第四十四話 奪取
搬入口は、白かった。
病院の白。研究施設の白。インフラ保全の白。
白は清潔で、正しくて、そして――何でも隠せる。
義弘は白い床に影を落とさないように歩いた。
歩き方は変わらない。変わったのは膝の“拍”だけだ。
一拍遅れる。
それは痛みではない。痛みよりたちが悪い。
自分の身体が、自分の命令に従うのを迷う。
トミーが肩の上で舌打ちした。
「なあジジイ。ここ、病院の匂いしねえ」
「白いだけだ。匂いは“手順”だ」
「手順は臭いってことか」
義弘は返さなかった。
後ろに、三つの気配。
笑い。数式。影。
リッチは小さく笑い、イヤピース越しに言った。
「搬入口コード一致。監査線、こっちで噛ませてある。『都市インフラの保全点検』って文面、ほんと便利」
レヴェナントがぶつぶつ言う。
「交代。センサーの拍。扉の拍。……津田さんの膝の拍。危険域、あと二回」
ドッペルは壁に寄り、影のまま言った。
「白い箱。まだ、奥」
白い箱。
アリスが入っている箱。
義弘は頷き、口の中で短く言った。
「奪う」
奪う。救う、ではない。
救うとは、許可をもらうことだ。
許可は“例外処理”で潰される。だから奪う。
白い廊下の突き当たり。
扉の前に、薄い表示が浮かぶ。
《健康管理ルート/立入制限》
《患者安全のため》
《保全確認完了まで》
リッチが笑う。
「患者安全って言葉、さ。守るときより、縛るときに使われるよね」
義弘は扉に手を置いた。
冷たい。まるで金属ではなく、規則に触れているようだ。
レヴェナントが低く言った。
「来る」
義弘の視界の端で、白が“置き直された”。
灰白の短冊。顔のない人間大。
セグメンタタ。
ひとつではない。
二つ目が、別方向に置き直される。
三つ目は最初から、逃げ道の角にいる。
鎮圧の布陣ではない。
逃げる権利を、手順で剥ぐ布陣だ。
スーツの表示が走る。
《適用:装甲服対策/関節破断手順》
《優先:象徴対象》
《許容:不可逆損傷》
象徴対象。
義弘は薄く息を吐いた。
「……俺か」
トミーが肩で叫ぶ。
「ジジイだけじゃねえ! あれ、奥も向いてる!」
セグメンタタのうち一体が、義弘を見ていない。
見ていないが、優先順位が変わっただけだ。
もう一つの“象徴”――アリスへ。
義弘は刀を抜いた。
抜くのは最後だと言われた。だが最後は“今”に変わる。
刃は光を吸い、白い廊下に黒い線を引く。
義弘は斜めに置いた。
膝の継ぎ目を正面に見せない。
差し込み角度を作らせない。
アンカーを撃ち、蜘蛛の糸を梁にかける。
身体を吊り、段差へ滑る。
セグメンタタは追う。
追い方が執念深い。執念は感情ではない。手順だ。
短冊が“置かれる”。
薄い楔が、膝の継ぎ目へ入ろうとする。
義弘は段差を一つ落ちた。
落ちることで角度がズレる。
ズレは手順を一拍遅らせる。
その一拍で、義弘は刀を“切った”。
装甲を切らない。
短冊の刃を切らない。
切るのは、楔が通るための“道”――差し込みの起点だ。
金属音が薄く鳴り、短冊の一枚が空中でずれる。
ずれた短冊は床に落ち、白い床を傷つけない。
傷つけないように設計されている。
だから余計に、人を壊す。
義弘の膝が一拍遅れた。
遅れは怒りの刻印だ。
刻印は短冊の刃より深い。
リッチの声が飛ぶ。
『津田さん、五歩右! “象徴対象”の定義、揺らす!』
義弘が右へ滑る。
リッチは笑顔のまま、文面を投げる。
現場のログに、正しい言葉を混ぜる。
《象徴対象:施設保全担当》
《象徴対象:監査責任線》
《優先:保全》
嘘ではない。
だが意図が違う。意図が違うだけで、手順は迷う。
セグメンタタの一体が一拍だけ止まった。
止まった一拍は、義弘の命だ。
レヴェナントがぶつぶつ言う。
『二拍、稼いだ。膝、危険域。次、来る』
来る。来るが、義弘は“勝つ”必要はない。
必要なのは“白い箱”だ。
ドッペルが影から言った。
『奥。白い箱。……動いた』
動いた。
回収手順が次工程へ進んだ。
止めたのに止まっていない。
義弘は刀を横に構え、白い廊下を斬るように走った。
走るというより、滑る。
脚の電磁反発が白い床を撫でる。
セグメンタタが追う。
追うが、追い方は“殺し”ではない。
