第四十三話 署名者
オスカー・ラインハルトは、数字を言わなかった。
数字は責任になる。責任は言質になる。言質は戦場で足を取る。
代わりに彼は、“工程”を置いた。
「次工程に入ったら、停止の文面が効かない」
机上に、白い図が投影される。
地図ではない。導線だ。搬送、保全、監査、治安、医療――線が束になり、束が刃になる。
「“生命維持は別手順”が発動したら、あなたの正義は例外処理に飲まれます」
義弘は頷いた。頷くと負けた気がする。負けている場合ではない。
「じゃあ、止める」
「止めるのは“救出”ではありません。『是正』です」
「分かっている」
「分かっていないふりをしてください」
オスカーはそう言って、サボテンの鉢をひとつ回した。
棘は濡れている。濡れているだけで、余計なことは言わない。
義弘の肩の上で、トミーが鼻を鳴らした。
「なあ、ジジイ」
「言うな」
「言わないと現実が追いつかないだろ。今のアリスってさ、“返品処理”だぞ。返品されたら死ぬタイプの」
義弘はトミーを払い落とさなかった。
言葉が汚いのに、比喩が正確なのが腹立たしい。
扉が開き、三人が入ってくる。
彼らは名乗る。名乗るが、それは名前というより役割だ。
リッチは笑っていた。笑いは癖だと言っていた。癖にしては刃が鋭い。
レヴェナントは口の中で数式を唱え、目がどこにも焦点を結ばない。
ドッペルは壁際に立ち、影の濃さだけが増す。
「署名者を出します」
リッチが笑顔のまま言う。
「出させる、だろ」
義弘が返すと、リッチは肩をすくめた。
「うん、出させる。責任線ってね、引っ張ると出てくるんだ。人間って便利」
レヴェナントがぶつぶつ言う。
「工程。交代。封印。適用範囲。……刺し込み点。ここ。ここ。ここ」
彼の指が空をなぞると、投影図の一箇所が淡く光る。
導線の“喉”だ。喉を塞げば、声は出る。声を出させれば、署名者は出る。
ドッペルが、影のまま言う。
「本命は、別の線を持っている。止めるなら、まず表に出す」
義弘は息を吐いた。
「やることは決まった。事故に見える遅延。署名者を現場へ。――そして止める」
「止めるのは“回収”じゃないよ」
リッチが笑う。
「“回収手順の是正”。文面は美しい方がいい。美しいほど人は安心して殺すから」
義弘はその笑みが嫌いだった。嫌いなのに、使うしかない。
オスカーが淡々と付け足す。
「あなたは刀を抜かない。抜くのは最後です。今は線を抜く」
義弘は頷き、口の中で一言だけ準備した。
使いたくない言葉。使えば重力になる言葉。
――場合によっては、アライアンスを動かしてでも。
脅しではない。
現実だ。現実は最も冷たい刃だ。
現場は、白かった。
白い壁。白い床。白い灯り。
“健康管理ルート”は、病院の白と同じ顔をしている。
同じ顔をして、違うことをしている。
義弘は梁にアンカーを撃ち、蜘蛛の糸を張った。
足元は未完成の構造物だ。段差がある。隙間がある。
差し込ませないための地形になる。
トミーが肩で囁く。
「なんかさ、ここ。悪いことする人ほど綺麗な言葉使うよな」
「黙れ。綺麗な言葉は綺麗な刃だ」
「ジジイが詩人になってる。最悪のサインだぞ」
義弘は笑わなかった。
“事故”は、音を立てずに起きる。
封印扉のセンサーが淡く点滅し、表示が出た。
《点検必須》
《微細異常検知》
《安全確認完了まで停止》
火花も爆音もない。
ただ、正しい停止が走る。
正しい停止は、誰も責められない。
リッチの声が、イヤピース越しに聞こえる。
『監査線、通りました。治安線、こちらで噛ませて。署名者、出るよ』
レヴェナントがぶつぶつ言う。
『交代。ここで来る。ここで出る。ここで署名。……ここで止める』
ドッペルが短く言う。
『影が動いた。来る』
足音が、聞こえた。
人間の足音だ。
慌てた足音。小走り。焦り。
署名者は現場に出る。出ないと責任が落ちるから。
白い廊下の角から現れた男は、兵士ではなかった。
スーツの背広。少し腹が出ている。額に汗。
手には端末。端末の画面には“手順”が並び、彼の顔より冷たい。
