第四十八話 既成事実
義弘は、自分がいつ立候補したのか知らなかった。
朝、隠れ家の薄いカーテン越しに光が差し込む。
シュヴァロフがいれば――きっときちんと整えられた光だった。
だが今は、生活の雑さが光の角度にまで出る。
床の金属粉が薄くきらめく。
キッチンのシンクには洗い物。
掃除機は途中で息絶えたまま。
ピザ箱と栄養ゼリーの空が、母性の不在を主張している。
トミーが机の上で伸びをした。
「おはよう、候補者サマ」
「……やめろ」
「やめろって言っても、もう“確定事項”だぞ」
トミーは義弘の端末を前脚で叩いた。
通知が、数え切れない。
義弘は画面を見た。
《新開市市長選:津田義弘 出馬へ》
《推薦団体:登録完了》
《応援ページ:公式(仮)公開》
《政策提言:募集開始》
《街頭演説:日時候補》
出馬へ。
へ、ではない。
もう出ている顔をしている。
義弘は息を吐きかけ、途中で止めた。
吐くと、現実になる気がした。
「……推薦団体?」
「乱立してる。見ろよ」
画面をスクロールすると、団体名が続く。
続きすぎる。
新開市はインフラが止まりかけても動く街だが、書類も止まらない街だった。
《新開市市政改革有志の会》
《サムライ市長を推す会》
《刀で切り開く未来連盟》
《津田義弘と歩むインフラ再興フォーラム》
《ヨシヒロ様を讃える会(非公式)》
《ゴーストと共に!市政応援団(非公式)》
義弘は指を止めた。
「……最後の何だ」
「知らん。てか“非公式”って書いてあるのが一番非公式じゃねえ」
トミーが笑った。軽い笑い。重い現実。
義弘はさらにスクロールし、背筋が冷えた。
団体の活動内容欄が、どれも妙に整っている。
同じ言い回し。
同じ段落構成。
同じ“丁寧な善意”。
型が配られている。
義弘は目を細めた。
「誰かが……書式を流してる」
「だろうな。自発的に見せかけた“既成事実”ってやつだ。お前、椅子に座る前に座らされる」
椅子。
戦場の椅子。
義弘が返事をする前に、外が騒がしくなった。
隠れ家の位置は、まだ“完全”には割れていない。
だが新開市の嗅覚は、無駄に鋭い。
窓の外――路地の入口に、いかにも配信者の群れが見える。
カメラ。マイク。光るサインボード。
善意と無礼が混ざった顔。
義弘は目を逸らした。
逸らした先に、シュヴァロフの装甲片がある。
丁寧に並べられ、丁寧に壊れている。
義弘は唇を噛んだ。
歓迎は刃より厄介だ。
刃なら切られる。
歓迎は“持ち上げる”という形で折ってくる。
——
新開市のネットは、朝から祭りだった。
公式を名乗る配信が乱立する。
まとめ動画が湧く。
解説動画が増殖する。
切り抜きが、切り抜きの切り抜きを生む。
義弘の活躍をまとめた“伝説”が、半日で三十本できた。
「【30分でわかる】津田義弘という男」
「義弘の刀の角度、全部解説」
「膝のダメージから読み解く次の戦略」
「市長になったら何が変わる?インフラ政策予測」
「アリスちゃん副市長説、真面目に検証」
義弘はその一覧を見て、端末を伏せた。
伏せても、通知が震える。
震えは止まらない。止められない。
そして、物販が始まった。
義弘のサムライ・スーツ風ジャケット。
刀型ペンライト。
「シドー」プリントのステッカー。
そして、なぜか――アリスのアクリルスタンド。
制服ver。
灰色フードver。
作業着ver。
さらに“限定”と書かれた、シュヴァロフのミニチュア。
義弘は眩暈がした。
「……俺の市長選に、あいつを混ぜるな」
トミーが即答する。
「混ぜるなって言っても、もう“セット売り”だぞ。お前らコンテンツとしては夫婦枠だ」
「殺すぞ」
「できねえだろ。市長候補は暴力振るうと失点だ」
トミーの毒舌は、笑えるはずなのに笑えない。
笑えないのが、選挙だ。
——
学校でも、空気が変わり始めていた。
廊下のざわめきが、アリスを追いかける。
追いかけるのは視線だ。視線は檻だ。
「ねえ、あれ……」
「アリスちゃんじゃない?」
「市長の相棒でしょ」
「副市長になるの?」
制服の襟元を直しながら、アリスは歩く。
歩幅は小さい。小さいが、速い。
逃げる速さではない。押し切る速さだ。
教室の自分の机に着くと、すでに置かれていた。
透明な袋。
中に、小さなアクリルの“自分”。
アリスは、口の端を引きつらせた。
「……ふざけんな」
隣の席の生徒が、悪気なく言う。
「え、可愛いじゃん。サインしてよ」
「死ね」
「えっ」
悪気のない驚きが、一番腹立つ。
アリスは袋を机の端に滑らせ、視線で切る。
「私の顔を“商品”にすんな」
教室が一瞬だけ静かになる。
静かになった後、ざわめきが増す。
「こわ……」
「でも本物だ」
「やっぱゴーストって感じ」
「副市長っぽい」
副市長。
誰が決めた。
誰が決めたのか、決めた顔で決まっていくのが一番嫌いだ。
保健室の先生が、廊下で待っていた。
優しい声が檻になる。
