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第四十二話 期限

 オスカー・ラインハルトの部屋は、静かすぎた。


 静かすぎるせいで、霧吹きの粒がサボテンの棘に触れる音まで聞こえる。

 義弘はそれを“良い音”だと思う自分が嫌だった。余計なことを言わない生き物の音だ。ここでは、それが贅沢に感じられる。


 机の向こうで、オスカーは鉢をくるりと回した。

 眉目秀麗。仕事ができる人間の顔。手元だけが忙しい。


「ようこそ。名誉会長さん。……お困りのようですね」


 声は温度を持たない。

 義弘は同じ温度で返した。


「困っている。だから来た」


 オスカーは頷きもしない。代わりに端末を軽く叩き、机上に文面を投影した。


「では、条件から始めましょう」


 “条件”。

 義弘はその語を飲み込むのに、ほんの少し喉を使った。


 オスカーの指先が、項目をなぞる。


「一。あなたの目的は“救出”ではありません。――『健康管理手順の是正』です」


「言葉遊びか」


「言葉が手順を作ります。手順が勝ち負けを作ります。――あなたはもう理解しているはずです」


 義弘は反論しなかった。

 白い廊下で、扉が閉じた。あれは隔壁ではなく手順だった。理解するしかない。


「二。あなたの会社が持つ保全権限と監査線を、一部こちらへ貸与してください。名目は『都市インフラ安定化の共同保全』で構いません」


「……うちの名前を盾に使う気か」


「盾は必要です。あなたも同じでしょう」


 オスカーは淡々と“盾”と言った。

 盾とは、誰かの前に出て打たれるものだ。そこに感情はない。合理だけがある。


「三。見返りとして、搬送ログの断片を渡します。完全ではありません。封印がかかっている」


「それで足りるのか?」


「足りません。足りない状態で勝つのがあなたの芸でしょう」


 挑発でもなく事実として言われ、義弘は一瞬だけ笑いそうになった。

 笑う余裕などないのに。


 机の上のサボテンが、霧を受けて濡れている。

 棘は何も言わない。


 義弘は言った。


「条件は飲む。……代わりに、今すぐ動かせ」


「動かします」


 オスカーが霧吹きを置こうとした、その瞬間だった。


 オスカーの端末が、無音で光った。

 画面の隅に、社内アラート。

 淡い通知光が、机上を冷たく照らす。


 オスカーは画面を見る。


 ――その一瞬。


 眉間に縦の線。

 口角が落ちる。

 青い瞳の奥の光が、氷の刃みたいに硬くなる。

 サボテンを撫でていた指が止まる。


 それは怒りだった。

 怒りが、顔の“皮膚”を一拍だけ持ち上げた。


「……回収、だと」


 声は低かった。

 低い声は、温度があるように錯覚させる。錯覚ではない、と義弘は思った。


 オスカーは続けて画面を読み、言葉を落とした。


「……『生命維持は別手順で担保』?」


 次の瞬間、表情は消えた。

 怒りが“失態”だったかのように、完璧に封印される。

 そして、冷たいビジネスが戻る。


 オスカーは義弘を見た。


「時間がなくなりました。あなたも理解したでしょう」


 義弘は、拳を握らずに言った。


「NECROテックを回収されると……あいつは死ぬか」


「“死ぬ”という語彙は使いません。使うと責任が生まれる」


「じゃあ何だ」


「“確率が下がる”。“不可逆の損傷が増える”。“回復の手順が遠のく”」


 オスカーは言い直す。

 言い直すほど、残酷になる。


 義弘は机の縁に指を置いた。置いただけで握らない。

 握れば遅れる。


「海外部門か」


「……そう呼ぶ文面ではありませんが、はい。『本社直属の医療資産回収』。あなたが嫌う類の丁寧さです」


 義弘は短く息を吐いた。

 白い廊下の匂いが、喉に戻ってくる。


「……どこだ。回収はどこでやる」


 オスカーは首を振った。


