第六十二話 紙ホイホイ
市長室の窓は大きい。
新開市を見下ろすためにある。
——見下ろす、はずだった。
義弘が顔を上げるたび、窓の向こうに“目”があった。
札だ。
紙の札が、梁と壁と歩道橋にへばりついて膨らんだ、都市の巨人。
巨人は窓ガラスの外側に頬を寄せ、子どもが水槽を覗き込むみたいに、市長室を覗いている。
息は白くならない。
指紋も残らない。
ただ、ガラスの向こうの輪郭だけが——じっと、こちらを向いている。
義弘が視線を逸らして書類を見る。
数行読んで、また窓を見る。
——まだ、いる。
“幻影”と呼ぶには、礼儀正しすぎた。
“監査”と呼ぶには、執拗すぎた。
巨人の顔はない。
あるのは文字だけだ。
《健康管理:最優先》
文字が、窓の外で揺れる。
揺れは揺れでしかないのに、義弘の脳が勝手に読み替える。
覗いている。
待っている。
こちらが、手順に従う瞬間を。
トミーが机の端で前足を揃え、鼻を鳴らした。
「市長サマ。窓の外にでっかい紙、居座ってるけどさ。
あれ、見ないふりしても帰んないよ?」
義弘は答えない。
答えないまま、背筋を伸ばした。
窓の外の札の巨人は、微動だにしない。
それが——いちばん怖かった。
対策会議は、机の上から始まる。
紙。資料。議事録。申請書式。様式。様式。様式。
行政は紙でできている。
だから、札にとっては——ご馳走だ。
会議室に集まった職員の目が、同じ場所を見ていた。
机の中央、配られた資料の余白。
そこに貼られている。
《健康管理:最優先》
誰も貼っていない。
誰も剥がしていない。
貼られている、という事実だけが増殖する。
真鍋佳澄が、息を吸って吐いた。
その呼吸さえ、決められたテンポみたいに見えるから不思議だった。
「市長……」
「言うな」
義弘は先に切った。
「“窓口を作れ”だろ」
職員が頷きかけて、止まる。
止まった瞬間、ペンの先が机の罫線に揃った。
真鍋が言った。
「窓口を作らなくても、もう……市役所が窓口になってます」
義弘は一瞬、笑いそうになった。
笑うと増える。
笑うな。
「つまり?」
「“公式”という役割そのものが、入口です。
相談を受ける意思があるかどうかに関係なく、
市役所が存在する限り、札はここへ来ます」
官僚ホラーは、正論で出来ている。
正論はいつも、遅れてくる。
そして、正論ほど刃が鈍い。
八重蔵が会議室の隅で茶をすすりながら、笑った。
「市長サマ。いい顔だね。紙に負けた顔」
「黙れ」
「黙ると増えるんだよ。紙は寂しがりだから」
トミーが椅子の背に乗って、あくびを噛み殺す。
「じゃあさ、窓口作らないって言ってたけど、もう窓口なんだろ?
……詰んでない?」
義弘は窓の外を見る。
札の巨人が、まだ覗いている。
「詰む前に、盤面を変える」
義弘は言った。
「市役所を閉じない。閉じたと周知したら増える。
——逆に、市役所を“外へ出す”」
職員がざわめいた。
ざわめきはすぐ整列した。
声が小さくなる。目線が書式に落ちる。
札の巨人が窓の外で頷いた気がした。
「業務を分散します。窓口を一点に置かない。
移動相談。複数地点。告知は最小。
市役所の“中”を、守る」
真鍋が眉を寄せた。
「停止を告知しない停止は、停止と見做されない可能性が——」
「見做されなくていい」
義弘は切り捨てた。
「見做しの問題じゃない。
根を張らせないことが目的だ」
職員が頷く。
頷きが揃う。
揃いすぎて、怖い。
義弘は自分の掌を見た。
スーツを握った掌ではない。
市長の印鑑を押す掌だ。
——こっちの掌で、戦う。
臨時の移動相談所は、市役所の“外”に置かれた。
折り畳み机。パイプ椅子。透明の仕切り板。
紙とペン。——紙、紙、紙。
義弘は、わざと大きく告知しなかった。
“周知”は増える。
だから、人づてだけで十分だと判断した。
判断は、半分当たった。
人は来た。
札も来た。
最初は、机の端に小さく貼られているだけだった。
《定期確認》
次に、椅子の背に。
《健康管理》
そして——いつの間にか、相談所のテーブルクロスの上に、堂々と。
《緊急確認:最優先》
その札を見た瞬間、列が生まれた。
誰かが「並ぼう」と言ったわけじゃない。
ただ、足が揃う。
距離が揃う。
声が落ちる。
沈黙が、列の背中を押す。
義弘は、背後のビルの窓ガラスに映るものを見てしまった。
札の巨人。
市長室の窓に頬を寄せていたはずの、あの幻影が——
今は、首だけを回したみたいに、こちらを見ている。
都市にへばりついた紙の塊が、顔のない顔を巡らせる。
巡らせる先に、義弘がいる。
移動相談所がある。
そして、列がある。
巨人が“見る”たびに、札が増える。
札が、風のように追いついてくる。
紙が紙のまま、移動するはずがないのに、追いつく。
いつの間にか、そこにある。
職員が、無意識に机の上の書類を罫線に合わせて整えた。
ペンを一本、決められた角度で置いた。
声をひそめ、敬語に寄せた。
「……次の方、どうぞ」
次の方、という言葉が、義弘の背中を冷やした。
“次”が存在する限り、列は続く。
列が続く限り、手順は勝つ。
トミーが机の下から顔を出し、嫌そうに鼻を鳴らした。
「追いかけっこ、好きだねぇ。
紙のくせにさ。首、回すなよ。気持ち悪い」
義弘は、口の中で息を切った。
場所を移せば逃げられると思った。