「何が起きているんだ……!」
男が叫ぶ。叫びが“責任の声”だ。
義弘は梁の影から男を見下ろし、息を殺した。
ここでは、刀より声が効く。
リッチが男の前に出た。
笑顔。柔らかい物腰。丁寧な言葉。
丁寧ほど、逃げられない。
「失礼。『回収手順』について、安全上の是正提案があります」
「は? 誰だ、君は……」
「あなたが署名者ですね」
リッチの声は甘い。甘いから毒になる。
「違う、私は……私は――」
「“違う”って言うなら、署名者を連れてきてください。あなたが責任線の先端であることは、ログが示している」
男の顔色が変わった。
ログ。数字。文字。
人間が一番弱い刃。
「これは緊急案件だ。回収を止めるわけには――」
「止めるわけではありません」
リッチは笑顔のまま、端末を差し出す。
「『是正』です。患者安全、都市システム安定、インフラ保全。三つの観点で、現行の回収手順は“危険”だと判定されました。署名してください。署名すれば、あなたは責任者として“正しく”振る舞ったことになる」
男は端末を見た。
見た瞬間、背筋が伸びる。
“正しい”文面は人の姿勢を変える。
「……こんなもの、私の権限では……」
「あなたの権限だからここに出てきたんです」
リッチの笑顔が、薄くなる。薄くなるほど鋭い。
男が視線を逸らし、逃げようとした。
その瞬間、義弘は影から声を落とした。
大きな声ではない。
口の中で、しかし届く言葉。
「……場合によっては、アライアンスを動かしてでも」
男の足が止まった。
汗が止まった。
目だけが動いた。
アライアンス。
その名は、法律ではない。規則でもない。
“空気”だ。空気が変わると人は呼吸を止める。
「な、何を……」
男の声が震えた。
震えは正直だ。正直は弱点だ。
リッチが、優しく締める。
「署名してください。あなたのためです。患者のためです。都市のためです」
男の指が、震えながら画面に触れた。
署名欄が埋まる。
たったそれだけの動作が、戦車より重い。
《回収手順:一時停止》
《再評価:開始》
義弘の喉が少しだけ軽くなった。
軽くなった瞬間に、現場の空気が凍った。
――音が薄くなる。
“無音”ではない。
音が切り取られる。
MUTEの気配が、白い廊下を撫でた。
義弘の視界の端で、人影が“置き直された”。
灰白色。短冊状プレート。顔がない。
人間大の無人兵器。
セグメンタタ。
義弘は膝の“遅れ”を思い出した。
あれは一撃ではない。予告だ。
セグメンタタは、署名者を見なかった。
見たのは義弘だ。
見たというより、“優先”した。
義弘のスーツに表示が走る。
表示の文言が、冷たい。
《適用:装甲服対策/関節破断手順》
《優先:象徴対象》
象徴。
義弘は笑うしかなかった。
自分はいつから都市の象徴になった。象徴は標的だ。
セグメンタタが距離を詰める。
走らない。滑らない。歩かない。
次の瞬間に近い。
義弘は刀を抜かない。
抜けば関節を見せる。
見せれば差し込まれる。
彼はアンカーを一段上へ。
蜘蛛の糸が張る。
身体を“斜め”に置き、膝の継ぎ目を正面に見せない。
セグメンタタの手が置かれる。
冷たい指。
薄い楔が、入ろうとする。
義弘は段差へ滑った。
段差は“誤差”だ。
誤差は手順を遅らせる。
セグメンタタが一拍だけ、処理する。
処理の一拍で、義弘は角度を変える。
だが――違和感。
セグメンタタは、義弘を殺そうとしていない。
殺すならもっと効率的だ。
これは“残す”攻撃だ。
遅れを残す。
熱限界を近づける。
スーツを壊す。
再起不能にする。
義弘の脳裏に、白い部屋が浮かぶ。
アリスの怒り。翼の残像。
“回収”。“別手順”。
そこに“再起不能”が重なる。
「――来るな」
義弘が呟く。
呟きは誰に向けたのか分からない。
自分にか、相手にか、背後の“本件担当”にか。
トミーが肩で叫ぶ。
「うわ、こいつ、署名者のこと見てねえ! 巻き込む気だぞ!」
その通りだった。
セグメンタタの軌道は、署名者の立つ位置を避けない。
避けないというより、無視している。
