第四十話 横槍
白い空気は、病院の匂いをしていた。
だが、その匂いは人を救うためのものではない。
救う“手順”を守るための匂いだ。
穴の向こう――医療・研究区画の廊下は、均一な光で照らされている。
床は柔らかく、壁は衝撃を吸い、角という角が丸められていた。
人を傷つけないため。そういう顔をしている。
義弘は、そこに足を踏み入れた瞬間に理解した。
ここは要塞だ。
ただし、要塞の武器は銃でも刃でもない。
――承認。封印。照会不可。安全管理。
壁面の表示が、薄く光った。
案内ではない。命令の書式だ。
トミーが肩の上で鼻を鳴らす。
「うわ。病院の廊下って、こんなに“怒ってる”匂いだったっけ」
「余計なことを言うな」
「余計なこと言わないと、こっちの喉が詰まる」
義弘は口を閉じたまま、視界の端で“出ないはずの情報”を探す。
出ない。
VX-29 MUTEの沈黙が、まだ薄く張り付いている。
――配信も、案内も、コメントもない。
静かな戦場は、いつも音より先に、判断を奪う。
影が滑った。
シュヴァロフが、義弘の前に立つ。
光を吸う黒い装甲。
背負った巨腕が、戦闘用ではなく――誰かを包む形で閉じている。
守る対象は義弘ではない。
この先にいる、小さな女の子だ。
義弘は、鼻で笑いそうになって、やめた。
「……行くぞ」
返事はない。
その代わり、シュヴァロフの足が一歩進んだ。
“行け”という合図だった。
最初の障害は、扉だった。
扉の前に、透明な“線”が引かれている。
見えないはずの線が、見える。
義弘の眼窩下の端末が、鈍いノイズを吐いた。
視神経の裏が冷える。
表示が浮く。
《立入:保全対象外》
《照会:不可》
《責任者:非表示》
責任者が非表示。
――つまり、責任者は複数だ。
複数であるほど、誰も責任を取らない。
誰も取らない責任ほど、現場を殺す。
義弘は息を吸い、吐いた。
刀は抜かない。抜くべきは刃ではなく――線だ。
真鍋の声が、耳の奥で蘇る。
『必要かどうかを決めるのは、あなたじゃない』
正論だ。
だからこそ、ここでは役に立たない。
「決めるのは、今だ」
義弘は手首のアンカーを起動し、扉の上枠に糸を打った。
蜘蛛の糸が走り、金属に吸着する。
シュヴァロフの巨腕が、扉の下端を掴む。
掴み方が丁寧すぎる。壊さない掴み方だ。
義弘がアンカーを引く。
シュヴァロフが押す。
扉が“破壊”ではなく、“解体”される音がした。
――ここは病院だ。壊しすぎると、アリスが嫌がる。
そんなことを考えてしまうのが、シュヴァロフの怖さだった。
戦闘機械が、子どもの好みを覚えている。
扉が外れた。
次の廊下の空気が、少しだけ冷たい。
冷たいのは温度ではない。
許可されていない場所の冷たさだ。
そして、その冷たさの中で――シュヴァロフが止まった。
匂いだ。
油。布。
消毒液の下に隠した、微かな鉄の匂い。
義弘も気づく。
床の端、壁際に薄い膜がある。
VX-34 CLOISTER。
封鎖と人払いのための“隔壁”。
透明な膜の向こう側で、光が屈折している。
視線が曲がる。距離感が狂う。
トミーが小さく舌打ちした。
「うわ、これ……踏んだら終わりのやつ」
「踏まない」
「踏まないって言った奴から踏むんだよな。世界の手順ってそう」
義弘は壁を見た。
壁の角。丸められた角。
そこだけ膜が薄い。
散布する装置は、角が苦手だ。
どんなに完璧な手順でも、角は残る。
義弘は足首の電磁反発装置を微弱に鳴らし、壁面を滑る。
床を踏まない。膜を踏まない。
シュヴァロフが、その後ろを“重くない足取り”で追う。
4メートル級の戦闘ドローンが、病院の廊下で気配を殺す。
異常だ。だが、ここは異常が正しい場所だ。
