第六十三話 噂に落ちる巨人
未完成リングの入口は、入口の顔をしていなかった。
門でもゲートでもない。
ただの通路に、ただの柵に、ただの立入禁止のバリケードに——札が貼られている。
《入場確認》
《安全確認》
《健康管理:最優先》
《再確認》
《担当割当:臨時》
《順路遵守》
札は紙だ。
紙は軽い。
軽いものが、重い。
義弘はサムライ・スーツのバイザー越しに札を見た。
見るだけで、脳のどこかが勝手に“読み上げ”を始める。
確認。確認。確認。
順路。順路。順路。
読むのをやめろ。
読むな。
読むと、従う。
義弘は息を吐き、刀の柄を握った。
都市戦用ブレード。
刃を抜く音が、未完成の梁に跳ね返る。
「——市長は、置いてきた」
言葉にして、肩から降ろす。
肩に貼りついてくるものを、いまは振り払う。
背中で、通信のノイズが笑った。
『おーい、市長サマ。死ぬなよ。……いや死ぬなよはあいつの台詞か。
とにかく死ぬなよ。紙に負けたら、俺が笑いすぎて死ぬ』
トミーの声だ。遠隔。毒だけは鮮度がいい。
「黙れ」
『黙ると増えるんだっけ? じゃあ喋っとけ。
“俺は紙が嫌いだ”って百回言え』
義弘は無視して、足を踏み出した。
足が通路に乗った瞬間——
視界の端に、赤い枠が割り込んだ。
《差し戻し》
《待機》
《担当外》
《再申請》
《再申請》
《再申請》
スーツのセンサー表示ではない。
ARでもない。
なのに、視界に“ある”。
義弘の膝が、わずかに止まった。
止まっただけで、札が一枚増えた気がする。
《停止確認》
「……」
止まるな。
止まると貼られる。
貼られると止まる。
義弘は意地で歩いた。
歩くたびに札が視界の縁からせり上がり、行動を“手順の文書”に変換しようとする。
息を吸え。
吸えばいい。
だが吸った瞬間、次の札が来る。
《呼吸数:確認》
《健康管理:最優先(再掲)》
『ねえ、いま何枚?』
「数えるな」
『数えないと増えるよ? いや数えると増えるか。どっちだ?』
どっちでも増える。
それが手順だ。
義弘はブレードを横に払った。
刃が空を切る。
紙は切れないはずなのに、風が裂けたみたいに札が舞った。
舞った札は——床に落ちない。
落ちる前に、別の場所へ貼りつく。
《安全確認》が柵に。
《順路遵守》が梁に。
《健康管理:最優先》が——自分の視界に。
巨人が、首を回した。
市長室の窓から覗いていた影が、いまはリングの内側で、顔のない顔を巡らせている。
巨人は覗くだけじゃない。
覗いて、追って、締め上げる。
義弘の胸が、少しだけ苦しくなる。
スーツの圧力制御が追いつかない。
……違う。圧力じゃない。
“手順”が胸に貼られている。
《姿勢矯正》
《安全確保》
《保護》
《保護》
《保護》
保護という言葉は優しい。
優しい言葉ほど、逃げ道を塞ぐ。
リングの外縁では、義弘が用意した“臨時の公式掲示板”が、札に食われていた。
罫線だけの紙。空欄の項目。
札が好きな匂い。
匂いに寄ってきた札が、板を埋め尽くす。
埋め尽くした先で、札は新しい札を生む。
《担当割当:臨時》
《市民協力:要請》
《安全確保:対象移送》
そしてそれは、文字だけで終わらない。
人が動く。
列ができる。
列ができると、列が仕事になる。
「市長に、会わせてください」
「順番です」
「順番です」
「順番です」
誰も悪意を持っていない。
悪意のないまま、手順は最強になる。
市民の肩に札が貼られる。
《協力者》
《案内係》
《確認担当》
《見届け人》
見届け人。
その言葉が、義弘の背中に針みたいに刺さる。
見届ける。
何を?
——義弘が負けるところを。
リングの内側、胃袋の中枢。
アリスは“鼓動”を見ていた。
札を貼られまくった端末のモニターが、心臓のように点滅する。
点滅。点滅。点滅。
脈が速い。
速いほど、外が危ない。
アリスの体内コンピューターが、起動する。
翼のように情報が立ち上がる。
だが翼は、刺すためじゃない。
守るための翼でもない。
いま必要なのは、刃だ。
「……こいつは、ログじゃない」
アリスは吐き捨てた。
手順を解析しても、手順は増える。
優先順位を正そうとすると、優先順位が増える。
正しいことをやるほど、正しさが増殖する。
女の子の影が現れた。
髪が揺れる。
白いワンピース。
足音がない。
なのに、床はひんやりとする。
アリスは見た。
見た瞬間に、“観測”しようとした。
NECROテックの網が広がる。
——捕まらない。
ログがない。座標がない。温度変化もない。
なのに、いる。
アリスの口が乾いた。
「……なに、お前」
女の子は答えない。
ただ、指を差した。
通路の奥。
札の貼られた作業ドロイドが、静かに、こちらへ来る。
《健康管理:最優先》
《対象移送:要》
《薬剤投与:適用》
“保護”の手。
清掃員がそこにいた。
気のいい中年。モップ。バケツ。
どう見ても普通だ。
普通すぎるのが、逆に怪しい。
清掃員は、札を剥がした。
べり、と。
剥がしてはいけない札を、剥がしてはいけないくらい自然に。
「こんなの、ここに来てないよ」
「誰かの悪戯だろう」
悪戯。
その言葉が、アリスの頭を打った。
——そうだ。
手順は“公式”で強い。
公式でないものは、手順になれない。
なら、札を公式から引きずり下ろせばいい。
どうやって?
