第三十九話 断線
義弘は、“敵”を探していなかった。
探しているのは、責任だ。
責任は人の顔をしていない。
責任は署名であり、押印であり、承認であり、同意ボタンだ。
責任は、最も弱い紙の上で最も強い。
真鍋佳澄の声が、耳の奥で乾いていた。
『……搬送記録、ありました。学校からの“健康管理対応”として処理されてます。搬送先は――』
「医療区画」
義弘が言うと、真鍋は一拍遅れて頷くような呼吸をした。
『はい。……でも、区画名が伏せられてる。監査封印です。照会不可。こっちの権限では――』
「権限が足りないなら、権限を持ってるやつを引っ張り出す」
『津田さん、あなたは……』
「正論が遅れてくる前に押し込む」
真鍋が短く息を飲んだ。
“正論”の重さを、彼女は知っている。遅れてくるたび、誰かが死ぬ。
『……学校側の承認は、保健担当の先生です。端末に“安全管理モード”が出た。提供元は――名義が分散してます。教育系の財団、医療支援法人、設備保全会社……全部、表面は綺麗です』
「綺麗なのは、責任を洗ってるからだ」
義弘は歩きながら、指先で顎を撫でた。
白髪のオールバックの下で、眼の光だけが尖る。
「搬送の車両は」
『“補助搬送”扱い。車両番号は伏せ。……ですが、搬送時刻と経路の一部は残ってます。都市システムのカメラは……あなたが嫌いな、あの、ええと……』
「都市の目は、都市のものじゃない」
『……はい』
真鍋の声が苦い。
彼女が正論を吐くときの苦さではなく、現実を噛んだ苦さだ。
「経路を送れ。あと、鳴海に繋げ」
『もう繋いでます。――鳴海さん?』
短いノイズの向こうに、鳴海宗一の声が割り込んできた。
現場の砂が混じった声だ。
『津田。位置』
「搬送経路の終点に向かっている。リングの南側、未完成の医療・研究区画だ」
『……そこは“来るな”って言われてる場所だ』
「言われてるから行く」
『……俺もだ』
鳴海の返事は早い。
早い返事は、背中の装備が整っている証だ。
『KOMAINUの不正補給線、まだ切れてない。中央調停局の件で終わったと思ったが……“補給の癖”が似すぎてる。誰かが同じ手で動かしてる』
「同じ手」
『同じ“手順”だ』
鳴海が吐き捨てる。
『今は戦闘じゃない。――捜査でもない。封印だ』
「封印は破る」
『破れない封印もある』
「破れないなら、破れないまま“責任”を貼り替える」
鳴海が鼻で笑った。
『お前、書類の刃はよく研いでるな』
「刀より役に立つ」
『……違いない』
通話が切れた。
義弘の肩の上で、トミーが小さく鼻を鳴らした。
「で? 今日は誰をぶん殴るの?」
「殴らない」
「殴らない日の方が死ぬんだよな」
トミーの毒が、妙に真実味を持つ。
義弘は答えなかった。答えると遅れる。
遅れは、死だ。
遅れは、手順違反だ。
どちらに転んでも、こちらが悪者になる。
シュヴァロフは、言葉を持たない。
だが、言葉がいらない追跡をする。
リングの縁――建設途中の都市中枢を貫く未完成の円環。
その影に残る、わずかな違いを拾う。
布の繊維。
消毒液の種類。
金属の温度差。
そして――人間の呼吸が残す湿り気。
シュヴァロフの黒い装甲は光を吸い、影の中で影になる。
その背負った巨腕が、戦闘用ではなく“支える手”の形で閉じている。
――アリス。
呼びかける言葉はない。
代わりに、空気の匂いをもう一度吸った。
ここを通った。
運ばれた。
静かに。乱暴に。
静かに運ばれるほど、乱暴だ。
カーテンの向こうで見たアリスの髪。
乱れていた。
乱れているだけで、怒りが湧く。
シュヴァロフは、足を止めない。
止まれば、追いつけない。
追いつけないことは、守れないことだ。
同じ区画の、さらに内側。
白い光が均一に降り、空調が感情を消す場所。
男が、監査封印の扉の前に立っていた。
白衣ではない。
制服でもない。
だが、その端末が、扉を“開く”のではなく“許可する”。
画面に、丁寧すぎる文面が並ぶ。
