第五十一話 宣言の鞘
雪崩は、静かに始まる。
夜明け前の新開市は、まだ冷えている。
冷えた空気の中を、足音が一本、また一本と増えていった。
隠れ家の周囲。
路地の入口。
古い電柱の影。
未完成構造物の梁の下。
最初は数人だった。
やがて十人。
やがて百人。
光が灯る。
配信者のライト。
ドローンの小さな撮影灯。
端末の画面が、暗い朝に点々と浮かぶ。
「ここだって!」
「マジで聖地じゃん」
「アリスちゃん、出てきてー!」
「安全確認だよ、安全確認」
「市長候補の相棒を守らないと!」
「ほら、危険区域だし! 誰か見張ってないと!」
善意と欲望が混ざった声が、ひとつの塊になる。
塊は、刃だ。
刃は自分を正しいと思っているとき、いちばん鋭い。
隠れ家の中では、磨く音だけが続いていた。
アリスは作業机に向かい、シュヴァロフの装甲片を磨いている。
磨く、磨く、磨く。
外のざわめきは聞こえているはずなのに、音は止まらない。
義弘は窓の影で、外を見た。
人の密度が増している。
隠れ家の場所が“偶然”広まったとは思えない増え方だ。
導線がある。
誘導がある。
トミーが肩に飛び乗り、耳元で囁いた。
「来たな。“衆目の牙”」
義弘は頷く。
膝が痛い。
だが今日痛いのは膝ではない。
この部屋の静けさが、切り刻まれようとしている。
アリスが口を開いた。振り向かずに。
「……私、動かないから」
「分かっている」
「出たら“商品”になる。出たら、また……」
言葉が途切れる。
怒りと疲労が混ざった沈黙。
その沈黙が、義弘には決意に聞こえた。
義弘はドアノブに手を置き、言った。
「なら、俺が前に出る」
トミーが低く笑った。
「お前、候補者サマらしく、ちゃんと“言葉”で切れよ」
「切る」
「切りすぎるな。切ると燃える」
「……整える」
義弘はドアを開けた。
——
外は、目だった。
目。
レンズ。
画面。
視線の海。
「出てきた!」
「義弘だ!」
「本物!」
叫びが波になる。
波が押し寄せる。
押し寄せた波は、玄関を飲み込もうとする。
義弘は一歩、前に出た。
スーツは着ていない。
バイザーも下りていない。
ただ、生身の声だけがある。
「止まれ」
声は低い。
鋼のように冷たい。
しかし怒鳴ってはいない。
怒鳴り声は、群衆を興奮させる。
止まれ、と言っただけで、波が一瞬だけ止まった。
止まる。
それが“本物”の重さだった。
義弘は群衆を見回す。
ひとりひとりを見る。
見ることで、塊を崩す。
「ここは危険区域ではない。だが——お前たちが危険だ」
ざわめきが走る。
“正しい”と信じている刃が、少しだけ揺らぐ。
「守る? 安全確認? その言葉で、玄関を踏み荒らすのか」
「違っ——俺たちは!」
「俺たちじゃない。お前だ。お前たちだ」
義弘の言葉は、刃を刃で切っている。
だが、血が出ない切り方を選んでいる。
切っているのは肉ではなく、熱だ。
トミーが肩の上で、聞こえるように言った。
「お前らの正義、玄関で靴脱げ」
笑いが起きた。
笑いは救いではない。
だが、熱を抜く。
熱が抜ければ、刃は鈍る。
配信者が叫ぶ。
「津田さん! 今のコメント、もう一回! こっち向いて!」
義弘は視線を向けない。
向けた瞬間、編集される。
義弘はただ、宣言した。
「——俺は、市長選に出馬する」
ざわめきが爆発した。
「うおおおお!」
「来た! 公式!」
「ガチじゃん!」
「その場で言うの強い!」
「今撮れた!? 撮れた!?」
光が増える。
光は刃だ。
刃を鞘に戻すには、別の導線が必要だ。
義弘は続けた。
言葉を短く、強く。
「正式な会見は後日だ。
だが、今ここで言う。——市長になっても、俺はサムライ・ヒーローを辞めない」
空気が一瞬、止まった。
そして次の瞬間、熱が別の形で噴き出す。
「え、続けるの!?」
「市長×ヒーロー最強!」
「やば、伝説じゃん」
「じゃあ“もう一人”は何?」
「二人体制で回すのか?」
「アリスちゃん副市長確定じゃん!」
最後の声で、義弘の目が冷えた。
「——違う」
一言が、冷水のように落ちる。
「アリスを巻き込むな。
彼女は市の道具でも、俺の道具でも、お前たちの玩具でもない」
群衆の中に、反発が生まれる。
反発が生まれるのは、効いている証拠だ。
「でも、相棒じゃん!」
