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第六十一話 最優先の巨人

 朝の新開市は、善意から始まる。


 誰かが貼る。

 誰かが読み、誰かが撮り、誰かが拡散する。

 それが“市民参加”という言葉に包まれると、都市は少しだけ誇らしげになる。


 そして、少しだけ危うくなる。


 バス停の掲示板に、紙が増えていた。


《注意喚起:空白階回避(再掲)》


 飯屋の入口にも、同じ紙。

 学校の昇降口にも、同じ紙。

 市役所の正面入口——誰でも見える掲示板にも、同じ紙。


 文字が、少しだけ変わっている。


《注意喚起:空白階回避(再掲)》

《※空白階では立ち止まらないこと》

《※角折りは行わないこと》

《※列が形成された場合、最後尾に並ばないこと》


 推敲の癖がある。

 誰かが“編集”している。


 その“誰か”が、誰であってほしいか。

 市民の願いは、都合よく形を選ぶ。


「これさ、ゴーストちゃんが守ってくれてる説」

「いや市長だろ。市長が裏で指示してる」

「どっちでもいい、助かるなら正義」

「正義が紙って時点で終わってる」


 終わっているのに、終わらない。

 それが新開市だ。


 市役所の窓口前で、列が生まれていた。


 誰も号令をかけていない。

 誰も誘導していない。

 なのに距離が揃い、最後尾が決まり、沈黙が出来る。


 列の先頭には、案内用の小型ドロイドが一体。

 胸に札が貼られている。


《健康管理》

《定期確認》

《緊急確認:最優先》


 最優先。

 その一語で、空気が冷える。


 窓口担当の職員が、貼られた札を見て、目を逸らし、次に市民を見た。

 市民は、職員を見ない。札を見る。

 札が先にある。人は後だ。


 義弘はその光景を、会議室の窓越しに見下ろしていた。


 市長室は高い。

 高い場所にいると、都市の“流れ”がよく見える。

 そして、流れに飲まれたくなる。


「……相談が殺到しています」


 秘書課の声が乾いている。乾いているほど切実だ。


「『札が増えた』『近所のドロイドが変だ』『家の玄関に貼られた』

 対応窓口を——」


「作らない」


 義弘は即答した。


 会議室にいた全員が一瞬、息を止めた。

 “作らない”は暴力だ。行政にとっては、無視に等しい。


 真鍋佳澄が、喉を鳴らした。


「市長……」


「窓口を作れば、“入口”になる。

 入口ができれば、手順はここへ根を張る」


 義弘は机に置かれた写真を指で押さえた。

 市役所の掲示板。

 見慣れた様式。見慣れた罫線。見慣れた余白。


 そこに、札が混じっている。


《健康管理:最優先》

《緊急確認:最優先》

《経路確認:要再計算》

《保留:剥離判定待ち》


 市役所の掲示板が、手順の掲示板になっている。


「手順は都市の血管に入った。

 そして今——“公式の掲示スペース”を使い始めた」


 八重蔵が、会議室の隅で茶をすすっていた。

 呼んだ覚えはない。いるのが情報屋だ。


「市長サマ。いい顔してるよ。紙に負けた顔だ」


「黙れ」


「黙ると増えるんだよ。紙は寂しがりだからね」


 トミーが椅子の背に乗り、鼻を鳴らした。


「窓口作って札の相談って何? 札のファンクラブ?」


 義弘は視線を落とす。

 窓の向こう、列が静かに伸びている。


「作らない。……だが、聞く」


「どこで?」


「外で。人間で」


 真鍋が理解した顔をした。

 市役所の中で吸えば、根が張る。

 ならば——外で吸う。入口を外に作る。


 行政の弱さを、武器にする。


「……市長が現場に?」


「市長としてじゃない」


 義弘は立ち上がる。


「大人として」


 リングの周辺は、妙に平和だった。


 平和の顔をした“不穏”が、そこら中に貼り付いている。

 仮設柵。柱。歩道橋。

 札が都市の皮膚みたいに増えている。


 義弘は護衛もつけずに歩いた。

 近づくほど、札は増える。

 増えるほど、護衛は手順に吸われる。


 だから——一人で行く。


 人の声がする。

 屋台の声。野次馬の声。配信者の声。


「市長、来た?」

「来てないって、見間違いだろ」

「いや、あれ……白髪、背、高い」

「うわ本物じゃん」

「札の相談、する?w」


 義弘は立ち止まった。

 立ち止まると列が生まれる。

 立ち止まらない。歩いたまま、耳だけ置いていく。


 井戸端の中年女性が、早口で言った。


「うちの玄関にね、昨日から《健康管理》が貼られて、剥がしても剥がしても戻るの。

 夫が怒って角折ったら、今朝《緊急確認:最優先》が追加されて——」


 義弘は頷いた。

 怒りが“最優先”を呼ぶ。善意が“再掲”を呼ぶ。

 市民の感情が、札の燃料になっている。


 少年が笑いながら言った。


「空白階、マジでヤバいっすよ。行ったやつ、敬語になる」


 笑い声が広がりかけて、すぐ萎む。

 誰もが同時に気づくからだ。


 笑うと札が増える、と。


 義弘はその場を離れた。

 離れながら、柵の端に貼られた紙を見た。


《注意喚起:空白階回避(再掲)》

《※列が形成された場合、最後尾に並ばないこと》


 最後尾に並ばない。