《保全対象:A 状態:安定》
《監査封印:継続》
《外部照会:不可》
名前は表示されていない。
ここでは、名前は余計なことだ。
男は端末を閉じ、息を吐いた。
息の吐き方が、疲れているのに静かだ。
――手順だ。
彼はそれを、何度も心の中で言ってきた。
言えば、正しい側に立てる。
言えば、感情が薄まる。
薄まらない。
今日だけは。
“対象A”。
“健康管理”。
“保全”。
その単語の中に、あの少女の目がある。
刺々しくて、怖がりで、意地っ張りで――生きている目。
男の胸の奥で、ほんの小さな棘が動いた。
怒りとは呼べない。
だが、不快だ。
不快であることが、彼に残された人間性だった。
端末が震える。
外部からの指示。
《追跡事案:発生》
《対応:遮断 投入:VX-29 MUTE》
男は、目を閉じた。
MUTE。
断線。沈黙。
追跡の息の根を止めるための装置。
――殺すな。
増やすな。
痛みを。
それは彼の本音だ。
だが本音は、手順に書かれない。
男は端末を操作した。
操作しただけで、区画のどこかが静かに反応する。
灯りが、ほんの一瞬だけ、青に変わった。
そして――都市の“声”が消えた。
義弘が区画に近づいたとき、まず違和感が来た。
風ではない。匂いでもない。
繋がりが消えた。
視界の端に浮いていたはずの案内が薄い。
広告が消えている。
人の動きに合わせて出るはずの補助情報が、出ない。
そして――耳の奥の“常時接続”が、静かに落ちた。
義弘の眼窩下に埋め込まれた端末が、かすかなノイズを吐く。
視神経の裏が冷える。
「……ミュートか」
義弘は低く言った。
トミーが肩の上で歯を鳴らす。
「うわ。配信も落ちた。コメント欄、死んでる。市民の娯楽が死ぬときってこんな音なんだな」
「余計なことを言うな」
「余計なことを言わないと、ここで俺ら死ぬぞ」
義弘は足を止めず、周囲を見た。
人がいない。
正確には、人がいなくなっている。
避難誘導の矢印が見えない。
警告音が鳴っていない。
だが、空気だけが「ここにいるな」と言っている。
――手順で人払いをした。
義弘は舌打ちを飲み込み、歩幅を狭めた。
狭めるのは慎重さではない。
罠の距離を測るためだ。
影の中に、滑るようなものが動いた。
音がない。
車輪の音でもない。脚の音でもない。
ただ、床の“摩擦”が変わる気配。
現れたのは、薄い灰色の多面体装甲だった。
関節が少ない。
少ないのに、動きが滑らかすぎる。
生き物ではない。
だが、生き物より嫌な動きをする。
VX-29。
MUTE。
顔がない。
顔がないのに、こちらを見ている。
義弘のスーツの耳元の探知装置が、無音の警告を吐いた。
レーダーが乱されている。
ネットが沈黙している。
つまり――情報戦の足場がない。
義弘は、都市戦用ブレードの柄に指をかけた。
「非致死……の顔をした遮断だな」
MUTEの装甲の隙間から、細いノズルが伸びた。
霧が噴かれる。
冷たい。
冷たすぎる霧。
空気の水分が一瞬で奪われる。
呼吸が浅くなる。
浅くなった呼吸は、判断を遅らせる。
遅れは、死だ。
義弘は足首の電磁反発装置を鳴らし、滑るように距離を詰めた。
刀は抜かない。まだ。
抜く前に、相手の手順を読む。
霧の中で、粘着性の糸が飛んだ。
白い網。スタン網。
人体を傷つけず、動きだけを奪う。
義弘は腕を振った。
衝撃増幅――一瞬だけ。
腕から空気が砲撃のように震え、網が吹き飛ぶ。
同時に、腕部が強制冷却に入る。皮膚の奥が冷える。
「……短期決戦だな」
MUTEが滑る。滑りながら、床に何かを散布する。
透明な膜。
踏むと滑る。滑ると転ぶ。転ぶと拘束される。
――戦闘じゃない。
誘導だ。
義弘は踏まない。
踏まないために、壁に沿って走る。
壁際には膜が薄い。人の癖で散布が甘くなる。
その瞬間、上から影が落ちた。
シュヴァロフだ。
黒い影が影のまま降り、MUTEの前に立つ。
立つ姿が、盾だ。