だが、逃げたのは“場所”ではない。
役割だ。
公的手続きという役割そのものが、札の餌になっている。
窓ガラスに映る巨人が、もう一度、顔を巡らせた。
列の最後尾が——自然に、延びた。
リングの内側で、アリスは“胃袋”の鼓動を聞いていた。
札を貼られまくった端末のモニターが、心臓のように点滅する。
点滅のたび、札の影が脈を打つ。
アリスは舌打ちした。
「……調子に乗ってる」
怪談を飼った。
家畜化した。
角折り禁止。剥がすな。最後尾に並ぶな。笑うな。怒るな。
市民は少しだけ元に戻った。雑談が戻った。
戻ったぶんだけ、札は怒った。
《対象確認:NE.C.R.O個体》
《対象保護:未成年(最優先)》
《健康管理:最優先(再掲)》
《対象移送:要》
“保護”という名で、標的が固定される。
固定されるほど、逃げ道が減る。
逃げ道が減るほど、怪談は濃くなる。
暗がりに、札付きの作業ドロイドが滑り出た。
拘束帯。薬剤噴霧。誘導灯。
優しい顔をした、捕獲。
アリスは走らない。
急げば増える。
だから急ぐふりだけする。
女の子の影が現れ、指を動かした。
こっち。
清掃員が、剥がしてはいけない札を剥がしていた。
いつもの手つきで、いつものように。
「ここにゃそんな通知、来てないよ」
来てない。
それが、穴だ。
アリスはその穴を使って、胃袋の端へ滑り込んだ。
鼓動が速くなる。
外で何かが起きている。
札が、集まろうとしている。
——囮。
誰かが札を釣ろうとしている。
釣られるのは札だけじゃないのに。
アリスは歯を食いしばった。
「……ジジイ」
呼び捨てにしても、返事は来ない。
だが、都市の鼓動が返事をしている気がした。
義弘は移動相談所を畳ませた。
畳むのは簡単だ。
畳んだことを周知しないのが難しい。
周知しないと、市民は不安になる。
不安になると札が増える。
——詰みだ。
義弘は詰みを、詰みのままにしなかった。
詰みの盤面を、逆手に取った。
真鍋を呼ぶ。八重蔵も勝手に来る。トミーは当然いる。
「札は場所じゃない。役割に寄生する」
義弘は言った。
「なら、役割を囮にする」
真鍋が眉を上げる。
「囮……?」
「札が好きなものを用意する。
罫線。項目。余白。様式。
市役所の掲示板の“形”だけを外に置く。
——札だけを引き寄せる」
トミーが鼻で笑った。
「紙ホイホイ」
「そうだ。捕まえる」
八重蔵が茶をすすって、口元を歪める。
「捕まえたら、どうする?」
「戻す」
義弘はリングの方角を見る。
「胃袋に」
真鍋が息を呑んだ。
“戻す”は、触るということだ。
触れば増える。増えるほど、勝てない。
だが、触らずに勝つ方法はない。
「設置場所はリング外縁。
市民には大々的に知らせない。
札にだけ、見せる」
「……そんな都合よく」
真鍋が言いかけて、止まる。
止まった瞬間、資料の端が揃う。
札の巨人が覗いている。
都合よく、という言葉が危険だ。
都合よくの次に来るのは、正義だ。
正義は紙になる。
義弘は短く頷いた。
「都合よく見せる。
——俺が、市長だからだ」
臨時の公式掲示板は、簡素だった。
木の板。透明カバー。
中には——何も貼っていない。
ただ、罫線だけが印刷された紙が何枚も挟まっている。
項目は空欄だ。
【確認事項】
【担当】
【優先順位】
【経路】
【備考】
市役所の様式の匂いだけがする。
匂いだけで、札は寄ってくる。
風が吹いた。
風ではない。
紙が紙のまま、集まってくる気配。
掲示板の周囲に、札が一枚、二枚、三枚——
貼られていく。
《安全点検予定》
《健康管理》
《定期確認》
成功しかけた。
その瞬間、誰かがぽつりと言った。
「……助かった?」
声は小さかった。
小さかったから、拾われた。
札が跳ねた。
《緊急確認:最優先》
《緊急確認:最優先》
《緊急確認:最優先》
増える。増える。増える。
掲示板が、札で埋まる。
埋まると、次の札が生まれる。
《担当割当:臨時》
《市民協力:要請》
《安全確保:対象移送》
義弘の喉が乾いた。
「……市民を、末端職員にする気か」
真鍋が顔を青くした。
「最優先が、市民にも割り当てられる……」
列ができる。
掲示板の前に。
誰も号令をかけていないのに、列ができる。
そして、列の中に——札付きドロイドが滑り込む。
《健康管理:最優先》
ドロイドの顔は柔らかい。
柔らかいほど、拒否しにくい。
義弘は察した。
囮で釣れるのは札だけじゃない。
——標的も釣れる。
リングの内側で鼓動が速くなったはずだ。
鼓動が速いほど、アリスは追い出される。
追い出された先に、この掲示板がある。
義弘は奥歯を噛んだ。
「……クソ」
トミーが小さく呟く。
「紙ホイホイ、効きすぎ」
義弘は決断した。
市長としてここに立つのをやめる。
サムライ・ヒーローとして、胃袋へ降りる。
掲示板の端に、誰かが新しい札を貼った。
《夜間確認:未完成リング》
遠くで——足音がした気がした。
義弘は窓ガラスに映る札の巨人を見た。
巨人が、首を回して——笑っているように見えた。
それが幻影でも、現実でも、もう関係なかった。
義弘は背筋を伸ばす。
「……行くぞ」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
けれど、都市の鼓動が一拍だけ——返事をした。




