第四十一話 代償
白い廊下は、悲鳴を上げなかった。
悲鳴は、人間のものだ。
この場所の“声”は、書式と手順だけで出来ている。
リノトーレークスが踏み込む。
踏み込みが遅いのに、距離が詰まる。
病院の廊下に合わせて最適化された、転倒と拘束のための歩幅。
シュヴァロフが盾になる。
黒い巨体が、白い光を吸い込んで立つ。
巨腕が広がる――守るためではない。
廊下の奥、白いカーテンの向こうにいる子を守るために。
義弘は、その背中を見て、喉の奥がきしんだ。
「……やめろ。お前が壊れたら、あいつが泣く」
返事はない。
返事の代わりに、シュヴァロフの巨腕が一度だけ、ゆっくりと閉じた。
“泣かせない”。
リノトーレークスの関節破壊用の爪が伸びる。
名目は非致死。
実際は、装甲の隙間から“圧壊”を起こすための手順。
義弘は、刀で爪を切らなかった。
切るべきは刃ではない。
切るべきは――足場だ。
病院の床は柔らかい。段差がない。
落とし穴がない。転ばないように設計されている。
その設計が、戦場では“敵”になる。
だから、義弘は敵の床を作った。
手首のアンカーが鳴る。
蜘蛛の糸が天井の梁を捉え、義弘の身体を持ち上げた。
吊られたまま、義弘は壁面へと滑り、視線を廊下の端に走らせる。
壁の角――丸められた角。
そこにだけ、隔壁装置の散布膜が薄い。
「……角は、手順の死角だ」
呟きは誰にも届かない。
MUTEの沈黙が、言葉も通信も飲み込む。
それでも、義弘は動く。
壁際の薄膜に刃を走らせるのではなく、刃で“剥がす”。
床材ごと、薄い膜を削り取る。
削り取った欠片が廊下に散る。
散った欠片は段差ではない。
だが、リノトーレークスの立体機動には“誤差”になる。
リノトーレークスが踏み込む。
誤差が出る。
爪の軌道が、ほんの僅かずれる。
その僅かが、シュヴァロフの関節を救った。
シュヴァロフが巨腕で受け止める。
受け止めた瞬間、装甲が軋む。
軋みが、痛みの音に聞こえる。
痛みを増やさないように、シュヴァロフは“丁寧に耐える”。
その丁寧さが、余計に胸を締めた。
トミーが肩の上で歯を鳴らした。
「……あー、これ、嫌なやつだ。怒る前に壊れるやつだ」
「黙れ」
「黙ったら、俺の中身が泣く」
義弘は一度だけ舌打ちを飲み込み、アンカーをもう一本打った。
今度は隔壁――CLOISTERの倒れた壁面の支点へ。
蜘蛛の糸が壁を引く。
引かれた壁が、わずかに起き上がる。
起き上がった壁が、廊下の中央へ“倒れ直す”。
倒れ直した壁が、リノトーレークスの踏み込みの導線を切る。
リノトーレークスは止まれない。
止まる手順が、ない。
止まる余白が、ない。
義弘はその瞬間を見逃さず、足首の電磁反発装置を鳴らした。
滑る。
滑りながら、刀を抜く。
都市戦用ブレードは、機体の心臓を狙わない。
狙うのは――関節でも爪でもない。
背中の推進補助ユニットの固定具。
“病院の狭さ”に合わせて、強引に組まれている支点。
刃が走る。
金属音が小さい。
小さい音のまま、推進補助がずれた。
ずれた瞬間、リノトーレークスの立体機動が“狭い廊下”で暴れる。
暴れる機体は、自分で自分の関節を痛める。
非致死の名目が、機械にも効く。
リノトーレークスは、廊下の壁へ肩を擦り、床へ爪を突き立て、引きずられるように姿勢を崩した。
崩れた。
崩れた瞬間に、義弘は勝ちを確信した。
――だが、勝ちが遅い。
白いカーテンの奥で、薄い振動が走る。
廊下の空調の向きが変わる。
消毒液の匂いが濃くなる。
“搬送”だ。
救急の顔をした、移送の手順。
「……!」
義弘が扉へ向けて踏み込む。
そのとき、シュヴァロフの巨腕が義弘の胸を押した。
押したのは暴力ではない。
押したのは――退避だ。
巨腕の向こうで、リノトーレークスが最後の力で爪を振るう。