危うく男の足元に短冊プレートの破片が散り、男がよろけた。
男は悲鳴を上げる。
悲鳴は“正しさ”を溶かす。
「やめろ! これは……これは非致死のはずだろ!」
男の叫びに、返事はない。
返事がないのが返事だ。
リッチの笑顔が、ほんの一拍だけ消えた。
消えて、すぐ戻った。
戻り方が妙に硬い。
「……ねえ。これ、“保全”じゃないね」
その一言が、義弘の背中に刺さった。
オスカー側は、現場を壊しすぎない前提で線を引いていた。
“本件担当”は、前提を守らない。
守らないどころか、前提を踏み潰して見せしめにする。
秘密の関係は、“暗黙の線”で保たれる。
暗黙が切れれば、亀裂が走る。
義弘は歯を食いしばった。
今、ここで勝てない。
勝つ必要もない。
必要なのは“署名”だ。署名は取った。
なら撤退だ。撤退は次の勝ちの準備だ。
義弘はアンカーを連打し、梁から梁へ滑った。
セグメンタタが追う。
追い方が執念深い。執念は感情ではない。手順だ。
その時、義弘の膝が一拍遅れた。
遅れは小さい。
小さいのに、致命的だ。
セグメンタタの楔が、膝の継ぎ目に“入った”。
痛みはない。
代わりに、スーツの反応がまた一拍遅れる。
義弘は息を止め、身体を捻って抜いた。
抜いたが、遅れが残る。残り方が“刻印”だ。
(見せしめか)
義弘は理解した。
誰かが、義弘に怒りを思い知らせたい。
義弘が再起不能になれば、何でもいい。
アリスも同じだ。再起不能なら十分。
その考えの冷たさが、白い廊下より冷たい。
義弘は撤退した。
撤退しながら、署名者の男の顔を見た。
男は膝から崩れ落ち、端末を抱えたまま震えている。
“正しい”人間は、こうやって潰れる。
潰れても、誰も責めない。手順が正しいから。
義弘は吐き捨てるように言った。
「……お前、覚えていろ。俺は線を折る」
返事はない。
返事がないのが、この街の返事だ。
オスカーの部屋に戻ると、サボテンはまだ濡れていた。
義弘が入ると、オスカーは義弘の膝を一瞥した。
視線が一秒で測る。測って、何も言わない。
何も言わないのが、恐ろしい。
リッチが先に報告する。
「署名、取れた。停止文面、走った。……でも止まってない」
レヴェナントがぶつぶつ言う。
「適用範囲。例外処理。生命維持は別手順。……止めたのに止まらない。美しい」
美しい、が憎しみの言葉に聞こえた。
ドッペルが、影のまま言った。
「本命車両。符号、取れた」
義弘が顔を上げる。
「どこだ」
ドッペルが、番号だけを落とす。
施設番号。搬入口コード。
それだけで、次の戦場が立ち上がる。
義弘は口の中で言った。
「……奪う」
オスカーが淡々と言った。
「そうです。次は“救出”ではありません。奪取です。手順が壊れたからです」
義弘は机に手を置き、サボテンの棘を見た。
棘は何も言わない。
だが、棘の沈黙の向こうで、別の沈黙が動いている。
――本件担当。
ログが落ちた。
《適用:署名停止/例外処理》
《目的:象徴対象の機能停止》
《許容:装甲服の不可逆損傷》
《許容:被験体の不可逆損傷》
《副次被害:許容(上限なし)》
《投入:セグメンタタ×N》
《発令:本件担当》
義弘の膝が、また一拍遅れた気がした。
遅れは実際の遅れではない。
未来の遅れの予告だ。
オスカーは霧吹きを手に取った。
サボテンに霧を吹きかけようとし、――止めた。
止めた指先が、ほんの僅かに硬くなる。
あの一拍の怒りと同じ硬さ。
義弘は見ないふりをした。
見れば、感情になる。感情は遅れる。
義弘は言った。
「行くぞ」
トミーが肩で鼻を鳴らした。
「行くぞ、じゃねえよ。行くしかねえ、だろ。……ついでに言っとくと、複数のやつに囲まれたら、ジジイの膝、死ぬぞ」
「黙れ。分かっている」
分かっている。
分かっているから、行く。
白い部屋の向こうで、アリスの命が手順に削られていく。
削る手は、怒りを持っている。
怒りは、誰かの顔をしていない。
だから余計に恐ろしい。
義弘は刀の柄に触れた。
抜かない。まだ抜かない。
抜くのは、線を断つ瞬間だ。




