第三十二話 監査
風が冷たい、というより――空気が薄い。
新開市の中心寄り、建設途中の中枢リングから少し外れた場所に、白い箱みたいな建物がある。外壁は無地で、窓は少ない。入口の上にだけ、妙に丁寧なフォントで看板が出ていた。
中立監査センター(臨時)
公開協議会場
看板の“臨時”の二文字が、いちばん信用できない。
義弘は道路の端で立ち止まり、スーツのバイザーをほんの少しだけ上げた。目の前の建物は清潔で、静かで、そして――出口が少ない。
肩に乗ったトミーが、鼻で笑う。
「なぁ。会議室ってさ、出口の数で本性わかるよな」
「ここ、出口少なすぎ。迷子になるタイプの善意だ」
「迷子はまだ可愛い」
「可愛くねえよ。迷子の善意は人を踏む」
義弘は一息でバイザーを下ろし、周囲を見る。入口の周辺に立っている誘導員は全員、同じ笑顔を浮かべている。微妙に角度の違う名札。丁寧な姿勢。必要以上の距離感。
それらが“人間”であるほどに、機械みたいだった。
カメラは見えるところに一つ。見えないところに十。そういう配置の匂いがする。
義弘が足を出した瞬間、背後から声が飛んだ。
「つ、津田さん!」
振り向くと、真鍋佳澄が早足で近づいてくる。サイバー課の警部補。制服は堅い。表情はもっと堅いのに、目だけは妙に疲れていた。
「……またあなたですか、津田さん」
「いつも言うな」
「言います。ログが――」
真鍋は言いかけて止めた。今日は“ログが”と言っている場合ではない、と自分で分かっている顔だ。彼女は端末を掲げる。
「条件文、受領されました。公開、記録、第三者立会、通信確保、保全禁止。あなたが突きつけた条件」
「……ここはあなたの戦場じゃありません。書類の戦場です」
「だから、勝手に突っ込まないでください。言葉で殴ってください」
義弘は頷いた。
「言葉なら得意だ」
「得意であることが問題なんです」
トミーが横から口を挟む。
「お姉さん、その言い方だと“得意だから危ない”ってことだよな」
「分かる。爪は切っても刃物は切れない」
真鍋はトミーを見る。見て、少しだけ目尻が下がる。ほんの一瞬だ。
「……あなたのウサギ、相変わらず口が悪い」
「口が悪いと長生きする」
「長生きしてください。今日は、特に」
その言い方が、もう嫌な予感だった。
会場前の広場は、人で埋まりかけていた。
《グランド・コンコルディア》の腕章。即席の旗。過剰に飾り立てた肩書きをプリントしたTシャツ。妙に綺麗な手書きプラカード。
そして――スマホと、カメラと、配信棒。
義弘の姿が見えた瞬間、熱が跳ね上がる。
「うわ、本物!」
「津田!津田さん!」
「サイン!サインください!」
「刀!刀のポーズ!」
「一緒に自撮り!」
「ここで一言!“士道”って言って!」
歓声は悪意じゃない。悪意じゃないから、余計に質が悪い。
義弘は立ち止まり、距離を測る。近づく足、押し寄せる肩、前のめりの眼。
誘導員が丁寧に手を広げて言う。
「安全確保のため、距離をお取りください」
「危険ですので、後方へ――」
丁寧だ。丁寧すぎて、冷たい。
その冷たさが、群衆の熱に油を注ぐ。
「なんだよ、同胞じゃないのかよ!」
「“中立”とか言って、偉そう!」
「ありがとう言うだけなのに!」
「俺たちだって現場に立ちたいんだ!」
その声に、別の声が混じる。
「……助けられたんだ」
「ただ、礼を言いたいだけなんだよ」
善意がある。確かにある。たった一滴でも本物の善意があると、群衆は自分たち全員を“善意”だと思い込みやすい。
そして、その善意が次の瞬間に変質する。
「なら公式になってくれよ!」
「公式なら、触れていいだろ!」
「公共財なんだから!」
義弘のこめかみが、わずかに跳ねた。
“触れていいだろ”――その言葉が、いちばん危ない。
その時。
群衆の隙間を割って、灰色のフードが見えた。
小さな体。だが、今日は違う。薄い肩の上に、装甲の輪郭が乗っている。サムライ・スーツ。派手でも広告まみれでもない、必要最低限の塗装。余計な装飾のない、硬い色。
