第三十一話 同意
礼儀正しい文章は、刃物より静かに皮膚へ入る。
義弘の端末に届いた《グランド・コンコルディア》中央調停局の協議要請は、ひとつの通知に見えて、実際は“同報”だった。
同じ文面が同じ時刻に、複数の窓口へ流れた気配がある。
秘書室。
OCMの窓口。
市警の記録系。
市のインフラ監査。
逃げ道は、文書で塞げる。
刀ではなく、印鑑で。
「うわ。敬語で殴ってくるやつだな」
肩の上から、トミーが覗き込んで言った。
「“最大化”って言葉、だいたいろくなことしない」
「“貴殿の安全と継続を最大化する目的を含む”……なにそれ。呪いの定型文?」
義弘は、表情を変えずに画面を閉じた。
「招待状じゃない」
「召喚状だ」
「召喚すんなよ。魔王かよ」
トミーの毒舌は、軽い。
軽さは、時に救いになる。
救いがないと、人は正論に溺れる。
その頃、別の場所では“正論”が泡になっていた。
薄暗い貸し会議室。
壁際に「中立監査センター」と印字された安っぽいパネルが立て掛けられている。
中立という言葉を、彼らは衣装みたいに着回す。
テーブルには紙コップ。
炭酸酒。
乾きもの。
そして端末の海。
画面には、協議要請のスクリーンショット。
「津田、協議へ」「ゴーストも来る?」と見出しを切り取ったまとめ動画。
コメント欄の熱狂。
「効いた!」
「効いたぞ、俺たちの文書!」
「見たかよ――“本物”が動いた!」
乾杯が起きる。
音は軽い。だから寒い。
「《グランド・コンコルディア》に栄光を!」
「新開市は私たちのものだ!」
誰かが笑い、誰かが端末を掲げる。
「“公共財”って言葉、浸透してる!」
「俺ら、世界動かしてない?」
興奮の輪の中で、ひとりだけ、少し遅れて乾杯した者がいた。
手の震えが、興奮ではなく疲労に見える。
「……俺、さ」
彼は笑ってごまかそうとして、うまくいかない。
「本当は、こういうの……嫌いだったんだよ」
周囲の笑いが一瞬止まる。
止まった笑いは、すぐに再開するはず――だった。
彼は続けた。
「義弘ってさ、現場で迷わないじゃん」
「正義がどうとかじゃなくて……導線を作って、人を押し戻して、まず命を拾う」
「俺、ああいう大人になりたかった」
誰かが、からかうように言う。
「お、いい話」
「泣ける泣ける」
彼は首を振った。
「泣いてない」
「……ただ、守られる側で終わりたくないんだよ」
「一緒に戦いたいっていうか……同じ方向を向ける側になりたい」
そこに、別の誰かが勢いよく割り込む。
「だから“公式化”が要るんだろ!」
「登録して、管理して、呼べるようにしないと!」
「善意のままじゃ届かない。秩序にしなきゃ!」
善意が、音を立てて変質する。
憧れが、檻の形を取る。
「アリスもな」
「“我々のヒーロー”」
「拒まれてもいい。拒み方すら“物語”になる」
誰かが言う。
「怖いのに守ってくれるじゃん。あれ、ズルいくらい格好いい」
その言葉には、確かに“救われた”匂いがある。
だが次の瞬間、それが踏み台にされる。
「なら、象徴にしよう」
「顔出し、公式、コラボ、スポンサー」
「炎上は燃料だ」
テーブルの端には、奇妙なものが並んでいた。
救急処置の手順を自分でまとめた紙。
避難導線の作り方。
無人機の安全運用メモ。
――善意の痕跡。
その横に、同じ紙質の束がある。
協議要請の雛形。
登録台帳のフォーマット。
同意取得用の署名欄。
善意と支配が、同じ机の上で乾きものをつまんでいる。
その時、部屋の隅の端末が短く震えた。
通知。
送信者は、内輪のノリの名前じゃない。
ただの署名。
《グランド・コンコルディア》中央調停局(出先)
