表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
55/237

第五十五話 静かな撤退

 撤退は、音を立てない。

 音を立てるのは、撤退のあとに残った空気だ。


 新開市の朝は、いつも通りに忙しい。

 いつも通りに騒がしい。

 いつも通りに、誰かが端末を掲げている。


 いつも通りのはずなのに——義弘は、違いを嗅いだ。


 現場の匂いが薄い。


 街のどこかで起きるはずの“回収”の気配が、今朝はない。

 車列も。

 無線のざわめきも。

 誰かが“正しい手順”で現場を消す音も。


 義弘は端末を開かない。

 開けば、結論が刺さる。


 それでも、刺さってくる。


「【平和】完璧義弘のおかげで治安回復w」

「市長候補は壇上で喋ってて」

「現場は“義弘”でいいよ」

「案件切れ? 草」

「次の神回はいつ?」

「神回中毒者たち落ち着け」

「落ち着けないから見てんだろ」


 肩の上でトミーが、あくびを噛み殺しながら言った。


「お前、追い出したな。敵」


「……追い出した、か」


「追い出したよ。ほら、回収が減ってる。静か。平和。勝利。めでたい」


 義弘は、膝を伸ばして痛みを確かめた。

 痛みは残っている。

 痛みが残るほど、何かは確かに起きた。


「勝利は、まだだ」


「ほらな。お前そういうとこだ」


 トミーは耳を動かして、妙に満足そうに鼻で笑った。


「“割に合わない勝利”ってやつ?」


「割に合わないようにした。……それで撤退するなら、狙い通りだ」


 義弘は窓の外を見る。

 空は晴れているのに、街の光は冷たい。


 勝利が街を温めないのは、いつものことだ。


 ——インターフォンが鳴った。


 義弘がドアを開けると、八重蔵が立っていた。

 ボロ服。冴えた目。新しい靴。逃げ道の靴。


「候補者サマ」


「匂いか」


「匂い。撤退の匂い」


 八重蔵は言いながら、封筒を差し出す。

 封筒は薄い。薄いほど、嫌な匂いが濃い。


「回収班の出入りが減った。数じゃない。質が減った。

 ——“正しい手順”の匂いが、薄い」


「撤退だな」


 八重蔵は笑わなかった。


「撤退という言葉は便利じゃない。

 便利じゃない言葉は、誰も使わない」


「……誰も言わない撤退ほど、信用できる」


 八重蔵が、封筒を叩く。


「だが置き土産がある。

 撤退は“空白”を置く。

 空白には、必ず誰かが文字を書く」


 義弘は封筒を受け取り、開けた。


 中には、短いメモが一枚。

 “巡礼”の申請が、また増えている。

 立入禁止区域の周辺で、小さな火災と妨害が増えている。


 ——撤退の真空で、飢えが動き出している。


 トミーが、封筒の中身を覗き込んで言った。


「平和ってのは、退屈の別名だからな」


「退屈は、事件を呼ぶ」


「事件は再生数を呼ぶ」


 義弘は言葉を切った。


「……再生数は、人を呼ぶ」


 八重蔵は頷いた。

 頷き方が、少しだけ重い。


「候補者サマ。勝ちに行くなら、派手に勝つな。

 派手に勝つと、あいつらが戻る。

 静かに勝て。静かに勝つと——」


「静かに壊れる」


「そう。街が」


 義弘は封筒を閉じた。

 閉じても、匂いは閉じられない。


 ——


 同じ頃。

 街のどこか、窓のない建物の地下。


 白い照明。乾いた空気。

 誰も名乗らない会議室。


 長いテーブルに、役割だけが座っていた。


 “監督”

 “運用”

 “回収”

 “整備”

 “広報”