廊下の先で、隔壁が動いた。
隔壁が歩く。
壁が、壁のままこちらへ近づいてくる。
CLOISTERが現れた。
武器はない。
しかし、武器より嫌だ。
CLOISTERは、道を“狭く”する。
狭くした先に、転倒と拘束が待っている。
義弘は刀の柄に指をかけた。
「……殺しに来てない」
「殺さない方が怖いんだよな」とトミーが言った。
CLOISTERの下から、冷却ミストが噴かれる。
床が一瞬で滑る。
滑る床は、戦い方を奪う。
義弘は“滑る前”に動いた。
アンカーを天井に打ち、糸で身体を吊る。
吊ったまま、足を空中に置く。
蜘蛛の糸が、義弘の無茶を支える。
スーツが軋む。だが、軋みは計算の音だ。
シュヴァロフが一歩前に出る。
巨腕でCLOISTERの隔壁を掴み、動きを止める。
止め方が優しい。
優しすぎる。
まるで子どもの肩を押さえるみたいに。
――シュヴァロフは、機械にすら“痛みを増やすな”をやっている。
義弘は吊られたまま、隔壁の関節ではなく、隔壁の“支点”を見た。
支点は床と繋がっている。
床は病院の床だ。壊すと騒ぎになる。
騒ぎは、手順を呼ぶ。
だから、壊さない。
外す。
義弘は刀を抜いた。
都市戦用ブレードが、冷たい光で廊下を割る。
刃は、支点の固定具だけを切った。
CLOISTERが一瞬だけ重心を失う。
その一瞬を、シュヴァロフが逃さない。
巨腕が隔壁を押し、壁が壁のまま横に倒れる。
倒れる音が、驚くほど小さい。
倒れた壁の向こうに、もう一つ扉があった。
今度の扉は、厚い。
そして――扉の横に、古い形式の端末が埋まっている。
義弘はそれを見て、薄く笑った。
「旧式だ」
旧式は、手順が甘い。
旧式は、人の癖が残る。
義弘が指先で端末を撫でる。
シュヴァロフが背後に立つ。
トミーが息を潜める。
端末が反応しない。
当然だ。義弘に権限はない。
――権限がないなら、権限を持ってるやつを引っ張り出す。
義弘は、真鍋からもらった“承認線”の断片を思い出した。
学校。保健室。健康管理。財団。医療支援法人。
それらが繋がる先に、必ず“署名する人間”がいる。
義弘は端末に、ひとつだけ入力した。
《責任:照会》
照会不可の壁に、責任照会の刃を刺す。
正論を遅らせないための、卑怯な手。
端末が一瞬だけ固まり、次いで表示が変わった。
《一時照会:許可》
《条件:治安案件に準ずる》
治安案件。
鳴海が外側で“変換”した線が、ここに刺さった。
義弘は小さく息を吐いた。
「……鳴海。よくやった」
返事はない。
MUTEが沈黙を貼っている。
それでも、結果だけが届く。
届くのが官僚の戦場だ。
扉のロックが、軽く鳴った。
――開く。
義弘が扉に手をかけた、その瞬間。
廊下の奥の監視灯が、青から白へ変わった。
白は、病院の色だ。
だが、この白は救いではない。
監査の白だ。
同じ区画の内側。
白い部屋のさらに奥。
端末が並ぶ薄暗い制御室。
男がひとり、画面を見ていた。
白衣ではない。制服でもない。
だが、その端末は“許可”を出す。
画面には丁寧すぎる文面。
《追跡:発生》
《対応:遮断/封鎖》
《投入:VX-29 MUTE/VX-34 CLOISTER》
男は指を止めた。
止めた指の震えは、ほんのわずか。
――やりすぎだ。
やりすぎると、壊れる。
壊れると、次が消える。
“兄弟姉妹”の顔が、胸の奥を掠める。
掠めるだけで痛い。痛いのが嫌で、彼は手順に逃げた。
手順に逃げても、痛みは残る。
男は端末を撫で、封鎖の出力を“ほんの少し”だけ落とした。
その操作は、記録されない。
記録されないようにできる権限が、彼の役割だった。
――痛みを増やすな。
それが書かれないから、自分でやる。