戦闘機動ではない。誰かの前に立つ動き。
シュヴァロフの巨腕が、床を掴んだ。
膜の上の床材ごと、引き剥がす。
剥がした床材を盾にする。
盾を盾にする。
MUTEのノズルが向く。霧が噴かれる。
シュヴァロフは動かない。
動かないことで、霧の軌道を変える。
その霧が、義弘の顔の横を掠めた。
――シュヴァロフは、義弘を守っている。
守る対象は、義弘ではない。
その先の――アリスだ。
義弘は、心の奥で一瞬だけ笑った。
笑っている場合じゃないのに。
「……いい手だ、母親」
シュヴァロフが返事をしない代わりに、巨腕がわずかに角度を変えた。
“行け”と言っている。
義弘は行く。
行くために、刀を抜く。
都市戦用ブレードが、霧の中で冷たく光った。
光るのに、配信がない。
コメントがない。
静かな戦場。
静かだからこそ、殺意だけが濃い。
義弘は、MUTEの装甲の“関節ではない継ぎ目”を見た。
継ぎ目は手順の弱点だ。製造上の都合は、必ず残る。
刃が走る。
金属音が、驚くほど小さかった。
音が出ないのではない。
音が出る前に、相手が“飲み込む”。
MUTEは自分の損傷すら、外に出さない。
沈黙を保つために。
それでも、刃は通る。
通った瞬間、装甲の内側から薄い火花が漏れた。
その火花に、義弘は確信する。
――こいつは、追撃のためじゃない。
追撃を止めるためだ。
義弘は一歩踏み込み、MUTEの中心を狙わず、端末の基部を狙った。
基部は、手順の心臓だ。
そこを壊せば、封印が緩む。
刃が走る。
MUTEが滑る。
シュヴァロフの巨腕が壁を叩き、逃げ道を潰す。
その瞬間、空気が一段だけ重くなった。
何かが、裏で“許可”を降ろした。
義弘の耳元の探知装置が、無音のまま、熱を持つ。
――追加手順。
追加投入。
義弘は歯を食いしばった。
「……OCMは、追撃を重く見たな」
重く見たのは、こちらの命ではない。
痕跡だ。
痕跡を追われることが、まずい。
MUTEの装甲の内側が、わずかに開いた。
そこから、小さな針が飛ぶ。
鎮静針。医療の顔をした弾。
義弘は身体を捻り、針を避けた。
避けた針が、壁に刺さり、透明な液が滲む。
滲んだだけで、壁の塗装がわずかに白く変色した。
――非致死。
でも、効く。
シュヴァロフが一歩踏み出し、巨腕で針の射線を逸らす。
逸らすだけ。壊しすぎない。
壊しすぎれば、後でアリスが嫌がる。
アリスが嫌がることを、シュヴァロフは知っている。
義弘は、刃を一度引いた。
引いて、息を吸う。
この戦場で、息を吸うこと自体が“情報”になる。
だが、吸わなければ刃は鈍る。
義弘は低く言った。
「……真鍋。鳴海。聞こえるか」
返事がない。
当然だ。
MUTEが“ミュート”を作っている。
義弘は笑いそうになった。
笑えない。
「……なら、俺が勝手に突破する」
刀を構え直す。
MUTEの基部に、もう一度狙いを定める。
そのとき――区画の奥で、扉のロックが一つだけ“軽く”鳴った。
ほんの小さな音。
手順の音。
シュヴァロフの頭部が、そちらを向いた。
義弘も、目だけを動かす。
――中から、誰かが動かした。
義弘の脳裏に、白い部屋の文字が浮かぶ。
保全運用。監査封印。外部照会不可。
そして――工程のラベル。
誰かが、内側から“穴”を開けた。
穴は小さい。だが、十分だ。
義弘は、刃を振るった。
MUTEの基部が切れ、沈黙の装置が一瞬だけ“息”を漏らした。
途切れていた繋がりが、ほんの一拍だけ戻る。
戻った一拍の中で、義弘は走る。
走って、穴へ向かう。
シュヴァロフが背後に立つ。
立ち続ける。
盾のまま。
MUTEの霧が、背中に迫る。
迫る霧の向こうから、手順の影がさらに伸びてくる気配がした。
――追撃は、これで終わりじゃない。
義弘は息を吸い、吐いた。
「……アリス。待ってろ」
声は、誰にも届かない。
それでも言う。言わないと、手順に負ける。
そして、穴の向こうの白い空気が、義弘を飲み込んだ。