 議題は短い。

 短い議題ほど、刃が深い。


「運用負荷の再配分」


 “広報”が淡々と資料を開く。


「街の反応は良好。

 “完璧”は定着しつつある。

 候補者は地味化。役割分離が進行」


 “運用”が頷く。


「次段階への移行は可能。ただし——」


 “整備”が、抑えた声で言う。


「個体差が増えている。

 再現性が落ちている。

 『完璧』が内部から揺らぐ」


 “監督”が即座に返す。


「個体差という語は不適切です」


 “整備”が続けようとするが、言葉が遮られる。


「規定が存在します。

 規定の範囲内であれば、問題は存在しません」


 “回収”が言う。


「回収速度を上げた結果、目撃が増えた。

 回収班の露出が——」


 “監督”は視線を動かさず、言う。


「目撃は問題ではない。証拠は残らない」


 “広報”が、無感情に付け足す。


「勝利映像は資産として残す。

 撤退は発表しない。

 発表しない撤退は、撤退ではない」


 “運用”が一拍置き、結論を“丁寧に”言い換えた。


「優先度を更新する。

 街での運用は、ここで一度停止する」


 “撤退”という言葉は最後まで出ない。


 言葉を出さずに済ませるのが、彼らの勝利だ。


 “整備”が、ほんの少しだけ低い声で言った。


「……癖が残る。完全には戻らない」


 “監督”は微笑んだ。


「癖という語は不適切です」


 会議室の空気が、軋んだ気がした。

 軋んだのは建物ではない。

 手順が限界に近づく音だ。


 ——


 街に戻る。


 撤退は発表されない。

 発表されないから、街は“終わった”と思わない。


 飢えた者は、終わりを許さない。


 昼過ぎ。

 未完成構造物の外縁。

 立入禁止のテープの前で、配信者たちが笑っていた。


「今日は“完璧義弘”来るかな!」

「候補者は来ないでしょ、政治家だし」

「じゃあ俺らで現場作る?」

「冗談冗談w」


 冗談が冗談で終わらない。

 この街では、冗談が最初に現実になる。


 義弘は現場に行かなかった。


 代わりに、紙を動かした。

 電話を動かした。

 ルールを動かした。


 立入禁止の補強。

 臨時封鎖。

 避難導線の明文化。

 巡礼申請の条件追加。

 救助導線を邪魔する配信機材の没収手順。


 地味な勝利。

 地味な勝利は伸びない。

 だが地味な勝利は、舞台を奪う。


 トミーが、机の端から言う。


「なあ。お前、ヒーローっていうより、嫌がらせの達人だな」


「嫌がらせじゃない。事故を減らす」


「それを嫌がらせって言うんだよ。事故を増やして食ってる連中からしたらな」


 義弘は黙って判を押す。

 判は静かで、刃より深い。


 ——夜。


 義弘の端末に、鳴海から短い返事が入った。


《補給の線、閉じていない》


 義弘は一度だけ画面を見つめた。

 線が閉じていない。

 つまり、形が変わる。


 鳴海の次の文が続く。


《撤退で尻尾が消える。

 だが部材が流れている。

 民間側に“摩耗した補修材”が出てる》


 義弘は指を止めた。


 摩耗した補修材。

 誰かが“完璧”を修理している。


 完璧を修理する人間が、この街にいる。


 ——


 一方、アリスは机に座っていた。


 学校。

 授業。

 当たり前の顔をした“健康管理”。


 彼女のNECROは修理を終えたばかりで、まだ身体に馴染み切らない。

 微細な遅れ。微細な違和感。

 その微細が、彼女には致命的に鬱陶しい。


 廊下から、声が刺さる。


「アリスちゃん、今日配信出ないの?」

「義弘さん、市長なるの?」

「完璧義弘の方が好きかもw」


 アリスは視線を上げない。

 視線を上げた瞬間、物語の登場人物になる。


 ノートの端に、シュヴァロフの部品図を描く。

 描き直す。描き直す。描き直す。


 修理は祈りだ。

 祈りは、諦めない形だ。


 放課後、隠れ家に戻る。

 工具箱を開ける。

 欠けた装甲を撫でる。


 痛い。

 痛いほど、まだ大切だ。


 玄関の外の札が増えていた。


《安全点検予定》

《安全点検予定》

《安全点検予定》


 丁寧な字。

 丁寧な字ほど、侵入者の顔をしている。


 アリスは札を剥がさない。

 剥がせば手順が始まる。

 始まった手順は、終わらない。


「……来てる」


 彼女はそれだけ言って、工具を握り直した。


 ——


 夜が深まる。


 街のどこか。

 狭い部屋。

 端末の光だけが生きている。


 机の上に、摩耗した装甲片が並べられていた。

 剥げた塗装片。

 毛羽立った糸。

 乾いた黒い粉。


 画面には、まとめ動画が繰り返し再生されている。


「完璧義弘、無傷で制圧」

「市長候補、退場」

「現場は“義弘”へ」


 再生。

 巻き戻し。

 再生。

 巻き戻し。


 部屋の主は名乗らない。

 名乗るのは役割だけだ。


 彼は、机の下の装甲を引き寄せる。

 スーツが見える。


 ボロボロだ。

 継ぎ目が浮き、擦れるたび乾いた音を立てる。

 冷却の白い蒸気が、どこかから漏れている。

 スポンサーの文字だけが汚く残っている。


 彼は独り言のように呟いた。


「現場の義弘は……俺だ」


 その声は、配信の口調に似ていた。

 誰もいないのに、誰かに届く前提の声。


 彼は端末に、短いメッセージを打つ。


 宛先は、津田義弘。

 送信者は不明。


 添えるのは一言だけ。


《見てくれ》


 そして位置情報。

 昔、無音配信が流れ、子どもがごっこ遊びをし、避難民が眠った——あの体育館。


 避難所跡。


 ——


 義弘の端末が、静かに震えた。


 位置情報と、短い一言。


《見てくれ》


 送信者は不明。

 文章は短い。短いほど、重い。


 トミーが肩の上で、耳を立てた。


「……誰もいない場所で“見てくれ”は、ろくなことじゃない」


 義弘は端末を閉じた。

 閉じたまま、都市戦用ブレードの柄に手を掛ける。


「だから行く」


 窓の外で、街のネオンが瞬いた。

 平和の顔をした街が、飢えた目をしている。


 撤退は音を立てない。

 だが撤退の後に残った空気は、誰かを動かす。


 義弘は、避難所跡へ向かった。


 ——誰もいない場所で、誰かが「見てくれ」と言っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