アリスは笑った。
笑いは増える。
だから笑った瞬間、歯を噛みしめた。
「……噂に落とす」
女の子の影が、頷いたように見えた。
清掃員は何も言わず、モップを引く。
床がきれいになるたび、札の輪郭が薄くなる気がする。
アリスはNECROテックの力を、初めて“解析”に使わなかった。
使ったのは——意味だ。
札に、由来を与える。
札に、型を与える。
札に、怪談の骨組みを与える。
目撃条件。禁忌。帰結。
アリスは自分の喉の奥に溜まった嫌悪を、言葉に変えた。
そして、その言葉を——都市へ投げた。
掲示板。学校。飯屋。
すでに仕込んだ投下文の“続き”として。
“最終稿”として。
未完成リングで、札を見たら読むな。
読んだら、順番になる。
札を剥がしたら、名前を呼ばれる。
最後尾に触れたら、帰れない。
——でも、清掃員が剥がした札は、見なかったことになる。
だってあれは、公式じゃない。悪戯だから。
悪戯。
公式ではない。
誰かの悪ふざけ。
その瞬間、札の中枢が、理解できないものに触れたように痙攣した。
端末の点滅が——乱れた。
鼓動が心拍から外れ、紙が紙のまま震える。
札は官僚で、官僚は秩序で、秩序は手順だ。
だが怪談は、秩序を食う。
怪談は、秩序の外にある。
手順が、噂に落ちる。
義弘の前に、ドロイドが現れた。
人型。柔らかな樹脂の顔。
医療用の白。
腕に注射器。
胸に札。
《健康管理:最優先》
ドロイドは優しく腕を伸ばした。
優しいほど怖い。
「……避けろ」
義弘は自分に命じる。
だが避ける動きに札が貼られる。
《急動作:危険》
《姿勢矯正》
《停止確認》
足が止まる。
止まった瞬間、巨人が“手”を伸ばす。
紙の腕。
紙の指。
紙の圧力。
締め上げられる。
視界が狭まる。
息が浅くなる。
《呼吸数:確認》
《健康管理:最優先(再掲)》
《保護:適用》
『おい! ジジイ! 返事しろ!』
トミーの声が遠い。
遠いほど、現実が薄い。
現実が薄いほど、手順が濃くなる。
義弘は膝をついた。
膝が床に触れた瞬間、札が貼られる。
《転倒:報告》
《転倒:報告》
《転倒:報告》
報告。
報告が増えるほど、助けが来るはずなのに、助けは来ない。
助けは列になって、順番になって、待機になっている。
巨人の顔が、窓ガラスの外側みたいに近づく。
覗き込む。
覗き込んで、笑う。
《健康管理:最優先》
——これまでか。
義弘がそう思った瞬間。
札が、ふっと軽くなった。
軽くなったというより、重さの根拠が消えた。
視界に浮いていた札が、文字としての圧を失って、ただの印刷物に戻る。
“命令”ではなく、“噂”の紙切れになる。
ドロイドの腕が止まった。
止まった理由は、故障ではない。
命令の発火が消えた。
優先順位が立たない。
“公式の札”として成立していた力が——落ちた。
落ちた先は、床だ。
札が、床に落ちた。
落ちるはずのなかった札が、紙として落ちる。
落ちて、舞う。
紙吹雪みたいに、リングの内側を舞い始めた。
義弘は息を吸った。
吸えた。
誰も確認しない。
札が貼られない。
巨人の輪郭が崩れる。
へばりついていた都市の壁から、紙が剥がれ落ちる。
剥がれ落ちて、ただの紙になる。
ただの紙になって、ただの噂になる。
耳元で、トミーが叫んだ。
『……おい、戻った! 戻ったぞ!』
義弘は立ち上がった。
立ち上がるのに、札は要らない。
順番も要らない。
彼はリングの奥を見る。
そこに、アリスがいた。
セーラー服に灰色のフード。
スカーフ。
小さな体。
目だけが異様に冷たい。
——そして、その隣に。
誰もいない空間に、女の子の影がふっと揺れて、消えた。
清掃員の影も、いつの間にかいない。
アリスは義弘を見上げ、眉を寄せた。
「……死にかけてたじゃん」
「お前が遅い」
「うるさい。ジジイ」
罵声はいつも通りだ。
いつも通りだから、息ができる。
二人の間を、紙が舞った。
札だ。
札だったものだ。
舞い散る紙は、どこにも貼りつかない。
貼りつかないから、誰も並ばない。
並ばないから、誰も“手順”にならない。
夢だったのか。
幻だったのか。
義弘は窓の外を思い出す。
市長室の窓に頬を寄せていた巨人。
覗いていた目。
いま、覗くものはない。
あるのは風だけだ。
アリスが、ふっと息を吐いた。
吐いた息が、白くならない。
なのに、寒気がした。
「……ねえ」
アリスが言った。
「これで終わり、だよね?」
義弘は答えなかった。
終わり、と言うと、終わりが増える。
終わりも手順になる。
ただ、紙の一枚が風に煽られて、義弘の肩に貼りついた。
指で摘まむ。
剥がす。
紙には、ありえない文字が印刷されていた。
《おつかれさま》
義弘は目を細めた。
誰が書いた。
誰が貼った。
誰が見ている。
アリスが紙を覗き込み、鼻で笑った。
「……キモ」
その一言が、いちばん人間だった。
そして、リングの奥で——
足音が、一拍だけ遅れて響いた気がした。