「俺たちは応援してるだけ!」
「好きにさせろよ!」
好きにさせろ。
それは刃を振るう側の言葉だ。
義弘は声を荒げないまま、政策を投げた。
投げるのは石ではない。
導線だ。
「高速機動隊との提携を強化する。
サムライ・ヒーローとの連携も、制度として整える」
“制度”。
その単語が群衆の耳を引く。
引くのは、欲だ。
だが欲は導ける。
「新開市外郭の建物の安全基準を引き上げる。
事故で遊ぶ街を終わらせる」
“事故で遊ぶ”。
刺さった。
刺さる言葉は燃える。
燃える前に次を出す。
「インフラ税率を改正する。
生きるための税を軽くし、壊すための金を重くする」
難しい話なのに、群衆がどよめく。
理由は簡単だ。
“自分の財布”に触れたからだ。
配信者が叫ぶ。
「やば! 政策! 政策出た!」
「速報! 税率改正って何!?」
「誰か解説して!」
「まとめ班! まとめ班来て!」
義弘は頷いた。
まとめ班。
まとめ動画。
その刃を、今日は逆に使う。
「正式な会見は後日だ。
日時と場所は——“公式”で告知する」
“公式”。
その言葉が群衆を動かした。
動かすのは義弘の腕力ではない。
予定表だ。
「ここは、会見の場所じゃない。
ここは——俺が守る」
義弘は一歩下がり、玄関の前に立つ。
盾になる位置。
しかし盾は装甲ではない。
“宣言”という盾だ。
応援団体のスタッフが、すぐに反応する。
勝手に、だが都合よく。
「皆さん! 会見の告知を待ちましょう!
こちら、移動してください!
配信の邪魔になります!」
配信の邪魔。
その言葉が群衆に効く。
哀しいほど効く。
波が、向きを変えた。
刃が、鞘へ戻るように。
光が、玄関から離れていく。
足音が、遠ざかる。
ざわめきが、薄まっていく。
義弘は息を吐いた。
吐けた。
吐けた瞬間、背中に汗が冷たく流れた。
守れた。
今日は。
——
隠れ家のドアが閉まると、部屋の静けさが戻った。
アリスは磨く音を止めていた。
止めたことに、義弘は気づいた。
「……バカ」
アリスの声は小さい。
小さいが、震えている。
「出馬宣言とか……最悪。余計燃える」
「燃やすためじゃない。
刃を逸らすためだ」
アリスは唇を噛み、視線をシュヴァロフの装甲片に落とした。
落としたまま言う。
「……ありがとう、とは言わない」
「言わなくていい」
トミーが欠伸をした。
「言わなくていいけど、掃除はしろよ。
候補者の隠れ家、汚いと叩かれるぞ」
「うるせえ」
アリスの毒が戻った。
戻った毒は、生きている証だ。
——
同じ頃。
別の場所で。
サムライ・ヒーロー・義弘は、配信を見ていた。
画面の中で、本物が言う。
市長になっても、サムライ・ヒーローを辞めない。
その瞬間、“義弘”の挙動が変わった。
人間の怒りではない。
怒鳴り声もない。
拳を震わせるでもない。
ただ、制御の揺れが走る。
動きの“間”が壊れる。
完璧な型に、微細なノイズが混ざる。
まるで——仕様が破れたかのように。
画面のコメントが踊る。
「え、今の言い方かっこよ」
「辞めないの強すぎ」
「じゃあ、もう一人の義弘って何?」
「あっち、今動き変じゃね?」
「ラグ?」
「通信遅延?」
“義弘”は、静かに立ち上がる。
立ち上がり方が、不自然に速い。
そして——どこかへ向かう。
向かう先を告げる言葉はない。
だが、目的だけが見える。
“本物”を本物に戻す。
いや——“本物”を奪う。
——
さらに同じ頃。
さらに別の場所で。
影は、準備を始めていた。
影は名前を名乗らない。
影は主語を曖昧にする。
影は丁寧な書式で、丁寧に人を動かす。
机の上に並ぶのは、計画書。
日程。
導線図。
人員配置。
“偶然”の発生点。
義弘の正式な会見。
その日時に合わせた、偽装テロの段取り。
目的は二つ。
ひとつ、サムライ・ヒーロー・義弘を“本物”にする。
ひとつ、津田義弘を“政治の檻”に固定する。
——そして、アリスを衆目の牙で刺す準備を整える。
紙の端に、短い注記がある。
《会見は安全である必要がある》
《安全であるほど、人は無防備になる》
《無防備は——処刑台に等しい》
影は静かに動く。
静かだから、止めにくい。
義弘が玄関で刃を鞘に戻した、その裏で。
もっと大きな刃が、磨かれ始めていた。