アリスが現れた瞬間、熱狂は別の方向へ爆発した。
「アリスちゃん!」
「ゴーストだ!」
「違法ハッカー!」
「いや美少女だろ!」
「顔出して!」
「フード外して!」
「一言罵って!」
「こっち見て!」
アリスは、目だけで群衆を見た。目が冷たい。冷たいが、怖がっている子どもの目でもあった。
「……吐きそう」
小さく言って、義弘の横に立つ。シュヴァロフが一歩後ろに控える。黒い影のような機体が、今日は家事の人みたいに毛布と簡易担架を持っている。双子――トウィードルダムとトウィードルディーも、救助具のケースを抱えている。
その光景が、一瞬だけ群衆の熱を鈍らせた。
「あ……救助装備」
「ほんとに現場なんだ」
「俺らも……」
と、誰かが言いかけたところで、誘導員の端末が一斉に鳴った。
“通知”の音。
同じタイミング。
同じ長さ。
同じ、冷たい音。
その音だけで、空気が一段落ちる。
腕章をつけた男が端末を見て、顔色を変えた。
「……中央調停局(出先)から」
「“接触停止”“拡散停止”“退去”……?」
不満のざわめきが広がる。
「はぁ?なんで?」
「同胞だろ!」
「俺たちのヒーローだろ!」
「礼も言わせないのかよ!」
義弘は、その瞬間、理解した。
中央調停局は、この群衆を“仲間”だとは思っていない。
思っていないどころか――工程のための、邪魔だと思っている。
トミーが小声で言う。
「な?同胞って言葉、いちばん嘘くさい」
「同胞は道具にするときに便利だから使うんだよ」
真鍋が、義弘の袖を引く。
「中へ。今、入らないと」
「外が崩れたら、中はもっと閉じます」
義弘は頷き、群衆に向かって短く言った。
「退け」
「危ない」
それだけ。
それだけなのに、“命令”として響く。
群衆が一瞬、躊躇した。
躊躇した隙に、誘導員が導線を開ける。
義弘、真鍋、アリス、そしてシュヴァロフたちは中へ入った。
協議室は、温度が一定だった。息が白くならない程度に、冷たい。
テーブルは楕円。椅子は同じ形。水は同じグラス。
壁には時計がない。時間は外にある。
対面する席に座っている者たちは、名札を見せない。いや、名札はつけている。だが、文字が読めない角度に固定されている。絶妙に。
最初に口を開いたのは、柔らかい声だった。
「本日はお越しいただき、感謝する」
「我々は、都市の秩序と安全のために、この協議を設けた」
“我々”。
自分を指すとき、必ず複数形を使う。
義弘は返す。
「受領した」
「ただし、同意ではない」
柔らかい声は微笑んだ。微笑んだまま、紙束を差し出す。
「もちろんだ」
「本日は“議事録確認”と“協議出席確認”のみだ」
真鍋が横で、ペンを走らせる。ログを残す。残させる。
アリスは黙っている。黙っているが、視線だけが紙束の署名欄を舐めるように追う。
――二枚目。三枚目。四枚目。
“議事録確認”の欄がある。
その下に、文字の密度が増える。
義弘は紙束を指で押さえたまま、読む。読むふりではなく、読む。読むことが、この戦いの動作だ。
「……“安全確保のため、必要に応じ保全措置を行うことに同意する”」
義弘は顔を上げる。
「これは議事録確認じゃない」
柔らかい声が、微笑んだまま言う。
「解釈の問題だ」
「我々は、あなたの安全を最大化したい」
「市民の安全も、最大化したい」
トミーが、椅子の背からひょいと顔を出して言う。
「最大化って言葉、だいたい悪いことに使われるんだよな」
「“最大化”したいのは、お前らの権限だろ?」
空気が、ほんの少しだけ揺れた。
揺れただけで、元に戻る。
別の声が続く。冷たい声だ。
「本協議は公開である」
「公開である以上、責任の所在が必要だ」
「責任の所在が必要である以上、同意が必要だ」
美しい。論理の形だけが。
義弘は言った。
「受領はする」
「同意はしない」
真鍋が即座に書く。
“受領と同意は別”。
今日、この言葉がログになる。