振るう爪は、義弘を狙っていない。
シュヴァロフの関節を狙っている。
シュヴァロフが受けた。
受けた瞬間、黒い装甲の一部が“きれいに”割れた。
きれいに割れるのが怖い。
手順通りに壊れるのが怖い。
シュヴァロフの熱・衝撃置換装置が、限界の音を吐いた。
熱が逃げない。衝撃が熱に変わりきれない。
内部で“溜まる”。
それでもシュヴァロフは、義弘を押し出した。
押し出して、巨腕で廊下を塞いだ。
まるで、母親が子どもを背中で隠すみたいに。
義弘の喉が鳴った。
「……やめろ、シュヴァロフ!」
返事はない。
代わりに、シュヴァロフの頭部が、ほんの少しだけ、カーテンの奥を向いた。
“守れ”。
義弘は歯を食いしばり、カーテンへ走る。
走る途中で、扉の向こうの“救急搬送ユニット”が視界の端に映った。
白い機体。
角が丸い。
担架のような腕。
音がない。
VX-31――HUSH。
救急車みたいな顔で、少女を運ぶ機械。
義弘が手を伸ばした瞬間、廊下の灯りが一瞬だけ青に変わり、すぐ白に戻った。
“監査封印:継続”。
扉が閉じる。
閉じるのは隔壁ではない。
手順だ。
HUSHが、白い扉の向こうへ消える。
その背中は、“正しい”搬送の姿だった。
アリスの姿は見えない。
見えないのが、いちばん残酷だ。
義弘は立ち尽くし、拳を握った。
握った拳が、すぐほどけた。
拳を固めると、遅れる。
遅れは、次の死だ。
背後で、硬い音。
シュヴァロフが倒れた音だった。
義弘が振り向く。
黒い巨体が、膝をつき、巨腕が半分なくなっている。
装甲の割れ目から、熱が白く漏れていた。
漏れる熱が、白い廊下に“湯気”のようなものを作る。
トミーが小さく呟いた。
「……怒られないように壊れたな。あいつ」
義弘は答えなかった。
答えたら、喉が壊れる。
義弘はシュヴァロフの頭部に手を当て、短く言った。
「……回収する。帰るぞ」
帰る。
勝ったのに、帰る。
この世界の正義は、いつもその形だ。
同じ頃。
都市の別の場所――OCM本社系統の会議室は、空調がよく効いていた。
冷えた空気の中で、数字と文面だけが生きている。
「当社管轄の医療・研究区画に、外部鎮圧機が侵入しました」
声の主は、顔色を変えない。
怒っているのは声ではなく、文面だ。
「投入された機体は、当社の運用手順に基づかない。監査封印が踏みにじられ、責任線が破壊され――」
その言葉が切れたところで、会議室の端に座る男が、サボテンの鉢に霧吹きをかけた。
オスカー・ラインハルト。
眉目秀麗で、仕事ができる企業人の外観。
指先だけが、静かに忙しい。
霧吹きの粒が、サボテンの棘に引っかかり、光った。
「……抗議文は?」
オスカーは鉢を回しながら、淡々と訊いた。
「三通。照会は五件。監査復権要求は二件。通信は――」
「返事は」
会議室が、一拍だけ静まる。
「……ありません」
誰かの喉が鳴った。
返事がない。
返事がないのが、いちばん屈辱だ。
オスカーはサボテンを見つめたまま、言った。
「返事がないのが返事です」
「……当社の縄張りです」
「縄張りという言葉は、社外文書に書かないでください」
冷たい。
冷たいのに、正しい。
オスカーは霧吹きを置き、会議室の資料に指先を滑らせた。
「我々が怒っているのは市民の安全ではない。――当社の“手順”が踏みにじられたことです。言い換えれば、当社が“下”だと示されたことです」
誰も反論しない。
反論すると、自分の仕事が軽くなる。
「そして、示された以上……力で戻せません。力は、手順に負けます」
オスカーの青い瞳が、資料から浮く。
「……今は、耐えます」
耐える。
この男の耐えるは、怒りを捨てるではない。
怒りを“計算”に変える。
「津田義弘は?」
誰かが答える。