「アリツェさん、今日は少し……休んだ方が」
「休まない」
「健康管理だから」
「その言葉、嫌い」
先生は一瞬だけ言葉を詰まらせ、笑顔を作る。
笑顔は制度の皮だ。
アリスは保健室に入らなかった。
入ったら囲われる。
囲われる時間は、シュヴァロフを奪う。
放課後。
アリスは寄り道をしない。
寄り道は、誰かの期待と接触する。
接触は、檻が厚くなる。
帰る。
直す。
——
隠れ家に戻ると、部屋は相変わらず“家庭的に汚い”。
玄関の靴は揃っていない。
床の砂と金属粉が、細い川のように流れている。
シュヴァロフがいた頃は、こんな“線”はなかった。
洗い物は増えている。
ピザ箱も増えている。
栄養ゼリーの空も増えている。
母性の不在は、増殖する。
その中心に、義弘が座っていた。
膝を庇うように、動かず。
まるで負傷兵みたいに。
アリスは眉をひそめた。
「……何してんの、ジジイ」
「窒息しに来た」
「最悪」
アリスは靴を脱ぎ捨て、キッチンを睨む。
睨む相手は洗い物ではない。自分の生活だ。
「……掃除役が壊れてるから」
義弘の視線が、シュヴァロフの装甲片に落ちる。
落ちたまま動かない。
アリスは作業机に向かい、手袋をはめる。
工具を並べる。
並べ方が丁寧だ。生活は雑でも、ここは丁寧だ。
シュヴァロフの装甲片に指を触れる。
触れ方が、家族に触れる手だ。
「直す」
義弘が頷いた。
頷きは約束ではない。
今は同意で充分だ。
そのとき、義弘の端末が震えた。
震えは選挙の亡霊だ。
義弘は画面を見て、顔をしかめる。
「……“公式ショップ”ができた」
「は?」
「義弘関連グッズ。……アリス関連もある」
「殺す」
「候補者が殺すな」
トミーが笑った。
「でもな、アリス。お前のアクスタ、売れてるぞ。しかも作業着が一番」
「死ね」
「買ったのはお前の同級生かもしれねえ」
「死ね」
アリスは工具を握り、握りしめたまま息を吐いた。
吐く息が熱い。熱は怒りだ。
「……私、動かない。しばらく」
義弘が目を上げる。
「分かってる。……直すんだろ」
「直す。シュヴァロフ。絶対」
“絶対”は強い。
強い言葉は、泣きそうな喉から出る。
——
街のどこかで、“応援団体”のひとつが会合を開いていた。
会議室。安いレンタル。立派な名称。
壁にはスローガン。
《市長・津田義弘》
《秩序・サムライ精神》
《新開市は我々の手で》
そこに、一人だけ温度の違う男がいた。
年齢は若くない。だが目が若い。若すぎる。
目が燃えている。燃えているのに冷たい。
男は言った。
「津田義弘は市長になる。なら、戦場の津田義弘は誰がやる」
周囲が笑う。軽い笑い。
笑いはすぐに止まる。男の目が笑っていないからだ。
「……俺がやる」
男は続けた。
「市長・義弘。制度の義弘。
なら、現場の義弘が必要だ。
俺が“義弘”になる。俺がサムライ・ヒーロー“義弘”になる」
言葉が危うい。
危ういのに、周囲は拍手してしまう。
拍手は責任を消す。
その会合の終わり。
男は一通のメッセージを受け取った。
差出人は、企業でも行政でもない。
それなのに文面は丁寧で、書式が整っていた。
《現地調整窓口》
《あなたの理想に共鳴する》
《市の秩序を守る志は尊い》
《支援物資を提供する》
男の指が震えた。
震えは恐怖ではない。歓喜だ。
待ち合わせ場所は、街の外れ。
インフラ施設の影。監視の死角。
そこで、男は“贈与”を受け取った。
ケース。長い。重い。
開くと、中にスーツが眠っていた。
義弘のサムライ・スーツに酷似したパワードスーツ。
装甲の輪郭。バイザーの形。肩の張り。
しかし細部が違う。違いが不気味だ。
関節部が妙に“締まって”いる。
拘束と破壊のための締まり方。
“非致死”という名目で、骨を折れる締まり方。
男は息を呑んだ。
「……これで、俺は“義弘”になれる」
丁寧な声が、影から言う。
「市長候補を守る護衛用です。あなたの志にふさわしい」
「ありがとうございます……」
男はスーツに手を触れ、震えながら笑った。
笑いが、泣き顔に近い。
影の声が、最後に一言だけ添えた。
「——適合試験を行いましょう」
スーツの胸部が、微かに光る。
駆動音。低い。
ロックが噛み合う音。
男の眼が、さらに燃えた。
——
その夜、アリスはシュヴァロフの装甲片を磨いていた。
磨く。磨く。磨く。
磨く行為は祈りに近い。
義弘はその背中を見ていた。
背中は小さい。小さい背中が、街より強い。
義弘の端末が、また震えた。
“立候補届出”の締切通知。
淡々とした文字。
義弘は呟いた。
「椅子に座る前に、椅子が俺を座らせる気か」
アリスは振り向かずに、言った。
「座るなら、私のこと商品にすんなって言って」
「……言う」
約束に近い言葉。
義弘は自分が息を吸えたことに気づく。
外の街はまだ祭りだ。
祭りは、誰かの首を絞める。
そしてその祭りの影で、別のスーツが目を覚まし始めている。




