第六十四話 観光都市・新開市
市長室の机は、戦場よりも手強い。
紙は斬れない。
紙は倒れない。
紙は、増える。
報告書。
補償申請。
苦情の束。
再発防止策。
再点検の議事録案。
“札騒動”は噂に落ちたはずなのに、噂の後始末だけが公式のまま残っている。
「形式上、終結しておりますが……」
真鍋佳澄が、いつもより疲れた顔で言った。市警のサイバー課。警部補。
義弘の机の前に立つ彼女の声は、紙の重さに少しだけ負けていた。
「体裁上、再点検が必要です」
「体裁上、って何だ」
「体裁上です」
「……」
正論は遅れてくる。
体裁は先に来る。
「“責任の所在”を明確にしないと、次の予算が降りません」
「誰が札を貼ったか不明だ」
「不明なので、“誰かが貼った”という前提で議事録を作ります」
義弘は、口の中で舌打ちした。
“誰かが貼った”。
そこに人間は要らない。
要るのは前提だけだ。
机の角で、端末が小さく鳴った。
通知。
通知は弾丸より確実に当たる。
件名:【国・関係省庁】新開市の観光資源化/インバウンド施策に関する協議要請(至急)
義弘は額を押さえた。
「……次の巨人か」
「はい?」と真鍋が聞き返す。
「いや。独り言だ」
義弘は通知を開いた。
文字の並びが、札に似ている。
丁寧で、正しくて、逃げ道がない。
——新開市を、「サムライ・ヒーローが活躍する都市」として国内外に発信する。
——復興・雇用創出・地域振興。
——治安の向上を前提とした観光導線の整備。
——イベント常設化。スポンサー誘致。協賛枠の設定。
本音は一行で済む。
“数字になる”。
義弘が画面から目を上げるより早く、机の上の別の端末が鳴った。
市民窓口からの報告。
SNSのトレンド。
動画サイトのランキング。
すでに街が動いている。
どこから漏れたのか。
誰が言い出したのか。
そんなのはどうでもいいとでも言うように、新開市は“見られる都市”へ向かって走り始めていた。
街に出ると、空気が違った。
札騒動の後、みんな少し疲れていたはずだ。
怖いものを見た後の沈黙があったはずだ。
だが、祭りは沈黙を嫌う。
壁に貼られるのは《安全点検予定》だけじゃない。
《撮影スポット》
《推しヒーロー通過ポイント》
《本日の出没予想》
《サムライ・ヒーロー推奨ルート(暫定)》
——“暫定”の札ほど増える。
サムライ・ヒーローたちが、妙に張り切っている。
派手な塗装が増えた。
広告が増えた。
肩の装飾が増えた。
腰のマントが増えた。
市民に手を振る回数が増えた。
新開市が、舞台になる。
舞台になると、役者が増える。
そして、役者が増えると——観客が増える。
その観客を、もっと軽く煽る声があった。
巨大ディスプレイに映る、刀を持った“ヴァーチャル・サムライ”。
現実の刀ではない。ARの光の刀。家紋がふわりと浮き、バイザー風のラインが頬を走る。
配信の画面は明るく、空気は軽く、しかし言葉は刃より鋭い。
『やっほー! 刀禰ミコトだよ! 今日の斬り込みは“安全第一”で!』
安全第一。
言うだけなら、誰でも言える。
『新開市、いまマジでアツい! “本物のサムライ・ヒーロー”がいる都市だよ?
ねえねえ、みんな“聖地”どこ行く? リング? 外郭? 市長室の窓の前? 笑』
コメント欄が流れる。
流れる速度で、現実が押される。
「新開市いこうぜw」
「治安悪いのもアトラクションっしょ」
「義弘市長に会える?」
「アリスちゃんは?出る?」
「リングの足音コラボして」
「切り抜き許可助かる!」
『公式さん! 案件待ってます! 公認ほしい! 公認!』
公認。
それは札だ。
札は、いずれ巨人になる。
義弘は画面を消した。
消しても、声は街に残る。
街に残った声は、列を作る。
市民が笑っている。
観光客が笑っている。
配信者が笑っている。
笑いは悪ではない。
笑いが悪でないからこそ——厄介だ。
その日の午後。
義弘の端末に、別の通知が届いた。
件名:【OCM】新開市観光施策に伴うブランド連携(協力要請)
義弘は眉を動かした。
OCMが“観光”に絡むのは当然だ。
絡まない理由がない。
問題は、絡み方だ。
通知を開く。
やけに整った文面。
やけに“前向き”。
やけに“最短”。
——OCMは新開市の都市維持・保守を支援する。
——新開市の“日常”を守る企業として、社会的信頼の向上を図る。
——その象徴として、イメージキャラクターの起用を行う。
起用。
誰を。
義弘の腹が嫌な沈み方をした。
次の瞬間——
アリスの端末に、通知が飛んだ。
件名:【命令】CM出演(本日撮影/明日素材提出)
添付:台本/ポーズ指定/表情指定/衣装指定(“清潔感”)
「……」
義弘は、思わず笑いそうになった。
