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第四十七話 椅子の戦場

 歓迎が、津田義弘の息を奪った。


 刃を向けられるより厄介だ、と彼は思った。

 刃なら避けられる。刃なら折れる。

 だが歓迎は、抱きついてくる。抱きついたまま首を絞めてくる。


 朝から端末が鳴り続けていた。

 個人回線、会社回線、古い固定回線、そして——物理の封書。


 封書が怖い。

 封書は“正式”だ。正式は逃げ道を潰す。


 トミーが机の上で耳を伏せた。


「……来たな。選挙の亡霊」


「亡霊ならまだ静かだ」


「静かなのはアライアンスだけだな。あいつら沈黙してるのに、周りがうるせえ。最悪の構図」


 義弘は返事をしなかった。

 返せば現実になる。

 現実はいつも、紙でできている。


 インターフォンが鳴る。

 鳴った瞬間に、玄関の外で誰かが勝手に配信を始めた気配がした。

 都市は音を拾う。音は拡散する。拡散は戦場だ。


 義弘が扉を開ける前に、声が飛び込んできた。


「津田さん! 市長選、出ますよね!?」


「生配信です! 一言だけ!」


「この街を救えるのはあなたしかいない!」


 ——あなたしかいない。


 その言葉が一番無責任だ。

 “あなたしかいない”は、“俺たちは責任を取らない”の裏返しだ。


 義弘は扉を開けずに言った。


「帰れ」


 外がざわめく。

 ざわめきが笑い声に変わる。笑い声がコメントに変わる。


 勝手に浮かぶAR欄。


「市長ヨシヒロ爆誕w」

「副市長アリスちゃんで!」

「政策:刀で解決」

「顔出して。顔。顔。」


 義弘は画面を消した。

 消しても消えない。

 消えないのが“歓迎”だ。


 それでも、午前中だけで外の雪崩は終わらなかった。


 今度は、きちんとした靴の音が来た。

 会社の靴だ。会議の靴だ。逃げ道のない靴だ。


 義弘の会社の経営陣が、資料を抱えて入ってきた。

 名誉会長の部屋に、名誉会長を座らせるために。


「津田会長、出馬の件ですが——」


「俺は会長じゃない」


「名誉会長です。ですが、影響力は——」


 影響力。

 それは褒め言葉ではない。拘束具だ。


 資料が机に置かれる。分厚い。

 ページをめくる音が、膝の痛みよりうるさい。


 「出馬の場合の株価影響」

 「都市契約への波及」

 「バイオ・オイル供給の政治的意味」

 「国外勢力の反応(推定)」


 義弘はそれを見て、笑いそうになった。笑えない。


「俺の人生はいつから“推定”になった」


 広報が微笑んだ。

 微笑は刃だ。刃は優しく切れる。


「津田さんが出るなら、“信頼”を取り戻せます」


 信頼。

 それは“売国奴”の反対語として、最も都合がいい。


 その場にさらに、別の靴が混じった。

 OCMの靴だ。軽いのに高い音がする。


 オスカー・ラインハルトが現れた。

 整った顔。静かな美しさ。

 この男が微笑むとき、誰かの権限が削れる。


「失礼します。津田さん」


 義弘は目だけで返した。

 オスカーは会釈し、淡々と言う。


「市長選の話、街が勝手に走っているようですね」


「止めろ」


「止めることはできません。止めるより、使う方が早い」


 冷たい。だが正しい。

 正しい言葉はいつも、遅れてくる。


「出馬は、都市契約にも有利です。

 あなたが制度の側に立つなら……少なくとも、“健康管理”の名目は強化できます」


 健康管理。

 アリスの檻の名前だ。


 義弘は拳を握りかけ、膝の遅れでほどいた。

 怒りは遅れる。遅れは負ける。


 玄関の外のざわめきが、さらに増える。

 今度はサムライ・ヒーローの派手な笑い声が混じった。


「市長がヒーローなら、俺たちも公式部隊だろ!」


「津田さん! 一緒に市政イベントやりましょう!」


 義弘は息を吸って、吐けなくなった。

 吐く場所がない。

 部屋が“歓迎”で埋まっている。


 トミーが机の上で低く言った。


「ジジイ。これ、戦場よりきついだろ」


「……分かっている」


「いや、分かってねえ。

 戦場は敵がいる。ここは味方しかいない顔で殴ってくる」


 そのとき、ひとつだけ“文面”が混じった。

 訪問ではない。電話でもない。

 ただの通知。淡々とした文字。


 《新開市の安定化に資する動きとして歓迎する》

 《インフラの安定供給を評価する》


 署名はない。

 だが義弘は、背筋で分かった。


 歓迎。

 それは許可ではない。

 歓迎とは、観察対象にした宣言だ。


 義弘は端末を伏せ、立ち上がった。

 膝が遅れる。遅れを無視する。無視できない。


「……今日は終わりだ」


「津田さん——」


 広報が言いかけた。

 オスカーが目で止めた。

 止めた理由は優しさではない。止める方が得だからだ。


 義弘は扉を開け、外へ出た。

 外には配信者。視聴者。サムライ・ヒーロー。

 みんながスマホを掲げていた。


 街がまた、レンズで埋まる。


「逃げたwww」

「市長から逃げる男」

「やっぱヒーローは市長とか向いてない」

「でも出たら投票する」


 義弘は走った。

 走るのは得意ではない。膝が遅れる。

 それでも走る。

 歓迎から逃げるために。


 ——


 路地を抜け、工業区画の影を滑り、未完成の構造物の下を潜り抜ける。