「今は“どこか”ではありません。回収手順が走る。走れば、どこであれ同じです。こちらは“止める”必要がある」


「止めるには?」


 オスカーは淡々と、しかし先ほどの一拍の怒りが嘘ではないことを、言葉の端で匂わせるように言った。


「署名者を出させます。責任線を表に引きずり出す。――封印の外へ」


 義弘は頷いた。

 “線”の戦い。

 刀では切れない線を、手順で断つ。


 オスカーは机上の投影を切り替えた。

 新開市の地図ではない。

 “導線”の図。

 搬送、保全、監査、治安、医療――いくつもの線が重なり、絡み、束ねられている。


「搬送ルートはこれです。HUSHが通った『健康管理ルート』の一部。封印で穴が空いていますが、穴の形から推定できる」


「推定、ね」


「推定は現場を動かします。現場は手順を動かします」


 義弘はその理屈が嫌いではなかった。嫌いではないのが、もっと嫌だった。


 オスカーが軽く指を鳴らす。

 扉が開く。

 空気が一段だけ変わる。


 入ってきたのは三人。

 彼らは自分を名乗らない。名乗る必要がない顔をしている。


 ひとりは笑っているように見えるが、笑いが眼に届いていない。

 ひとりは口の中で数式をぶつぶつ唱え、視線が義弘を通り過ぎている。

 ひとりは影みたいに壁際に立ち、気配だけが濃い。


「……こちらの資産です」


 オスカーが言った。

 資産。

 人間をそう呼ぶのは冷たい。だがここではそれが正しい。


 笑っている者が、軽く頭を下げた。

 笑っているのに、礼儀は正確だ。


「あなたが津田さん? リッチです。……笑ってるのは癖なんで、怒らないで」


 数式の男が、目も合わせず言う。


「時間。回収。搬入。封印。……最短。最短」


 影が、声にならない声で頷いた。


 義弘は言った。


「急いでいる。余計な説明はいらない。必要なのは“止める”手順だ」


 リッチが笑みを深める。

 笑みが、軽い。軽いから重い。


「署名者、ですね。出させれば止まる。でも出てこない。だから出させる。――そのために“事故”がいる」


「事故は起こすな」


「起こさない。事故に“見える”遅延を作る」


 数式の男が、ぶつぶつ続ける。


「遅延。導線。人間。署名。……出る。出させる。出れば止まる」


 義弘は頷き、オスカーを見る。


「俺は何をすればいい」


 オスカーは一拍だけ沈黙した。

 その沈黙は、さっきの怒りの残り香みたいに見えた。


「あなたは、“刃”で勝つのではない。あなたは、線を引く。あなたの会社の権限線を使い、監査線をぶつけ、治安線を揺らす。――署名者が出る空気を作る」


「空気で人は出るか」


「出ます。出さないと、“手順”が止まるから」


 義弘は息を吐いた。


「……やる」


 オスカーは淡々と頷いた。


「では次。シュヴァロフを見せてください」


 義弘の胸が一瞬だけ痛んだ。

 痛みは理屈ではない。

 痛みは、黒い機体の背中の温度だ。


 黒い巨体は、オスカーの設備区画の床に横たえられた。


 白い光の下で見るシュヴァロフは、余計に傷が目立つ。

 装甲の割れ目。巨腕の欠落。内部の白い熱の跡。

 丁寧だった動作が、止まっている。


 修理班のドロイドが無言で周囲を動き、工具の音だけが細かく鳴る。

 その音は正確で、冷たい。


 義弘は、シュヴァロフの頭部に手を置いた。

 動かない。返事もない。


 トミーが床に降り、鼻を鳴らした。


「うわ。ここ、匂いが病院」


「黙れ」


「黙ったら、俺の中身がまた泣くって言ったろ」


 トミーは装甲の割れ目を覗き込み、いつもより低い声で言った。


「……これ、戻る?」


 義弘は答えられなかった。

 答えたら、約束になるから。


 オスカーが近づき、淡々と言う。


「熱・衝撃置換装置が限界を超えています。中枢部に不可逆の損傷の可能性。――ただし、可能性です」


