第六十八話 四つ巴
倉庫区画の空気は、紙と金属の匂いがした。
紙――札。
金属――装甲と関節。
床には白いテープが蜘蛛の巣みたいに走り、テープの端に《確認》《再確認》《待機》の札がぶら下がっている。
札がある場所に列が生まれる。
列が生まれる場所に、手順が生まれる。
アリスはその中心に立っていた。
フードの影から覗く目は、怒りで乾いている。
「……点検の列だ。ほら、ちゃんと並べ」
彼女が指を動かすと、双子が笑いながらコーンを並べ直し、矢印を貼り替える。
トウィードルダムが「入口」を「出口」にし、トウィードルディーが「優先」を「保留」にする。
バンダースナッチ――継ぎ接ぎの群体が、壁のように通路を塞いでいた。
ひとつひとつは小さい。
でも群れは、秩序そのものだ。
奥で、コロボチェニィクが一歩動く。
それだけで床が呻いた。
重量が、現場を固定する。
天井近く、梁の上ではグリンフォンが翼を畳み、気取った影で見下ろしている。
“映える角度”を探しているみたいに。
そして――アリスの前。
シュヴァロフが立っていた。
大きな腕を背負った黒い影は、完全には直っていない。
動きは少し鈍い。
でも立ち方だけは、昔のままだ。
母親みたいに。
対面にいるのは、モルテ。
彼の背後にはVXシリーズの作業服/装備の群れ。
人間の顔をしているのに、言葉は札だった。
「健康管理です」
「うるせえよ」
アリスが吐き捨てた瞬間、モルテの端末に新しい札が落ちた。
《緊急確認:最優先》
《健康管理:最優先》
《対象:アリツェ・ヴァーツラフコヴァー》
札が、こちらを向く。
札が向くと、世界が狩りの形になる。
モルテは淡々と言った。
「尊重します」
「……」
「尊重したうえで、回収します」
その声の硬さが、病院の廊下に似ていた。
外。
視察――“観光親善”の行進が、倉庫区画の近くを通る。
先頭の大使は笑っていた。
笑いながら、背後に兵器を連れている。
花で飾った黒い輪郭。
立体起動の大型無人機――リノトーレークス。
人間大の無人兵器――セグメンタタ。
コメントが、もう知っている。
「え、護衛それかよ」
「リノトーレークスってオールドユニオンのやつじゃん…」
「親善(武装)」
「市長、止めろって」
「今日の新開市、祭りじゃなくて戦場だろ」
義弘は、市長の顔でその列を迎えるはずだった。
だが迎える前に、端末が震えた。
都市の裏側から上がる警告音。
それは銃声より早い。
《資産保全行動:開始》
《敵性識別:VX系列=不正侵入》
《非致死制圧:優先》
《LC-07/LC-08:起動》
「……は?」
義弘が言った。
彼の喉から出たのは、怒りでも恐怖でもなく――純粋な困惑だった。
なぜなら、その札の末尾に付いている署名が“OCM公認”だったからだ。
しかも、いま目の前にいるのは“親善大使”。
義弘は一瞬で理解する。
これは戦闘ではない。
これは――既成事実の取り合いだ。
「アリス!」
義弘が走り出す。
市長の靴が段差を蹴った。
視聴者はそれを見て沸いた。
「市長が走った!」
「ヒーローの顔だ」
「やめろ、今日は会見の日だろ!」
「会見より現場だろ!」
「あ、これ四つ巴になるやつだ」
倉庫区画。
床が震えた。
遠くで、重いものが“立ち上がる”音がした。
四脚が路面を掴み、二脚が空を押し上げる。
LC-07 アーバレスト。
鎮圧用の装備が並んだ背面ラックは、まだ閉じている。
閉じているのに、怖い。
“本当の武器”を隠しているからだ。
その横で、影が跳ねた。
不自然なほど軽い接近。
格闘のために生まれた輪郭。
LC-08 スコルピウス。
――誰が起動させた?