「アリス奪取に失敗。シュヴァロフは大破。現在、回収中と推定」
オスカーは、サボテンの棘を一つ撫でた。
棘は余計なことを言わない。
「……津田氏がこちらへ来ます」
「来るのですか?」
「来ます。彼は“共倒れ”を嫌う」
オスカーは微笑まなかった。
微笑むほど、温度はない。
「来たら、条件を提示します」
条件。
この男の条件は、いつも優しい顔をして刺さる。
白い廊下の別の場所。
返事のない抗議が飛び交う頃――
返事のいらない準備が、静かに進んでいた。
画面には、一行だけ。
《適用:装甲服対策/関節破断手順》
《発令:本件担当》
それだけ。
名前がない。署名がない。
責任がない。
責任がない手順ほど、強い。
画面の隅で、機材の図面が開いては閉じた。
薄い楔。針の束。
装甲の隙間に入るための“薄い刃”。
非致死の名目に、最適な道具。
壊すための医療器具。
誰も笑わない。
笑う余白がない。
義弘は、シュヴァロフの残骸を抱えて、夜の外縁部へ出た。
“抱えた”と言っても、機体は巨い。
引きずり、吊り、支えて、どうにか移動する。
黒い装甲は、もう光を吸わない。
割れて白い内側が見える。
あれほど丁寧だった動作が、今は止まっている。
トミーが義弘の肩から降り、シュヴァロフの装甲の割れ目を覗き込んだ。
「……料理も掃除もして、子守りもして、最後は盾か。お前、働きすぎだろ」
義弘は答えない。
答えると、胸の中が崩れる。
義弘は歩きながら、端末を触った。
繋がらない。MUTEの残響がまだ薄い。
繋がらないのは、今だけだ。
だが、“繋がるべき線”がどこかで切られている。
義弘は小さく呟いた。
「……一人では足りない」
言いたくない言葉だ。
だが、言わないと次が来る。
義弘は進路を変えた。
向かう先は、オスカー・ラインハルトのいる場所。
借りを作りに行く。
屈辱を飲みに行く。
それでも、行く。
アリスを取り戻すためだ。
白い部屋。
アリスは目を覚ましていた。
覚醒は完全ではない。鎮静が薄く薄く残っている。
薄い鎮静は、怒りを鈍らせる。
怒りが鈍る分だけ、恐怖が戻る。
恐怖が戻る分だけ、翼の残像がちらつく。
翼が出るたび、身体の奥が痛い。
扉が開いた。
足音がない。
空気だけが一段、落ち着いた。
来た。
アリスは、口元だけで笑った。
笑いは毒だ。毒で自分を守る。
「……また“健康管理”?」
男は名乗らない。
名乗る必要がない顔をしている。
名乗る代わりに、端末を見せる。
そこには、丁寧すぎる文面。
丁寧すぎる封印。
そして、あのラベル。
アリスは唾を飲み込み、吐き捨てた。
「手順の人間」
男は、ほんの少しだけ眉を動かした。
「……詫びに来た」
「は?」
アリスの声が尖る。
「詫び? 誰が? 何を?」
男は言葉を選ぶ。
選んだ言葉が、どうしても手順になる。
「……損壊の発生を、遺憾に――」
「やめろ。そういう言い方、吐き気がする」
アリスは歯を剥いた。
鎮静が薄いぶんだけ、毒が戻ってくる。
「シュヴァロフは“損壊”じゃない。……あいつは」
あいつは、家族だ。
言いかけて、言わない。
言うと、泣きそうになる。
男は息を吐いた。
息の吐き方が、疲れているのに静かだ。
「……黒い機体が、前に出た。あれがなければ、もっと死んでいた」
「……死んでたのは誰」
男は答えなかった。
答えると責任が生まれるから。
アリスは鼻で笑った。
「責任取らないのに、詫びるな」
男の視線が、一瞬だけ下がった。
下がるのは逃げではなく、痛みだ。
「……昔を思い出した」
アリスの眉が動く。
「昔?」
男は言った。
「NECROの、最初の頃だ。……俺たちが、まだ“兄弟姉妹”だった頃」
アリスの胸の奥が、僅かにざわつく。
ざわつきは嫌だ。嫌なのに、聞いてしまう。
「……あんた、私と同年代?」
「近い」