 義弘は“撮影”の死角を知っている。

 知っているから、逃げられる。


 逃げる先が、ひとつしかないのが情けなかった。

 百戦錬磨の男が、避難先を選べない。


 アリスの隠れ家。


 鍵は、いつもの位置にあった。

 義弘は入る。

 入った瞬間、空気が違った。


 ここは“歓迎”がない。

 代わりに——生活が崩れている。


 靴が揃っていない。

 玄関に砂と金属粉が薄い線を引いている。

 いつもなら、ここは妙に整っていた。


 シュヴァロフが掃除していたからだ。


 その“母親”が、今はいない。


 トミーが鼻を鳴らした。


「うわ、汚っ。これ“母親不在”の部屋だ」


「黙れ」


「黙れねえよ。ほら見ろ。

 洗い物、溜まってる。ピザ箱、積んでる。栄養ゼリーの空、転がってる。

 整備用の溶剤と食器用洗剤が隣にある。雑すぎる」


 キッチンの隅に、掃除機が途中で止まっていた。

 埃を吸い込んだまま、眠っている。

 誰かが途中までやった。誰かが途中で諦めた。


 諦めたのは掃除だけだ。

 ここは諦めない場所だ。


 リビング兼工房の床には、装甲片が毛布のように広げられていた。

 黒い装甲。光を吸う装甲。

 母性の機体の皮膚が、バラバラになって寝かされている。


 シュヴァロフ。


 義弘の胸の奥が、ひとつだけ痛んだ。

 膝ではない場所が痛むのは久しぶりだった。


 作業机の上にメモがある。走り書き。


 「右肩関節:配線交換→試験→再学習」

 「装甲:再成形」

 「絶対直す」


 “絶対”の字が、強い。

 強い字は、泣きそうな手で書かれる。


 トミーが、いつになく小さく言った。


「……ここ、避難所じゃねぇ。病室だ。機体のな」


 義弘は返せなかった。

 返せば、ここに来た理由が剥がれる。


 アリスは不在だった。

 学校。命令。健康管理。

 戦場より息が詰まる場所。


 その代わり、部屋には小さな機械音がある。

 双子のドローンが、床の隅で黙って働いていた。

 トウィードルダムとトウィードルディー。救助・工作用の手。


 義弘を見る。

 人間を見るように、見ない。

 工具を見るように、見ている。


 バンダースナッチの小さな群体が、棚の上で微かに揺れた。

 眠っているのに、警戒している。


 家族の気配は、戦場より静かだ。

 静かなのに、強い。


 義弘は床に座りそうになって、膝で止めた。

 止めるのが精いっぱいだった。


「……逃げてきた」


 誰に向けた言葉でもない。

 言葉は部屋に落ち、金属粉に吸われた。


 ——


 一方そのころ。


 学校の保健室の白い光の中で、アリスは指を動かしていた。

 NECROテックは、ようやく修理を終えた。

 翼の残像が、戻る。戻るが、広げない。


 広げれば、また戦場になる。


 OCMの命令は明確だった。

 「学校に通え」

 「目立つな」

 「動くな」


 アリスはそれを守っていた。

 従順だからではない。

 従順なふりが、一番自由だからだ。


 放課後、アリスはまっすぐ帰らない。

 隠れ家へ行く。

 行って、直す。


 シュヴァロフの損傷ログ。

 破断した関節。焼けた配線。崩れた装甲。

 彼女はそれを見て、顔をしかめる。心が痛む。


 痛む。

 痛むが、諦めない。


 諦めるという選択肢は、メニューにない。


 アリスは小さく言った。


「諦めてない。……諦める暇がない」


 先生が「無理しないで」と言いかけて、やめた。

 この子にとって“無理”は、呼吸だ。


 ——


 夕暮れ。


 義弘の端末が、隠れ家の床で震えた。

 伏せても、震える。

 歓迎は追ってくる。制度は逃がさない。


 八重蔵からの短いメッセージ。


 《推薦人、妙に揃ってる》

 《出馬させる“型”がある》

 《お前の意思とは別に、書類が走ってる》


 義弘は息を吐いた。

 吐けた。ここなら吐ける。

 歓迎がない場所だからだ。


「椅子に座る前に、椅子が俺を座らせる気か」


 トミーが肩に飛び乗り、耳元で言った。


「だろうな。

 で、椅子に座ったら刀は折られる。

 折られたら、今度は“折られた姿”を配信される」


 義弘は笑いそうになった。笑えない。


 外から鍵の音がした。

 アリスが帰る音だ。


 義弘は立ち上がろうとして膝が遅れ、やめた。

 座ったまま、扉を見る。


 扉が開く。


 アリスが入ってきて、部屋の汚れを一瞬だけ見て、舌打ちした。

 その舌打ちは、自分に向けたものだった。


 そして義弘を見て、眉をひそめる。


「……何してんの、ジジイ」


 義弘は答えた。


「窒息しに来た」


「最悪」


「お前の部屋も最悪だ」


「知ってる。……掃除役が壊れてるから」


 その一言が、義弘の胸を少しだけ解いた。

 ここでは、歓迎よりも“壊れたもの”の話が優先される。


 アリスはカバンを置き、作業机の装甲片に手を触れた。

 触れ方が丁寧だ。

 母性に触れる子供の手だ。


「直す」


 義弘は頷いた。

 頷きは約束ではない。

 ただの同意だ。今はそれでいい。


 外の街は、まだうるさい。

 椅子の戦場は、もう始まっている。


 だがこの部屋には、別の戦場がある。


 直す戦場だ。

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