笑えない種類の笑いだ。
オスカー・ラインハルトの顔が浮かぶ。
眉目秀麗。仕事ができる企業人の顔。
そしてきっと今ごろ、サボテンに水をやりながら言うのだ。
——余計なことは言わない。
余計なことを言うのは人間だ。
アリスの隠れ家。
いつもなら清潔で、整っていて、妙に家庭的で——シュヴァロフが掃除しているはずの場所。
だがシュヴァロフは修理中。
その隠れ家は、珍しく“生活の汚れ”があった。
床に工具。
壁に配線。
空き缶。
紙皿。
そして、机の上に命令書。
アリスは命令書を見て、目を細めた。
怒りというより、吐き気の種類だ。
「……イメキャラ? 私が? は?」
画面の下に、追記があった。
【条件】整備許可(シュヴァロフ他の修理枠/補給線/部品供給)を維持するため、命令は遵守すること。
アリスの指が震えた。
怒りで震える。
でも怒りは役に立たない。
役に立つのは部品だ。
別の通知が重なる。
【通達】拒否の場合、整備枠の再調整を実施する(期限未定)
期限未定。
官僚ホラーの匂いがする。
さらに——義弘ルートからのメッセージが来た。
『……アリス。
すまん。止められなかった。
いま止めようとすると、国の観光施策に巻き込まれて、OCMが“正当”になる。
お前の整備枠も、そこで切られる。』
義弘は謝っている。
義弘が謝るときは、本当にどうしようもないときだ。
アリスは椅子を蹴った。
蹴ると机の下から工具が転がり、金属音が響いた。
「ふざけんなよ……」
怒りは、壁に当たって跳ね返る。
八方塞がり。
札の巨人を倒したはずなのに、別の札が来る。
“CM出演”。
“社員の顔”。
“公認の笑顔”。
アリスは歯を食いしばった。
シュヴァロフの修理台に目が行く。
頭と腕と胴だけが動くようになった彼女の残骸。
あの黒い影。
家庭的な手。
母性のような気配。
直す。
直したい。
直すためには、部品が要る。
枠が要る。
許可が要る。
許可のために、笑え。
——最悪。
「……わかったよ。出りゃいいんだろ」
自分の声が、冷たく聞こえた。
撮影スタジオは、清潔だった。
清潔すぎて、怖い。
白い壁。
白い床。
白いライト。
白いスタッフの手袋。
清潔は手順を呼ぶ。
手順は“正しさ”を呼ぶ。
正しさは逃げ道を塞ぐ。
アリスは中央に立たされた。
制服。
パーカー。
スカーフ。
そして、髪の結び目を少し整えられて——“清潔感”。
カメラが構える。
スタッフが笑う。
笑いは優しい。
優しい笑いほど、怖い。
「はい、アリスさん。まず真顔で」
「……真顔なら得意だよ」
「次、口角を上げます」
「……上げない」
「上げます」
“上げます”。
命令形ではない。
それが命令より怖い。
アリスは視線を横にやった。
オスカー・ラインハルトは、そこにいない。
でもいる。
文面で。許可で。整備枠で。
彼の圧は現場の空気に溶けている。
スタッフが紙を見た。
紙には台本と——ポーズ指定。
「ではポーズ①です。両頬に、人差し指」
アリスは、息を止めた。
「……両頬に指? 誰の発想だよ……」
スタッフは困ったように笑い、そして言った。
「仕様です」
「仕様……」
「上からです」
上。
上という言葉は札だ。
札は剥がせない。
アリスは、やった。
両頬に、人差し指。
頬が少し沈む。
“にこっ”を作る形。
自分の身体が、自分のものじゃないみたいだった。
笑顔は、感情じゃなく、筋肉の配置になる。
「はい、そのまま。かわいいです!」
「……殺すぞ」
「すみません、かわいいです!」
「殺すぞ」
「すみません!」
現場は丁寧だった。
丁寧だから、逃げられない。
「ポーズ②、胸の前で小さく拳。がんばります、みたいに」
「……何が、がんばります、だよ」
でもやる。
やらないと、枠が消える。
部品が消える。
シュヴァロフが消える。
アリスは拳を小さく握った。
それが“がんばります”に見えるらしい。
自分の人生はどこに行った。
「ポーズ③、指でバイザーをなぞる感じ。サムライ味です」
「……サムライ味ってなんだよ」
でもやる。
やった。
指で、頬の横の空間をなぞる。
ARでバイザー風のラインが走る。
テックと和が融合する。
融合するのは、いつも現実じゃないものだ。
「はい、台詞いきます! 明るく! でも少し照れ! でも信頼! お願いします!」
信頼。
そんなもの、誰が作る。
誰が消費する。
アリスは目を細めた。
目だけは殺さない。
目だけは嘘をつかない。
——でも、口角は上げる。
「……新開市の“日常”は、ちゃんと守られてる。……たぶん♪」
“♪”は口に出していない。
出していないのに、スタッフが頷いた。
「最高です! その“たぶん”が謙虚で最高です!」