卑怯だ。
それでも、やる。
端末が震えた。
新しい通知。
《外部鎮圧機:導入》
《支援:VX-29 MUTE 継続》
《発令:本件担当》
男は、息を止めた。
本件担当。
あの言い方。
誰の名前も出さない。責任も出さない。
――また来た。
男は画面を見つめたまま、動けなかった。
動けないのは恐怖ではない。
理解だ。
これは自分の手順では止められない。
これは“上”の怒りだ。
怒りは書式のまま落ちてくる。
男は、端末を閉じた。
閉じるしかなかった。
扉の向こうは、さらに白い廊下だった。
白い廊下の先に、薄いカーテン。
その奥に、機械音。
義弘が一歩踏み込んだ瞬間――空気が変わった。
MUTEの沈黙とは違う。
沈黙が増したのではない。
沈黙の“質”が変わった。
音が消えるのではない。
判断の余白が消える。
シュヴァロフの頭部が僅かに動く。
耳のない耳で、何かを聴いている。
床の振動だ。
トミーが息を飲んだ。
「……来る」
義弘も分かる。
足音がない。
だが、重さが近づく。
廊下の外側――区画の壁を、何かが“踏んだ”。
壁が震え、天井の粉塵が落ちる。
次の瞬間、壁が開いた。
開いたのではない。
破られたのでもない。
解体された。
丁寧に。迅速に。躊躇なく。
そこから出てきたのは、巨大な無人戦闘機――
戦闘用無人機、リノトーレークス。
都市での戦闘を考慮された立体機動。
全方位攻撃。接近戦重視。
そして“名目は非致死”。
名目。
名目ほど、人を殺しかける。
リノトーレークスの関節が光った。
関節破壊用の機構が、まるで医療器具みたいに静かに作動する。
義弘の背筋が冷えた。
「……これは、OCMの手じゃない」
読めていたのはVXだけだ。
封鎖だけだ。
手順だけだ。
だが、これは違う。
これは“見せしめ”の作法だ。
リノトーレークスの周囲で、空気が薄く歪む。
MUTEの支援が、ここにも噛んでいる。
気づかせない。繋がらせない。逃がさない。
――完璧な横槍。
義弘は歯を食いしばり、刀を構えた。
リノトーレークスが一歩踏み込む。
踏み込みは遅い。遅いのに、距離が詰まる。
立体機動の“準備”が、もう終わっている。
シュヴァロフが前に出た。
義弘を守るためではない。
廊下の奥――白いカーテンの向こうにいる子を守るために。
黒い巨体が、盾になる。
盾の向こうで、義弘が動く。
義弘は刀でリノトーレークスの“武器”を切らない。
切るべきは武器ではない。
切るべきは――足場と導線だ。
未完成構造物を利用し、段差に誘導する。
落下させ、段差で自壊させる。
その戦法は、過去に何度も義弘を救ってきた。
だが、ここは病院だ。
床が柔らかい。段差がない。
落とし穴がない。
“人が転ばないように”設計されている。
――つまり、義弘の戦場が奪われている。
リノトーレークスがシュヴァロフに接近し、関節破壊の爪が伸びた。
名目は非致死。
実際は――圧壊。
シュヴァロフが巨腕で受け止めた。
受け止めた瞬間、装甲が軋む。
軋みが、痛みの音に聞こえた。
シュヴァロフは、それでも“痛みを増やすな”の動きで耐える。
耐えるほど、危ない。
義弘が踏み込み、刃を振る。
狙うのは関節ではない。
関節を守る“支援機構”――MUTEの妨害で誤差が出る場所。
しかし、MUTEの沈黙が刃の計算を狂わせる。
情報がない。
視界が単純な白で、深度が読めない。
義弘の刃が、ほんの数センチずれた。
その数センチが、死だ。
リノトーレークスの動きが一段早くなる。
全方位からの圧が来る。
シュヴァロフが一歩下がった。
下がったのではない。
退かされた。
義弘の背後で、扉が閉まり始める。
CLOISTERが“隔壁”を戻している。
