているかを、二人とも見ない。
そして、アリスも気づかない。
自分が二人の“アキレス腱”だなんて。
自分はただの十七の、
口の悪い、ドロイドとドローンが好きな、
“使われもの”のはずだ。
そう思っている。
だから、体調より先に、壊れた部品を拾う。
だから、守るべきは自分じゃないと思う。
夕方。
校内に戻ったアリスは、保健室の前を通り過ぎようとして足を止めた。
入口のガラスに、柔らかい文字が貼られている。
《健康管理》
《協力のお願い》
《念のため》
念のため。
アリスは目を細めた。
その瞬間、視界の端に札が増える。
幻視なのか、ARなのか、手順なのか、自分の脳の誤作動なのか。
判断する前に、札は“ラベル”として貼りつく。
《要観察:継続》
《対象:協力者(監督下)》
そして最後に、見たことのない一行。
《健康管理:最優先(準備)》
準備。
それは、実行の一歩手前だ。
アリスは、いつも通り悪態をつこうとして——
声が、ほんの少し遅れた。
「……ふざ、け……」
遅れた分だけ、翼の残像がちらつく。
ちらついた分だけ、街の熱狂が遠くで鳴る。
毎日ショー。
毎日公式。
毎日、手順。
そして、白い手袋だけが、静かにそれを整えている気がした。
アリスはフードを深くかぶり直し、保健室の扉から一歩だけ距離を取った。
——まだ止まらない。
止まれない。
止まったら、誰かの札が勝つから。
その背中に、優しい声が追ってくる。
「アリスさん。念のため、ですから」
優しさが、いちばん怖い。