その答えは、遠くの会議室にある。
冷えすぎた会議室。
オスカー・ラインハルトはサボテンを眺めていた。
余計なことを言わない相手。
彼は端末に目を落とし、ほんの一瞬だけ眉を寄せる。
賭けの瞬間だ。
計算は、勝ち筋を作る。
賭けは、相手の選択肢を燃やす。
今は――燃やさなければならない。
“手順”が鍵を奪う。
鍵を奪われれば、NECROは永遠に道具だ。
道具のまま生きる兄弟姉妹を、彼は許せない。
オスカーは淡々と入力した。
《敵性識別:VX系列=敵》
《保全優先:市民被害回避》
《実証:治安提供》
そして、最後に一行だけ混ぜた。
《NECRO運用:人命優先》
露骨だ。
でも露骨でなければ、社会は理解しない。
彼は小さく息を吐く。
微笑は消えない。
「見せる」
それは祈りでも命令でもなく、判決だった。
倉庫区画。
アーバレストが動いた。
四脚で踏ん張り、二脚に起き上がる。
その一歩で、床が割れた。
“鎮圧”なのに、戦車みたいだ。
スコルピウスは、さらに早い。
拳の形の関節が、VXの隊列に突っ込む。
VX側が反射的に散開する。
散開した瞬間、アリスが作った“列”が崩れた。
列が崩れると、札が増える。
《安全点検予定》
《健康管理》
《定期確認》
《緊急確認:最優先》
《健康管理:最優先》
《再確認:最優先》
札が札を呼ぶ。
手順が手順を増殖させる。
「ッ……!」
アリスが歯を噛む。
NECROテックが軋んだ。
軋みは、限界の音。
モルテは一歩も退かず、淡々と指示を出す。
「対装甲遮断、展開。対象は――」
「黙れ!」
アリスが吠えた。
吠えて、指を動かす。
「双子、列を“割れ”に変えろ! バンダースナッチ、壁を厚く! グリンフォン、上のカメラ全部落とせ!」
双子が嬉しそうに笑う。
バンダースナッチが群れで鳴く。
グリンフォンが翼を広げ、気取ったように旋回して、配信ドローンを叩き落とした。
視界が悪くなる。
悪くなるほど、誤認が増える。
誤認が増えるほど、止める理由が消える。
「シュヴァロフ!」
アリスが叫ぶ。
シュヴァロフは無言で、彼女の前に出る。
動きは鈍いのに、出方が迷いない。
母親みたいに。
その瞬間――スコルピウスが跳んだ。
スコルピウスの拳が、シュヴァロフの肩装甲をかすめる。
火花。
黒い光学迷彩の端が、ちらりと剥がれる。
アリスの心臓が跳ねた。
「やめろ!」
叫びは届かない。
スコルピウスは“敵を殴る”ために作られている。
敵の定義は札が決める。
そして札は、いま――VXを敵と書いている。
なのに。
視界が悪い。
群体が壁を作る。
影が走る。
スコルピウスにとって、アリスの味方も“邪魔”になりうる。
四つ巴の戦場は、そういう地獄だった。
義弘が飛び込んできた。
テッカテカの広告塗装が、粉塵の中で妙に目立つ。
アリスが一瞬だけ顔を歪めた。
「……クソダサい」
「それは今言うことか」
「今しか言うタイミングねえだろ!」
この最悪の場面で、ちゃんと毒を吐けることが、逆に救いだった。
義弘は状況を一瞬で切り分ける。
敵は一つじゃない。
優先順位は一つじゃない。
だが守るべきものだけは一つだ。
「市民を外へ! 列を壊すな、列を“誘導”に使え!」
義弘の声は鋭い。
鋭いのに、従わせる。
彼は刀を抜いた。
都市戦用ブレードが、広告の光を切って鈍く光る。
セグメンタタが現れたのは、その直後だった。
人間大の影が、列の“縫い目”を抜けて、義弘の膝へ向かう。
関節。端末。継ぎ目。
装甲を“ほどく”ための動き。
「来るぞ!」
義弘が叫び、刃を入れる。
切るのではない。
噛み合いを外す。
刃が、セグメンタタの前腕の関節に滑り込み、ほんの一ミリだけ“角度”を狂わせる。
セグメンタタの攻撃が空を切り、床に突き刺さった。
床が割れた。
「今の何?」
「市長、避け方が変態」
「あの小さいやつ怖すぎ」
「セグメンタタじゃん…」
「親善が連れてるの、マジでそれ?」
視界の外で、親善大使の声が響く。
「安全のために、介入します」
その柔らかさが、一番怖い。
リノトーレークスが飛び込んできた。