 ——列を壊す。

 これは正しい。正しいのに、誰かの癖がある。


 義弘は指先で紙の端を押さえた。


 触れない。

 触れたら増える。


 だが、紙の端に残る“折り目”の癖まで隠せない。

 右下を一度触って、やめた跡。

 角折りの名残ではなく、角折りを止めた手つき。


「……編集者」


 八重蔵の言葉が、背中で蘇る。


 “市民の言葉”で書いてる。


 義弘は舌打ちを飲み込んだ。

 アリスだと決めるのは簡単だ。

 決めた瞬間、手順が“対象固定”を強める気がした。


 決めない。

 今は決めない。


 代わりに——腹を探す。


 アリスは、リングの内側で歯を食いしばっていた。


 札の層が壁になり、棚になり、導線になり、臓器みたいに循環している。

 ここは“胃袋”だ。

 都市の手順が食べ、消化し、また吐き出す場所。


 札で埋め尽くされた端末のモニターが、規則正しく点滅していた。

 秒針のようでも、警告灯のようでもない。——心臓の鼓動に近い。

 光るたび、貼り付いた札の影が脈を打つように伸び縮みする。


 音はないはずなのに、アリスの耳は勝手に“とく、とく”を拾う。

 拾ったのが自分の鼓動なのか、モニターの点滅なのか——区別がつかない。


 点滅のリズムが、アリスの呼吸に合わせて——ほんの少しだけ、速くなる。


「……生きてるじゃん。最悪」


 彼女は翼の端末を狭く畳み、画面の端に浮かぶ札を睨んだ。


《対象確認:NE.C.R.O個体》

《対象保護:未成年(最優先)》

《健康管理:最優先》

《経路確保:障害排除》


 名前がない。

 名前がなくても固定される。


 保護という名の拘束。

 健康管理という名の運搬。

 そして——最優先。


 札付きドロイドが、周囲の闇から滑るように現れる。

 ケーブル。拘束帯。薬剤噴霧。

 “優しい顔”の暴力。


 アリスは走らない。

 急げば増える。

 だから急ぐふりだけする。


 彼女は端末を一枚だけ開き、書き込む。

 投下する文ではない。今は“飼う”ための文だ。


 怪談を潰すのではない。

 怪談を一定の型に固定し、暴走を抑える。


 ——家畜化。


 掲示板に流れる言葉を、わざと整える。


「角折り禁止」

「札を剥がさない」

「列ができても最後尾に並ばない」

「空白階の前で一回立ち止まって、深呼吸して、戻れ」

「戻れるなら戻れ。戻れないなら、笑うな。怒るな。増える」


 都市は言葉を食う。

 食うなら、食べにくいものを食わせる。

 喉に詰まらせる。胃袋に戻させる。


 その狙い通り、札が一拍だけ迷った。


《経路確認:要再計算》

《保留:剥離判定待ち》

《対象照合:再実施》


 ドロイドの動きが遅れる。

 遅れた隙に、アリスは空白階へ滑り込む。


 消灯。


 女の子の影が、そこにいた。

 NECROでも観測できない輪郭。

 言葉はない。指だけが動く。


 こっち。


 気のいい清掃員が、札を剥がしている。

 剥がしてはいけない札を、いつもの手つきで。


「急ぐと、増えるよ」


「知ってる」


 アリスは吐き捨てた。


「だから急がない。……急ぐふりだけする」


 彼女は影の指す“例外導線”へ身を滑らせ、胃袋の鼓動から一歩だけ離れた。


 だが、離れるほどに思い知る。

 手順はもう、リングの内側だけのものじゃない。


 市民が拡散する。

 市が掲示する。

 善意が運ぶ。


 怪談を飼っても、都市はもっと大きい。


 その日の夕方。

 義弘は市役所へ戻った。


 戻るべきではないと、身体が言っている。

 だが市長は、市役所に戻る。

 戻ることで、札が勝つ。


 市長室に入る前に、真鍋が廊下で待っていた。

 顔が青い。


「市長……これ」


 真鍋が差し出した写真には、市長室の机が写っていた。

 机の端に、札が貼られている。


《健康管理:最優先》


 義弘は息を吐いた。

 貼った覚えはない。

 剥がした覚えもない。

 ただ、そこにある。


 彼は市長室に入り、机の札を見つめた。

 指先を伸ばして——止める。


 触れたら増える。

 触れなくても、もう増えている。


 そのとき、視界の端で、何かが“立ち上がった”。


 札だ。


 紙の札が、都市の輪郭を食って膨らみ、

 梁に、壁に、歩道橋に、電柱に、

 ——新開市へばりついていく。


 巨人のようだった。


 いや、巨人ではない。

 巨人に“見える”だけだ。

 紙が紙のままではいられなくなったとき、

 人間の脳が勝手に形を与える——その類の錯覚だ。


 だが、その巨人は確かに、都市を抱きしめている。

 抱きしめて、締め付けて、整えている。


 “守っている”顔で。


 義弘は乾いた笑いを喉の奥にしまい、呟いた。


「……最優先、か」


 遠くで、未完成リングの灯りが一瞬だけ瞬いた。

 心臓の鼓動みたいに。


 義弘は背筋を伸ばした。

 市長としてではなく、サムライ・ヒーローとして。


 札の巨人が、こちらを見た気がした。


 その“視線”の中に、言葉がないのが——いちばん怖かった。

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