謙虚。
違う。
これは抵抗だ。
抵抗が、謙虚になる。
世界はいつもそうだ。
翌日。
CMが流れた。
街のディスプレイ。
動画サイトの広告。
配信者の切り抜きの前。
ニュースの合間。
飯屋の無音テレビ。
暗い路地。
整備ドロイドのライト。
朝の新開市。露光が上がる。
企業声のナレーション。
『安全は、“気合い”じゃなく——仕組みで作る。』
整備ライン。
工具。点検札。整備員の手。
——シュヴァロフの破片が一瞬だけ映る。
気づく人だけが、胸を痛める。
『都市の“日常”を、止めないために。』
そして——アリス。
真顔。
合図で笑う。
両頬に人差し指。
小さな拳。
バイザーなぞり。
『……新開市の“日常”は、ちゃんと守られてる。……たぶん♪』
最後にOCMのロゴ。
整備ドロイドが一礼。
『OCM。都市と、あなたの明日を。』
そして、地獄の拍手が鳴った。
コメント欄。
掲示板。
学校の廊下。
飯屋のテーブル。
「アリスちゃん、かわいすぎ」
「謙虚で草」
「“たぶん”が刺さる」
「OCM見直した」
「新開市行くしか!」
「公認ヒーロー都市きた!」
「ミコトが反応してたwコラボ来る?」
アリスは、隠れ家でその映像を見ていた。
見たくないのに、勝手に流れてくる。
勝手におすすめされる。
勝手に切り抜かれる。
自分の“抵抗”が、好感度に変換されていく。
怒りが、かわいさに変換されていく。
恥が、健気さに変換されていく。
吐き気がした。
「……最悪」
その一言だけが、彼女の本音だった。
市長室には、別の笑顔があった。
オスカー・ラインハルトが、画面越しに微笑んでいる。
会議用の映像。
背景に、サボテンが小さく映る。
「評判は良好です、津田さん」
「……良好で済ませるな」
「済ませます。済ませるために、我々は手順を作る」
“我々”。
言いそうになるのを、義弘は咳払いで止めた。
それはアライアンスの言葉だ。
だが、企業も同じ言葉を使う。
「あなたは何がしたい」
「正当化です」
オスカーは、さらりと言った。
さらりと言うのが怖い。
「NECROテックは暗部でした。怪物として扱われてきた。
しかし——社員であれば、制服に入れられる。福利厚生の言葉で包める。
社会の書式に載せられる」
義弘は黙った。
正しいことを言っている。
正しいことほど怖い。
「……アリスは嫌がっている」
「当然です。嫌がる権利は尊重します」
「尊重してない」
「尊重したうえで、命令します」
矛盾が、丁寧な声で整えられる。
札の巨人が戻ってくる気がした。
「津田さん。観光施策は止まりません。
国も、市民も、配信者も、止まりません。
ならば——こちらが先に“正しい顔”を作る」
正しい顔。
笑顔。
両頬に指。
義弘は、拳を握った。
刀では斬れないものが、増えていく。
同じころ。
別の微笑が、遠くから覗いていた。
氷の母。
アライアンスの調停者。
彼女は沈黙している。
沈黙は不介入ではない。
沈黙は測定だ。
“守るべきもの”が増える。
増えるほど、壊れやすい。
彼女は微笑んだまま、誰かに言った。
「治安が悪化するのは、自然です。
人が流れれば、必ず壊れる。
——壊れたとき、誰が修復するのか。見せてもらいましょう」
修復。
札。
手順。
巨人。
さらに遠く。
別の声が、封印された語彙でささやいた。
「本件担当は、文化交流を支持する」
「安全確保の協力は惜しまない」
オールドユニオンの名前は出ない。
出ないほうが怖い。
出ないほうが、影は濃い。
影は足場を探している。
観光という足場。
公認という足場。
人流という流路。
新開市は、舞台になっていく。
夜。
義弘は市長室の窓辺に立った。
窓の外に、札の巨人の残像はない。
ないはずなのに——街の灯りの中で、別の巨人が見えた気がした。
巨大な広告。
巨大な配信。
巨大な“公認”。
それらが重なり、都市にへばりつく。
へばりついて、覗き込む。
義弘を。
アリスを。
新開市を。
義弘の端末が鳴った。
八重蔵からだ。
『名誉会長サマ。匂いがする』
「何の匂いだ」
『市長選より厄介な匂い。
“観光導線”の裏で、誰かが地図を配ってる。
しかも、あんたの動きの地図だ』
義弘は目を細めた。
「……誰が」
『それを今から探る。
ただ一つ言えるのは——札じゃない。
札より賢い奴がいる』
義弘は窓の外を見た。
新開市は笑っている。
笑いは軽い。
軽いものが、重い。
そして、隠れ家のアリスは鏡の前で拳を握っているだろう。
CMで作った笑顔の残骸を、指で潰すように。
誰が都市の物語を握るのか。
誰が都市の顔を作るのか。
義弘は、静かに呟いた。
「……次は、紙じゃない。
次は、“公式”だ」