「直せるか」


「直せるとも直せないとも言いません。言うと責任になる」


 義弘は歯を食いしばった。


「……じゃあ、何だ」


「条件です」


 オスカーは平然と条件と言った。

 その言葉の冷たさが、逆に“約束”より信頼できるように感じてしまうのが腹立たしい。


「シュヴァロフの修復は、あなたが約束した権限線の貸与と連動します。こちらが守る線が太くなるほど、こちらの設備も動かしやすい」


「つまり、俺が盾になれば、こいつが戻る確率が上がる」


「そうです」


 義弘は拳を握りそうになり、握らなかった。


「……やれ。できるだけ」


「します」


 オスカーの返事は短い。

 短いから嘘がないように聞こえる。嘘でも短い嘘は恐ろしい。

 いずれにせよ、義弘には時間がない。


 回収手順が走っている。

 アリスの命が、書式の中で削られていく。


 白い部屋。


 白は、いくつもある。

 病院の白。会議室の白。手順の白。

 この白は、抑え込むための白だった。


 アリスは寝台に拘束され、鎮静が薄く薄く残っている。

 薄れた分だけ、怒りが戻る。

 怒りが戻る分だけ、恐怖が顔を出す。


 恐怖は嫌いだ。

 恐怖は“助けて”を呼ぶ。

 “助けて”は、負けの言葉だ。


 空調が変わった。

 匂いが変わった。

 床の振動が変わった。


 回収の準備。

 それが近づくと、部屋の“正しさ”が増える。

 正しいほど、死が近い。


 扉が開く。

 足音はない。

 空気だけが、また一段落ち着く。


 来た。

 モルテ――とアリスは心の中で呼ぶ。名前は口にしない。名前を口にすると繋がってしまう。


 男は名乗らない。

 名乗らないまま、椅子に座る。


 アリスは毒を吐く。


「また“健康管理”? 次は何、首でも外す?」


 男は一瞬だけ、眉を動かした。

 その動きは怒りではない。痛みだ。


「……回収が始まる」


 アリスの胸が、一拍だけ硬くなった。


「は?」


「NECROテックの回収手順。あなたのためではない。――資産のためだ」


 アリスは笑った。

 笑いが震えた。震えが嫌で、さらに毒を濃くする。


「資産? 便利な言葉だね。人間を道具にするのに最適」


「……君にとっては、“死”に近い」


 男が“死”という言葉を使った。

 その言葉が、手順の外に出た。


 アリスはそれが怖かった。

 怖いから、怒った。


「死ねって言いたいの? じゃあ自分で手を下しなよ。責任取れないくせに」


 男は答えない。

 答えないのは卑怯だ。

 卑怯だから、アリスは拳を握りたくなる。握れない。拘束されている。


 男はぽつりと言った。


「……黒い機体が壊れた。すまない」


「謝るな。手順で謝るな。吐き気がする」


 男は一拍黙り、そして珍しく、手順の匂いを薄くした言葉で言った。


「……守り方が、子どもに似ていた」


 その言葉は、アリスの胸の奥の柔らかいところに触れた。

 触れた瞬間、翼の残像がちらついた。

 痛みが走る。


 アリスは毒で塗りつぶす。


「うるさい。あいつは……あいつは、私のだ」


 言ってしまった。

 “私の”。

 所有の言葉なのに、家族の言葉みたいに聞こえるのが嫌だ。


 男は視線を落とし、昔話を続ける。


「デュラハンは……首を差し出さなかった。命令に首を差し出さないことで、俺たちを守った」


「首なし騎士の癖に」


「……あいつは全体を見ていた。だから首を差し出さなかった」


 アリスは唇を噛んだ。

 オスカーの顔が浮かぶ。サボテンの棘みたいに余計なことを言わない男。

 余計なことを言わないくせに、余計な線を引く男。


「リッチは笑っていた。笑ってるのに手は正確だった。レヴェナントは眠らなかった。口に出さないと壊れるみたいに数式を言ってた。ドッペルは影にいた。影にいるのに、誰より先に気づいた」