柔らかい声が、少しだけ息を吐く。
「我々は、あなたが合理的であることを知っている」
「あなたは、都市のために、家族のために、会社のために、合理を選んできた」
「ならば今回も――」
義弘は遮る。
「合理は、今は敵だ」
「今、必要なのは境界だ」
アリスが、低い声で言った。
「境界を踏み越えたいから、紙を出したんだろ」
「……ほんと、気持ち悪い」
柔らかい声が、アリスを見た。見て、微笑を深める。
「あなたもまた、我々の都市の一部だ」
「あなたの安全も、最大化されるべきだ」
アリスの指が、ぴくりと動いた。
ハックの衝動。
だが、彼女は握り拳を作って押し殺す。
「私は都市じゃない」
「……人間だ」
その言葉に、協議室の空気は揺れない。
揺れないことが、怖い。
外のざわめきが、壁越しに滲んできた。
遠くで叫ぶ声。
近くで鳴る通知音。
ガラスの向こうに、カメラのフラッシュ。
協議室の誰かが言った。
「外が騒がしい」
「工程に支障が出る」
工程。
工程という言葉が、人間の声を“支障”に変える。
義弘は思う。
外の連中は、自分たちを拘束したいわけじゃない。
触りたいのだ。
触りたいから、制度にする。
制度にすれば、触れる。
アリスの肩が少しだけ震えた。怒りではなく、嫌悪だ。
「……ねえ、ジジイ」
「私、ここ、逃げたい」
義弘は答えない。答えないが、左手がわずかに動く。
“逃げ道”を計算する動きだ。
真鍋が小声で言う。
「ここで立ち上がらないで」
「立ち上がった瞬間、映像が切り取られる」
「あなたの“暴力”として」
義弘は、静かに頷く。
撮影=戦場。
もう身体が覚えている。
その時。協議室の端末が震えた。
真鍋の端末でも、誘導員の端末でも、同じ音が鳴る。
“別の通知”の音。
真鍋が画面を見る。顔が変わる。
「……治安側」
「鳴海……宗一?」
義弘は眉を動かす。
「鳴海が?」
真鍋は短く頷いた。頷きながら、汗を拭う。
「会場外で“臨時装備監査”を宣言しました」
「KOMAINU系列の補充パーツ欠番の照合」
「……つまり、狛犬の鎖を他人に握らせないってことです」
アリスが目を細める。
「狛犬……鳴海のスーツか」
「補給網、触られたんだな」
柔らかい声が、初めてわずかに速度を落とした。
「監査権限の衝突は望ましくない」
「混乱を避けるべきだ」
義弘は、ここで初めて笑った。ほんの少しだけ。
「望ましくないのは、あなたの工程が揺れるからだ」
「混乱は嫌いか?」
柔らかい声は微笑を崩さない。崩さないまま答える。
「痕跡が増える」
「痕跡は、危険だ」
その言い方が、すべてだった。
危険なのは、命じゃない。痕跡だ。
会場外。
鳴海 宗一は、KOMAINUのフレーム越しに風を感じていた。装甲の内側で、汗が冷える。
入口前に並ぶ誘導員たちの笑顔は、鳴海の視界では“障害物”に分類される。
その奥、見えないところに、同じ歩幅の影が増えている。
増勢。
そして塗装のムラ。識別灯の不整合。補修跡。
鳴海は静かに言った。短く、硬く。
「補給監査、開始」
「識別提示」
「欠番照合」
周囲がざわつく。
ざわつきの中心に、カメラが寄る。配信棒が伸びる。
《グランド・コンコルディア》の一般構成員が興奮して叫ぶ。
「うおお!治安来た!」
「監査だって!やべえ!」
「これも物語だ!」
「本物のヒーロー同士が並び立つ瞬間!」
鳴海は、その言葉を聞いて眉を動かした。
――並び立つ。
それは本来、憧れの言葉だ。
だが、憧れの言葉が“口実”に変わるとき、人は危険になる。
鳴海の端末が震える。
通知。
《グランド・コンコルディア》中央調停局(出先)
件名:監査行為の停止要請
当該部材は保全のため移送済み
権限衝突は中立性を毀損
現場の混乱を避けよ
鳴海は通知を一瞥し、短く返した。返したというより、吐き捨てた。
「権限で殴ってきたな」
「……なら、こちらも手順で殴る」
鳴海は声を張らない。張らないのに、周囲が静まる。