残すための追い方だ。遅れを残す。熱を残す。再起不能を残す。
義弘は梁にアンカーを撃ち、身体を振った。
白い廊下の角を回る。
そして――見えた。
白い箱。
透明な蓋の中、眠る少女の輪郭。
アリス。
翼の残像は見えない。
見えない代わりに、怒りがそこにある。
怒りが薄い。薄いのに、まだ燃えている。
義弘は白い箱の前に立った。
立った瞬間、膝が一拍遅れた。
その遅れに、短冊が入ろうとした。
義弘は刀で受けた。
受けたが、刀は楔を止められない。
止めるのは“角度”だ。
義弘は箱を背に、段差へ退く。
箱の足元に段差がある。
段差は道具だ。道具は戦友だ。
短冊が滑り、段差に当たって角度が狂う。
狂った瞬間に、義弘は短冊の根元を切った。
短冊が落ちる。
落ちた短冊は静かだ。
静かだから怖い。
――そのとき、別の音がした。
重い。機械の音。
白い床が震えるほどの重量。
VXシリーズ。
黒い機体。低い輪郭。
“静かに入ってくる”ための形。
その先頭に、ひとつの視線がある。
モルテ。
彼は義弘を見た。
見て、箱を見た。
最後に、短冊を見た。
そして低く言った。
「……これは“回収”じゃない」
彼の声は乾いている。
乾いているから、正直だ。
「処分だ」
トミーが肩で叫んだ。
「おいおいおい! 味方同士で喧嘩する気か! 地獄だぞ!」
義弘は箱を守るように立つ。
モルテは箱を奪うように立つ。
短冊は二人を潰すために立つ。
目的が三つ。
矢印が三本。
交差する地点が、地獄だ。
短冊が“置き直される”。
今度は、アリスの箱の真横に。
護衛の位置ではない。
救う位置でもない。
壊す位置だ。
モルテのVXが動いた。
速い。静か。正確。
箱の周囲に遮蔽物を置く――のではない。
短冊へ真正面からぶつかり、短冊を押し返した。
短冊は押し返される。
押し返されるが、壊れない。
壊れない代わりに、VXの装甲に短冊が“差し込まれる”。
ギギ、と音がした。
音は薄い。薄いから、破壊の確信がある。
VXの関節が一つ、沈黙した。
沈黙は死だ。機械の死は早い。
モルテが歯を噛む。
「……やめろ」
誰に向けた言葉か分からない。
義弘と同じだ。
敵は目の前ではない。敵は“手順”の背後だ。
義弘は、ほんの一拍だけモルテを見た。
彼もまた、NECROの臭いを持っている。
一度死んで、生まれた兄弟姉妹の臭い。
それが、皮肉な味方を作る。
義弘は叫んだ。
「箱を開けるな! 外へ出すだけだ!」
モルテは答えない。答えないが、VXの動きが変わった。
箱を“運ぶ”導線を作り始める。
奪う者と、確保する者が、偶然同じ動きをする。
地獄の中の、唯一の救いだ。
ドッペルが影から言う。
『搬出導線、開いた。今』
義弘は白い箱に手をかけた。
冷たい。規則の冷たさ。
冷たさを剥がすように、義弘は箱を引いた。
箱が動く。
動いた瞬間に、アリスのまぶたが微かに震えた。
――薄く、目が開く。
灰色の瞳。
怒りの残り火。
「……うるさい」
声は掠れている。掠れているのに毒だ。
毒は生きている証だ。
「来るなって……言ったのに」
義弘は短く返した。
「黙れ。生きろ」
トミーが肩で鼻を鳴らす。
「ほらな。“返品不可”って言ったろ」
その瞬間、セグメンタタが二体同時に“置き直された”。
ひとつは義弘の膝の角度へ。
ひとつは箱の車輪へ。
止める気がない。守る気がない。
再起不能にできれば何でもいい。
義弘の膝が遅れた。
遅れた拍で、短冊が入る。
――入る、はずだった。
だが短冊の一枚が、上から落ちてきた梁に引っかかった。
義弘がさっき撃ったアンカーが、梁の一部をずらしていた。
未完成構造物。
段差。梁。隙間。
都市の欠陥が、義弘の盾になる。
義弘はその隙を逃さず、箱を押し出した。
モルテのVXが箱の前に出て、短冊を受けた。
短冊はVXを壊す。
壊しても止まらない。
だからVXは壊れながら進む。
義弘は息を呑んだ。
――こいつら、命令を墨守する。
それでも、今は役に立つ。
リッチの声が飛ぶ。
『津田さん! 撤退線、切り替えた! 監査線、今だけ目を閉じる!』
監査線が目を閉じる。
それは正しいことではない。
だが正しさは今、敵だ。