 アリスは鼻で笑った。


「……陰気」


「陰気でも、兄弟姉妹だった」


 男は言った。

 兄弟姉妹。

 その言葉は、アリスにとって遠い。遠いから欲しい。欲しいから嫌いだ。


 アリスは唾を飲み込み、毒を吐く。


「私は馴染めない。今も。これからも。機械の方がいい」


「……知ってる」


 その“知ってる”は、手順の言葉じゃなかった。

 だから嫌だ。だから少しだけ楽だ。

 楽になるのは危険だ。楽は奪われる。


 アリスは顔を背けた。


「……帰れ」


 男は立ち上がった。

 扉へ向かいながら、振り向かずに言う。


「回収が始まる。――君は、怒っていい」


「怒ってるよ。ずっと」


 男は扉の前で一瞬止まり、そして消えるように言った。


「怒りは、死ぬために使うな」


 扉が閉まる。

 足音は最後までない。


 白い部屋の外で、準備が進む。

 準備は音を立てない。

 音がないほど、完成している。


 アリスの背筋が冷えた。

 冷えた分だけ、怒りが熱になる。熱になった分だけ、翼が痛む。


 ――死ぬな。

 誰の言葉でもなく、心の底の言葉が浮かぶ。

 義弘の声の形をしているのが、悔しい。


 夜。


 義弘は“事故に見える遅延”の現場へ向かった。


 オスカーが用意した“線”がある。

 義弘が貸し出した監査線がある。

 リッチとドッペルが引いた責任線がある。

 レヴェナントの数式が示した締切がある。


 それらをぶつけて、署名者を引きずり出す。


 それが第1目的。

 第2目的は、回収手順を止める。

 救出はその後だ。


 トミーが義弘の肩に乗り、歯を鳴らした。


「なあ、ジジイ」


「ジジイ言うな」


「ジジイだから言うんだよ。これさ、やり方が嫌じゃないか」


「嫌だ」


「でもやるんだな」


「やる」


 義弘は答えた。答えは短い。短いほど迷いが減る。迷いは死ぬ。


 都市戦用ブレードが鞘の中で微かに鳴る。

 刀はここでは“最後”だ。最初に使うものではない。


 角を曲がる。

 白い壁。白い灯。白い床。

 病院の白に似ている。

 似ているせいで、胸が硬くなる。


 義弘はアンカーを一本、天井梁へ。

 蜘蛛の糸が張る。

 位置を取る。姿勢を作る。


 その瞬間、空気が変わった。


 風が、ない。

 音が、薄い。


 “無音”ではない。

 音が、切り取られている。

 あの廊下の残響。

 MUTEの気配。


 義弘の視界の端で、人影が“置き直された”。


 人間大。細身。灰白色の短冊状プレート。顔がない。目がない。

 兵士の輪郭だけがある無人兵器。


 ――セグメンタタ。


 義弘はその名を口にしない。

 名を口にすると、相手に“形”を与える。

 形は増える。増えれば負ける。


 セグメンタタは、走らない。

 滑らない。

 歩くでもない。


 ただ、次の瞬間には近い。


 義弘は刀を抜かなかった。

 抜けば反応が遅れる。

 相手は“関節”を殺しに来る。刀を抜く動作の関節すら狙われる。


 セグメンタタの手が、義弘の膝へ置かれた。


 置かれただけ。

 痛みはない。


 次の瞬間、冷たい薄い楔が、装甲の継ぎ目に“入っていた”。


 入っただけ。

 刺さっていない。貫通していない。

 ただ、入っている。


 義弘のスーツのフィードバックが――一拍遅れた。


 守るための反応が遅れる。

 遅れると、守れない。

 守れないと、死ぬ。


 義弘の背筋が冷えた。

 冷えたのは恐怖じゃない。計算だ。


 (こいつは、スーツを殺す)