件名:協議要請の受領確認
当該要請は「受領」段階。
「同意」取得の成否は未確定。
関係者への追加拡散を停止せよ(炎上は燃料ではない。痕跡である)。
次工程:当日運用(出入口・通信・保全室)の条件再確認。
期限:本日24:00
部屋の空気が、ひゅっと冷えた。
「……出先?」
「中央調停局?」
誰かが笑おうとする。
笑いが続かない。
「同胞……だよな?」
「同じ《コンコルディア》なのに、別の国みたいだ」
最初に“善意”を口にした男が、小さく呟く。
「……俺たち、味方だと思われてない」
誰も答えない。
答えられない。
乾杯は再開された。
だが泡の音が、少しだけ不味くなった。
アリスは通知文面を読んだ瞬間、怒りより先に理解が来た。
「これ、話し合いじゃない」
フードの奥の瞳が、冷える。
シュヴァロフが、何も言わずに湯気の立つカップを差し出した。
家庭的すぎる動きだ。戦闘用ドローンの仕草じゃない。
双子――トウィードルダムとトウィードルディーが、工具を整然と並べる。
救助用の器具。固定具。止血パック。
戦う準備というより、現場を“救助現場”へ戻す準備だ。
アリスはカップを受け取って、文面の行間を掘る。
「協議に出席=黙示の承認」
「監査に応じない=公共危険物の隠匿」
「登録外ドローンの一時保全――」
彼女は鼻で笑う。
「押収って言えよ」
「“保全”って言い換えてるだけ」
トミーが肩の上で言う。
「保全って言えば優しいみたいな顔すんな」
「優しいのは言葉だけだ」
義弘は頷く。
「受領と同意は別だ」
「そこを混ぜてくる」
アリスは舌打ちした。
「混ぜるのが仕事なんだろ」
「……官僚って嫌い」
「君も十分官僚だよ」
トミーが言い、シュヴァロフがカップの縁をそっと拭いた。
誰のためか分からない丁寧さで。
アリスは一瞬だけ、毒を吐くのを忘れた。
市警の廊下は、工場みたいに匂いが薄い。
「またあなたですか、津田さん」
振り向くと、真鍋佳澄が立っていた。
サイバー課の警部補。
義弘を“取り締まりたい”顔と、“助けられた”顔が同居している。
「あなたのスーツ、また都市システムに強引な問い合わせを投げましたね。ログが――」
「必要だった」
「必要かどうかを決めるのは、あなたじゃない」
正論だ。
だが今日は、真鍋の声に“遅れ”がない。
義弘は一歩踏み込んだ。
「《グランド・コンコルディア》は行政の皮を被せようとしている」
「俺が“同意”した瞬間、お前は俺を助けられなくなる」
真鍋の目が細くなる。
「……その通りです」
「協議に行くなら、線を引いてください」
「受領はしていい。でも、同意しない」
「その言い方を、必ず“記録”に残す」
義弘は頷く。
「残す」
「責任も残す」
真鍋は小さく息を吐いた。
「……あなたは、炎上が似合う」
「望んでない」
「知ってます」
「だから余計に、似合うんです」
中盤事件は、紙から始まった。
街の一角。
インフラ設備の外縁で、《グランド・コンコルディア》系の“秩序デモ”が始まる。
旗は立派。名前は長い。言葉はきれい。
「公共財たるヒーローの登録を!」
「秩序のための公式化を!」
「我々は中立の名の下に――」
そこへ、文書を携えた男が現れた。
スーツ。名札。笑顔。
だが笑顔が、印刷みたいに均一だ。
「津田義弘様。協議要請の件、受領確認に参りました」
男は丁寧に紙束を差し出す。
紙束は丁寧すぎて、分厚い。
「こちら、受領印を頂戴したく」
「こちらは協議出席確認」
「こちらは――」
三枚目に、署名欄が見えた。
“同意”の文字が、隠れるように印刷されている。
アリスの指が、わずかに動いた。
紙のスキャンが一瞬だけ乱れる。