立体起動。全方位の突入。
都市戦を考慮した、あの嫌な動き。
リノトーレークスは“鎮圧”の名目で動く。
名目がある限り、躊躇がない。
義弘は舌打ちした。
「……来たか」
アリスが睨む。
「これ幸いって顔しやがって。あの大使、笑ってる」
リノトーレークスの攻撃が、倉庫の壁面を薙ぐ。
壁が崩れ、粉塵が舞う。
粉塵に広告ホログラムが乱反射し、現実がぐにゃりと歪む。
そこで、アーバレストが“殴り返した”。
四脚で踏ん張り、二脚で立ち上がり、拳を叩き込む。
鉄の拳がリノトーレークスの肩装甲に当たり、装甲が鳴いた。
鳴いた音が、歓声を呼ぶ。
「うわ、殴った!」
「戦車同士の殴り合いじゃん」
「観光どころじゃねえ!」
「これが公式の力…?」
「いや、誰が公式なんだよ」
誰が公式か。
その問いに答えを出すために、誰もが動いている。
だから止まらない。
スコルピウスがVXに食いつく。
VXがアリスに札を向ける。
リノトーレークスが“安全確保”で場を踏み荒らす。
セグメンタタが縫い目を抜けて人を狙う。
四つ巴。
戦場は増幅する。
義弘は、刀で“道”を作った。
切るのは敵ではない。
切るのは――戦場の形だ。
段差。未完成構造物。梁。
倉庫の骨組みを使って、敵を誘導する。
「アーバレストをこっちへ誘導する。アリス、札で市民を外へ流せ!」
「札は増殖してんだよ!」
アリスが吠えながら、指を動かす。
NECROテックが軋む。
軋むほど、視界に翼の残像がちらつく。
それでも彼女は、列を作り直した。
列は逃げ道になる。
列は盾になる。
双子がコーンを蹴り飛ばし、バンダースナッチが壁を開け、コロボチェニィクが重量で入口を塞ぐ。
グリンフォンが上空から叫ぶように翼を鳴らす。
気取っているのに、必死だ。
「やるじゃん、鳥」
アリスがぼそりと言う。
グリンフォンは誇らしげに翼を揺らした。
まるで「当然だ」と言いたげに。
その瞬間――モルテが、静かに言った。
「対象の安全確保のため、麻酔を」
VXの一人が装置を構える。
装置の先がアリスに向く。
札が札を支える。
シュヴァロフが、その前に滑り込んだ。
鈍い動き。
でも、躊躇がない。
母親みたいに。
麻酔針がシュヴァロフの装甲に弾かれる。
弾かれた瞬間、シュヴァロフが――小さく肩をすくめた。
まるで「掃除の邪魔」とでも言うような、家庭的な動作だった。
アリスは思わず、笑いかけてしまう。
笑いかけた瞬間に、涙が出そうになって、舌打ちで誤魔化す。
「……今じゃねえ」
義弘が横目でそれを見て、何も言わない。
言える状況じゃない。
でも、その沈黙が“家族”みたいに見えた。
親善大使が、倉庫の外で立ち止まる。
笑顔のまま、義弘へ向けて言う。
「市長。安全確保のため、統制権限の委譲を」
義弘の端末が震えた。
画面に現れるのは、押せば終わるボタン。
《統制権限委譲:手順》
《署名:当該使節》
《理由:安全確保》
《期限:即時》
義弘の喉が鳴る。
押せば、戦場は一時的に静まるかもしれない。
でもその瞬間、鍵は渡る。
鍵を渡したら、二度と戻らない。
アリスが叫ぶ。
「押すな!」
モルテが静かに言う。
「押せば、対象の安全は担保されます」
アーバレストがリノトーレークスを殴り返す音が響く。
スコルピウスがVXと噛み合う金属音が響く。
セグメンタタが縫い目を抜ける、嫌な気配が背後を撫でる。
義弘は――押さない。
代わりに、刀を握り直した。
「……安全は、委譲じゃ作れない」
親善大使の微笑が、ほんの少しだけ薄くなる。
薄くなるのは、怒りじゃない。
計算の更新だ。
そのとき。
アーバレストの背面ラックが、かすかに軋んだ。
閉じたままのはずの鎮圧装備が、内側で形を変える音。
“本気”が覗きそうな音。
義弘の背筋が冷えた。
「……オスカー」
誰に向けた言葉か分からない。
だが、確かに届く相手がいる。
そして遠くの会議室で、サボテンの横の男が、微笑のまま呟いた。
「必要なら――戦場で」
四つ巴は、まだ終わらない。
むしろ、ここからが本番だった。