 セグメンタタは殴らない。

 撃たない。

 触れて、差し込んで、ほどく。


 拘束のクランプが膝に噛みつこうとする。

 噛みつけば終わりだ。離れない。熱が逃げない。強制冷却が走る。保護が“装甲だけ”になる。


 義弘は瞬時に選択した。


 撤退。


 悔しいが、撤退。

 ここで意地を張れば、“装甲服”が死ぬ。装甲服が死ねば、アリスを救えない。


 義弘はアンカーを鳴らし、壁へ滑った。

 滑る速度を、セグメンタタの“差し込み角度”から外す。

 姿勢を崩す。差し込ませない姿勢へ。


 セグメンタタの手が追う。

 追うが、追い方が“手順”だ。

 手順には、曲がり角が弱点になる。


 義弘は曲がり角を作った。

 廊下の床材の欠片を蹴り、段差もどきを散らす。

 “誤差”を撒く。


 セグメンタタが一拍だけ、止まったように見えた。

 止まったのではない。

 誤差を処理している。処理は速いが、処理は必要だ。


 その一拍で、義弘は距離を作った。


 作った距離が、命を作る。


 トミーが義弘の肩で叫ぶ。


「うわっ、マジで嫌なやつ! 殴らないのに殺してくる!」


「黙れ、今は褒めるな!」


「褒めてねえよ!」


 義弘は撤退しながら、膝の感触を確認した。

 楔は抜けた。

 だが、感覚が残る。

 関節が“遅れる”という感覚が残る。


 遅れは死だ。

 遅れは救出失敗だ。


 義弘は歯を食いしばり、目だけで笑った。


「……次は、差し込ませない」


 言葉にすると決意になる。決意は時に足を止める。

 だが今は必要だ。必要な決意だけを残す。


 背後で、セグメンタタが追ってこない。

 追わないのではない。

 “一撃だけ”入れて引いた。


 それが怖い。

 怖いのに、理にかなっている。


 義弘は陰へ滑り込み、線の外へ出た。

 線の外は安全ではない。

 ただ、今は生きている。


 オスカーの部屋に戻ると、サボテンがまだ濡れていた。


 霧の粒は乾いていない。

 乾いていないのに、時間がない。


 オスカーは義弘の膝を一瞥し、すぐ視線を上げた。


「触られましたか」


「ああ」


「“遅れ”が残りましたか」


「残った」


 オスカーは頷かない。頷くと慰めになる。慰めは甘い。甘いと死ぬ。


「次は署名者を出させます」


「出させれば止まるのか」


「止まる“可能性”が上がる。止まらない可能性もある。……しかし、止めるために必要な一手です」


 義弘は言った。


「時間は」


 オスカーは一瞬だけ口を閉じた。

 数字を言えば責任が生まれる。

 だが責任がなくても死ぬ。


 オスカーは、数字を言いかけて止めた。


「……短い」


 短い。

 短いほど恐ろしい。

 恐ろしいほど、動ける。


 義弘は言った。


「やる。今夜中に線を引き直す」


 オスカーはサボテンの棘をひとつ撫でた。

 棘は余計なことを言わない。

 だが、撫でる指先にだけ、ほんの僅かな硬さが残っている。


 オスカーは淡々と言った。


「回収の締切が来る前に、署名者を外へ出します。……そして、あなたは“救出”をしない。『是正』をする」


「分かっている」


「分かっていないふりをする必要があるのです」


 義弘は目を細めた。


「……俺に、嘘を強いるな」


「嘘ではありません。言葉の定義です。手順の定義です」


 オスカーは冷たく言った。

 冷たいまま、ほんの一拍前に怒った男だ。

 その矛盾が、義弘には妙に信用できた。


 同じ頃。


 白い部屋の外で、一行のログが落ちる。


 《回収:実行準備》

 《適用:生命維持は別手順》


 “別手順”。

 その言葉は、誰も殺さない顔をして殺す。


 アリスはその“気配”を感じ、舌打ちした。


「……死ぬかよ」


 誰に言うでもなく、言った。

 言った瞬間、翼の残像が一瞬だけ揺れた。


 痛みが走る。

 痛みは生きている証拠だ。


 義弘はオスカーの部屋で、サボテンの棘の沈黙を見つめながら、同じように呟いた。


「……死なせない」


 返事はない。

 返事がないのが、返事だ。

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