「識別を出せ」
「出せないなら、装備は不正だ」
「不正なら、保全する」
“保全”。
相手の言葉を奪って使う。
官僚の戦い方だ。治安の人間も、同じ武器を持っている。
誘導員の笑顔が、ほんの少しだけ固まる。
その固まりが、中央調停局の焦りの輪郭だった。
協議室内。
外のざわめきが、明確な“揺れ”になって壁を叩いた。
柔らかい声が言う。
「工程を変更する必要がある」
義弘は即座に返す。
「工程という言葉をやめろ」
「人間の話をしろ」
柔らかい声は微笑んだ。微笑んだまま、答えない。
代わりに、紙束を引いた。
その動作が、協議の終了宣言に見えた。
真鍋が言う。
「打ち切りですか」
「評議する」
冷たい声が言う。
評議する。
すべてを先延ばしにして、その間に準備を整える言葉。
アリスが立ち上がりかける。
義弘が手を伸ばし、止める。
「今は動くな」
「でも――」
「動いたら“暴れた”になる」
アリスは歯噛みする。
ここが戦場であることを、嫌でも思い出す。
その時、協議室の奥。
“関係者以外立入禁止”の扉が、ほんのわずかに開いた。
冷たい空気が流れ込む。
油の匂い。金属の匂い。
そして――重い、関節の気配。
アリスの目が、その隙間に吸い寄せられた。
装甲の継ぎ目。補修の跡。
かつての恐怖の形。
――スコルピウス。
完全な姿ではない。影だ。
だが、影だけで十分だった。
アリスの喉が鳴る。
嫌悪と、怒りと、そして――機体に向けてしまう自分の理解が混ざる。
あれもまた、誰かの“工程”に回収されたものだ。
シュヴァロフが、アリスの横にすっと立つ。母親みたいに。
言葉はない。だが“落ち着け”という動作がある。
義弘は扉の隙間を見て、心の中でメモを取る。
札がある。
槍がある。
そして網がある。
この協議は、協議ではない。
拘束の準備だ。
会場を出る導線で、群衆が再び押し寄せた。
《グランド・コンコルディア》の一般構成員は、中央調停局の“接触禁止”を無視し始めている。腕章を振りかざし、興奮して叫ぶ。
「津田さん!俺たちも現場に立ちたいんだ!」
「アリス!一緒に戦わせてくれ!」
「サインだけでいい!」
「自撮りだけでいい!」
“だけでいい”。
人は「だけ」を重ねて距離を詰める。
誘導員が丁寧に遮る。
「安全確保のため、距離を――」
「うるせえ!同胞だろ!」
「中央調停局ってなんだよ!」
「俺たちを使ったのかよ!」
亀裂が、音を立てて開く。
真鍋が義弘の背中を押す。
「早く。鳴海が外で踏ん張ってます」
「このままだと、誰かが倒れます」
トミーが言った。
「倒れたら、“倒れたやつのせい”にされる」
「倒れたやつが責任の受け皿になる。便利だよな、外郭は」
義弘は、群衆の中に、さっきの“礼を言いたいだけ”の顔を探す。
見つけられない。熱が全部を同じ色に塗る。
鳴海の声が遠くで聞こえた。短く、硬い。
「照合不能」
「――保全する」
そしてまた通知の音。
同じ長さ。
同じ、冷たい音。
義弘、アリス、真鍋、そして鳴海の端末に、同時に文面が落ちる。
《グランド・コンコルディア》中央調停局(出先)
件名:工程変更通知
本日の工程は変更する
次工程:安全確保(保全)の再定義
対象:協議参加者一式
備考:危険区域指定を準備する
アリスが、息を吸う音が聞こえた。
「……ねえ、ジジイ」
「分かっている」
「“保全”が来る」
義弘は群衆を見た。
群衆はまだ、熱に酔っている。
熱に酔っているから、危険区域指定を読まない。
読んでも、退かない。
そして中央調停局は、それを“自己責任”にする。
義弘は、ほんの一瞬だけ、迷った。
この街を救うべきか。
この街から逃げるべきか。
迷いの答えは、アリスの小さな声が運んだ。
「私、インフラじゃない」
「公共財でもない」
「……でも、あいつらが踏まれるのは、嫌だ」
義弘は頷いた。
「嫌だな」
「だから、守る」
守る。
その言葉が、今日の唯一の“同意”だった。