レヴェナントがぶつぶつ言う。
『あと三拍で膝が死ぬ。二拍で箱が出る。一拍で――短冊が置き直される』
予言が現実になる速度が速すぎる。
義弘は最後の一拍に、刀を“切った”。
切ったのは短冊ではない。
切ったのは床の縁。
未完成の縁。薄い縁。
床が崩れ、段差が段差ではなく“落下”になる。
箱の車輪が落ちかける。
義弘はアンカーで箱を引き、落下を避けた。
短冊の一体が落下に巻き込まれ、静かに沈む。
自壊。
都市に食われる。
証拠にならない壊れ方。
義弘は歯を食いしばった。
“本件担当”は、証拠を残さない壊れ方を好む。
だからこそ恐ろしい。
箱が搬入口を抜ける。
白い廊下の外に、灰色の空気があった。
灰色の空気が、救いに見えるほど白は地獄だ。
――その瞬間、空気が変わった。
オスカーの声が、義弘のイヤピースに届く。
静かで、しかし刃のある声。
『監査線に“例外処理の痕跡”が出かけています』
義弘の背中が冷えた。
『このまま続ければ、あなた方の作戦は露見する。――彼らの作戦も』
つまり、オスカーは“文面”で包囲した。
文面の包囲は、銃より強い。
セグメンタタが、一拍止まった。
止まったのは迷いではない。
判断だ。
撤退。
撤退が、恐ろしい。
短冊が次々と“置き直され”、次々と“消える”。
消える、ではない。
回収される。
損傷した短冊も。
落下した短冊も。
VXの関節に刺さった短冊も。
残さない。
何も残さない。
血も破片も、証拠も。
残るのは、義弘の膝の遅れだけ。
残るのは、VXが壊れた沈黙だけ。
残るのは、白い廊下が“何もなかった顔”に戻る不気味さだけ。
モルテが、白い廊下を見つめたまま言った。
「……逃げたか」
義弘は箱を抱えるように守り、答えた。
「逃げたんじゃない。次の工程へ行っただけだ」
モルテの視線が義弘に移り、そして箱に移った。
箱の中のアリスを見て、ほんの僅かに揺れた。
揺れは同類の証だ。
一度死んで、生まれた兄弟姉妹。
それでも敵は敵だ。敵のまま揺れるのが、最も厄介だ。
モルテは低く言った。
「……借りは返す」
誰に対しての言葉か、義弘には分からなかった。
義弘は返さなかった。
返せば約束になる。約束は足を取る。
箱の中で、アリスが小さく唸った。
「……最悪」
義弘が言った。
「生きているなら、最悪はまだ更新できる」
「……黙れ、ジジイ」
毒が戻っている。
毒が戻るのは、希望だ。
希望はいつも毒を伴う。
オスカーの部屋に戻ると、サボテンはまた濡れていた。
霧吹きの霧が、棘の間に残っている。
義弘は箱を机に置いた。
箱は白い。白いのに、外の灰色より重い。
オスカーが箱を見た。
見て、義弘の膝を見た。
見て、ほんの一拍だけ目元が硬くなる。
すぐに戻る。
戻るのが彼の恐ろしさだ。感情を持ちながら、持たないふりができる。
「救出は成功です」
「勝利じゃない」
「はい。勝利は奪われました。証拠がない」
オスカーの声は淡々としている。
淡々としているのに、どこか怒りが混じる。
怒りは、NECROを狙われる怒り。兄弟姉妹を壊される怒り。
トミーが肩でぼそりと言った。
「証拠無しってのが一番腹立つな」
オスカーは答えない。
答えない代わりに、端末に一行だけ表示を落とした。
《本件担当:再設定》
《対象:象徴+被験体》
《投入:セグメンタタ×N》
義弘は画面を見て、笑いもしなかった。
笑えば負けだ。
負ける暇がない。
箱の中のアリスが、薄く目を開いたまま呟いた。
「……シュヴァロフ」
義弘は答えなかった。答えられなかった。
大破したシュヴァロフは、まだ帰っていない。
帰ってきても、もう同じではない。
オスカーが静かに言った。
「彼らは“証拠を残さない”ことに成功しました。だから次は、もっと簡単に来ます」
義弘は刀の柄に触れた。
抜くのは線を断つ瞬間だ。
線は今、目の前にある。
「……なら、次は」
義弘は言葉を区切った。
区切りは決意だ。
「俺が“線”の方を壊す」
トミーが鼻を鳴らした。
「そうこなくちゃな。ジジイ。――で、次の地獄はどこだ?」
義弘は端末の符号を見た。
施設番号。搬入口。
白い部屋のさらに奥。
白は、まだ終わっていない。