逃げ道が、書類で塞がる。
義弘は舌打ちを飲み込む。
「……最悪だ」
トミーが喉を鳴らした。
「最悪って言った奴から、もっと最悪が来るんだよな」
リノトーレークスが、義弘へ向けて踏み込んだ。
踏み込みの軌道が、病院の廊下に合わせて最適化されている。
転ばせる。押さえつける。関節を壊す。
名目は非致死。
死者寸前まで行くやつだ。
義弘は、刀を構えたまま――一瞬だけ、迷った。
切るべきは、目の前の機体か。
それとも、背後で閉じていく“手順”か。
迷いは遅れだ。
遅れは死だ。
だが、その迷いの中で、義弘の脳裏に“白い一行”が浮かぶ。
《発令:本件担当》
責任を出さない。名前を出さない。
ただ、手順だけを落とす。
――こいつらは、戦う相手じゃない。
義弘は悟りかけた。
悟る前に――
白い部屋で、アリスは目を開けた。
目を開けたというより、目が“開いてしまった”。
鎮静が薄れていく感覚は、怒りと一緒に戻ってくる。
怒りが戻る分だけ、翼の残像がちらつく。
ちらつく翼が、現実の白に擦れて痛い。
耳が聴く前に、身体が聴いた。
床の奥。空調の揺れ。
あの重さ。
――リノトーレークス。
その名前が、記憶より先に出た。
記憶は遅れてくる。
遅れてくる記憶の中に、昔の白い部屋があった。
孤児だった頃。
治療だった。
療養だった。
再雇用プログラム――その言葉を知る前。
同じ白い部屋に、同じ子どもがいた。
同じ痛みを抱えたはずの子たち。
でも、彼らは早く“役割”の顔になった。
優しい言葉すら、手順の言葉で出てきた。
「大丈夫」ではなく、「状態は安定」
「怖い」ではなく、「症状の一部」
「嫌だ」ではなく、「抵抗」
アリスは、馴染めなかった。
馴染めないまま、居場所を探した。
居場所は、人のところにはなかった。
居場所は――機械の足元にあった。
小さな整備ドロイド。
返事をしない。
説教をしない。
“正しい言葉”で縛らない。
ただ、そこにいてくれた。
そのとき初めて、アリスは思った。
――家族って、こういうのだ。
アリスの喉が、乾いた笑いになりそうで、ならなかった。
なれない。今は。
白い部屋の空気が、また変わる。
遠い廊下で、何かがぶつかる音。
義弘。
シュヴァロフ。
アリスは、爪を立てるように手を握った。
握った拳は小さい。
小さい拳が、世界を殴りたい。
でも、殴る前に――助けたい。
助けたい相手は人間か?
機械か?
両方だ。
アリスの翼の残像が、白い光の中で一瞬だけ濃くなった。
廊下で、リノトーレークスが踏み込む。
踏み込みは、義弘の想定外の角度から来た。
病院の廊下は角が丸い。
だから、角度の逃げ場がない。
義弘は退く。退くが、背後の隔壁が閉じる。
閉じる隔壁は、CLOISTERの壁だ。
壁が、義弘を挟む。
前:リノトーレークス。
後:手順の壁。
横:沈黙の支援。
絶体絶命。
完璧な横槍。
シュヴァロフが巨腕を広げ、義弘の前に立つ。
立つ姿は、盾だ。
盾は壊れてもいいと言っている。
義弘は、歯を食いしばった。
「……やめろ。お前が壊れたら、あいつが泣く」
シュヴァロフは返事をしない。
返事の代わりに、巨腕がわずかに角度を変えた。
“泣かせない”と言っている。
リノトーレークスの爪が、シュヴァロフの関節へ伸びる。
名目は非致死。
圧壊で、殺す寸前。
義弘は悟りかけた。
――切るべきは、目の前じゃない。
目の前を動かしている“手順”の背後だ。
悟る前に、リノトーレークスが踏み込む。
白い廊下が、戦場に変わる瞬間。
沈黙が、悲鳴になる瞬間。
義弘の刃が、振り上がった。
だが、刃が落ちる前に――
リノトーレークスの影が、義弘を飲み込んだ。