「ふーん」
アリスはわざと興味なさそうに言った。
興味があるのが悔しい。
男は続けた。
「……デュラハン、って知ってるか」
アリスの瞳が、ほんの少しだけ細くなる。
「……知らない」
嘘だ。
どこかで聞いた気がする。
でも、思い出したくない。
男は淡々と言った。
「オスカー・ラインハルトの、昔のコードだ。デュラハン」
アリスは舌打ちを飲み込んだ。
「首なし騎士? 趣味悪」
「……そういう意味じゃない」
「じゃあ何。あのキザ男、首がないの?」
男の口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑いではない。共感の癖だ。
「“首”がないのは、命令に首を差し出さないって意味だ。……あいつは、最初から全体を見ていた」
「……へえ」
アリスは、反応が自分でも嫌だった。
知らないふりをしたいのに、知りたい。
男は続ける。
「リッチは、よく笑ってた。笑ってるのに、手は正確だった」
「リッチ……」
アリスはその名前を転がした。
どこかで聞いた。自分の周囲にいる。
「レヴェナントは、眠らなかった。眠れなかったのかもしれない。いつも数式を言ってた。口に出さないと、壊れるみたいに」
「……あいつ、今もそれ」
「ドッペルは、影にいた。影にいるのに、誰より先に気づく。……気づいても、言わない」
アリスは乾いた笑いを漏らした。
「陰キャの極みじゃん」
「……お前は、馴染めなかったな」
男の言葉が、唐突に刺さる。
アリスの胸が、一瞬だけ硬くなる。
「馴染んでない。今も」
「知ってる」
男は言った。
知ってる、という言葉が、手順じゃない温度で出た。
それが嫌だった。
嫌なのに、少しだけ楽だった。
アリスは顔を背け、吐き捨てる。
「……私は、機械の方が好き。人間は余計なこと言うから」
男は、すぐには答えない。
答えないのが、優しさの形になることがある。
「……黒い機体も、余計なことは言わない」
「言わない。だから好き」
アリスは言ってしまって、後悔した。
言葉にすると、柔らかくなる。
柔らかくなると、壊される。
男は、小さく息を吐いた。
「詫びは、言葉では足りない」
「当たり前」
「……だから、せめて“増やさない”」
アリスが振り向く。
「何を」
男は答えない。
答えないまま、端末を閉じた。
閉じた瞬間、部屋の空気が一段だけ揺らいだ。
揺らいだのは気のせいじゃない。
どこかの手順が、ほんの少しだけ変わった。
アリスは喉の奥で笑った。
「……あんた、敵のくせに、気持ち悪い」
男は扉へ向かいながら、言った。
「敵でいられる方が、楽だ」
「じゃあ楽してろ」
男は一瞬だけ止まり、振り返らずに言った。
「……デュラハンは、楽をしない。お前もだ」
アリスは舌打ちした。
「うるせ」
扉が閉じる。
足音は最後までない。
白い部屋に残ったのは、アリスの呼吸と、薄い鎮静の味だけだった。
そして、遠い廊下の奥で――
何かが静かに起動する気配。
アリスの背筋が冷える。
“病院の匂い”が、また少しだけ怒った。
義弘は、オスカーの部屋の前に立っていた。
扉の向こうから、霧吹きの音がする。
棘に水が落ちる音。
義弘は一度だけ、拳を握り、ほどいた。
借りを作る。
屈辱を飲む。
それでも――アリスを取り戻す。
扉が開いた。
オスカー・ラインハルトが、微笑まない微笑で言った。
「ようこそ。名誉会長さん。……お困りのようですね」
義弘は返した。
「困っている。だから来た」
オスカーはサボテンを撫で、淡々と告げる。
「では、条件から始めましょう」
義弘の目の光が、鋭くなる。
条件。
手順。
そして、次の戦場。
白い部屋のどこかで、誰も名乗らない一行がまた落ちる。
《発令:本件担当》
返事はない。
返事がないのが、返事だ。