男の端末が、読み取りエラーを吐く。
男は眉ひとつ動かさず、笑う。
「通信環境が不安定ですね」
「しかし問題ありません。紙は紙のままでも」
義弘は、紙束を受け取った。
受け取る瞬間に、周囲のカメラが一斉に寄る。
コメントが流れる。
「受領=同意だろw」
「逃げるな」
「公共財なんだから働け」
「紙で殴るの草」
「アリス出せ」
「顔!顔!」
「いやこれ普通に怖い」
「真鍋仕事しろ」
「真鍋はログ係」
「ログ係ww」
義弘は、紙束を持ったまま、男の目を見た。
「受領する」
「だが同意しない」
男の笑顔が、ほんの少しだけ固まる。
ほんの少しだけ。
だが十分だった。
「受領と同意は別だ」
「その区別を、いまここで言葉にした」
「記録に残せ」
男は一瞬、迷ったように見えた。
迷いではない。手順の検索だ。
「……承知しました。受領として記録します」
アリスが小さく呟く。
「“承知”って言った」
「こいつ、ほんとに行政ごっこだ」
双子が、人の流れに押されて転びそうになった老人を支える。
救助器具が展開される。
デモの場が、一瞬だけ“現場”に戻る。
シュヴァロフが、倒れた人の背中に毛布をかけた。
どこから出したのか分からない毛布だ。
家庭の匂いがする。
トミーが笑った。
「お前ら、戦闘用なのに母性すごいな」
シュヴァロフは返事をしない。
返事をしないまま、確実に命を拾う。
その様子に、デモの一角から小さな声が漏れた。
「……こういうのが、俺たちもやりたかったんだよ」
誰が言ったか分からない。
善意はいつも、名札を持たない。
だが、すぐに別の声が上書きする。
「だから公式化だ!」
「秩序だ!」
「管理だ!」
善意が、また檻になる。
夜。
義弘は決めた。
「協議に行く」
アリスが睨む。
「罠だよ」
「分かっている」
「じゃあなんで」
義弘は言った。
「拒否すれば“逃げた”になる」
「逃げたら、同意取得の口実を与える」
「だから行く」
「ただし条件を突きつける」
トミーが頷く。
「公開協議、記録、第三者立会、通信確保、保全禁止」
「……うん。条件多いほど効く。あいつら、条件が嫌いだ」
「条件が嫌いなのは、条件が“手順”を乱すからだ」
義弘は静かに言った。
「手順を乱す」
「それが、今の戦い方だ」
アリスは、しばらく黙っていた。
フードの奥で、目だけが動く。
そして彼女は立ち上がった。
「……私も行く」
「危ない」
「危ないから行く」
「私が行かなきゃ、私の“同意”を勝手に作られる」
彼女は部屋の隅に置いてあったサムライ・スーツのケースに手を伸ばした。
彼女は今まで、嫌々着るものだったはずだ。
企業の道具の匂いがするものだったはずだ。
それを、彼女は“自分の意志”で開けた。
「私、インフラじゃない」
「公共財でもない」
「……人間だ」
トミーが小さく笑った。
「そのセリフ、どっかの誰かに刺さるといいな」
「刺さっても、たぶんコメントで煽られるけど」
アリスは、義弘を見た。
「死ぬなよ、ジジイ」
義弘は答えた。
「死なない」
「死なせない」
その頃。
どこかの無機質な部屋で、端末の画面だけが光っている。
《グランド・コンコルディア》中央調停局(出先)
件名:協議運用条件の受領
条件は受領した。
可否は評議する。
なお、同意は取得する。
添付:保全室運用手順(改訂版)
文面は祝わない。
褒めない。
乾杯しない。
ただ工程だけが進む。
協議室の隣で、扉が開閉された。
“保全室”と印字された小さなプレートが、光を返す。
そして、誰かが点検する。
鎮圧装備。
拘束具。
薬剤の残量。
会議は、会議ではない。




