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第303話 子供になりなさい

 アリスは、アライアンスに連行された。


 その事実だけを切り出せば、もっと重苦しく、もっと露骨な拘束を想像する者が多いだろう。

 高い壁。

 硬い扉。

 監視の目。

 命令だけを告げる無人音声。

 そういうものだ。


 だが実際にアリスへ与えられた生活は、思っていたよりずっと静かで、思っていたよりずっと不自由ではなかった。


 施設の外へは出られない。

 そこだけは、明確に線が引かれている。

 だがそれ以外は妙に穏当だった。


 部屋は清潔で、必要なものは揃っている。

 食事も、妙に気を遣ったものが出る。

 端末の使用も完全には禁じられていない。

 読書もできる。

 簡単な運動もできる。

 望めば医療的な点検も受けられる。

 誰かが脅すように見張っているわけでもない。

 ただ、施設の外へ出る線だけが、あまりに自然に、あまりに絶対に閉ざされている。


 それがかえって、アリスには落ち着かなかった。


 監禁なら監禁で、もっと分かりやすく不快でいてくれた方がよかった。

 だがアライアンスはそうしない。

 個人を痛めつけるためではなく、都市危機要因を穏当に隔離している。

 そういう扱い方だった。


 アリスは数日そこで過ごし、その間に何度も考えた。


 療養施設はどうなっているだろう。

 義弘は。

 SABLEは。

 シュヴァロフたちは。

 新開市は。

 それから、自分が戻ればまた列の災害が再燃するのではないかという、最悪な予感。


 考え始めると止まらない。

 止まらないくせに、すぐには動けない。

 それが、アリスにとって一番嫌だった。


 そんなある日、アリスは呼び出された。


 “我々”ではなく、氷の母が個人的に会いたいと言っている、と。


     *


 通された部屋は、いかにも“氷の母”が好みそうな静かな部屋だった。


 華美ではない。

 だが貧しくもない。

 白と薄い灰色を基調とした、冷たいのに冷えきってはいない空間。

 窓は大きいが、外の風景は意図的に遠く切り取られていて、ここがどこかを忘れさせるような作りになっている。


 低いテーブルの上に、湯気の立つ茶器が置かれていた。


 香りはやわらかい。

 きつくない。

 甘すぎもしない。

 神経をほどくためだけに選ばれたみたいな匂いだ。


 氷の母は、もうそこにいた。


 いつも通り整っている。

 冷たい印象の美しさ。

 けれど今日は、その冷たさの表面にほんの少しだけ、人間のぬくもりに似たものがあった。


「いらっしゃい、アリス」


 声が、思っていたよりやわらかい。


 アリスは少しだけ警戒しながら席についた。


「……何」


「お茶会よ」


「そんな柄じゃないだろ、私もあんたも」


 氷の母は、わずかに微笑んだ。

 笑い方まで、崩れない。

 それでも、その微笑みは以前よりずっと“人間”の方へ寄っている。


「そうかもしれないわね。けれど、たまにはよろしいでしょう。今日は“我々”としてではなく、私個人として、あなたとお話がしたかったの」


 アリスは黙った。

 そういう言い方をされると、露骨に突っぱねにくい。

 そこがまた少し腹立たしい。


 氷の母は茶を勧め、アリスが渋々カップに手を伸ばすのを見守ってから、静かに問いかけた。


「アライアンスでの暮らしは、不自由ではなくて?」


 アリスは反射的に“別に”と答えかけた。

 だが、その口先の強がりがこの場では妙に空しく思えて、少し言葉を飲み込んだ。


「……不自由ではない」


 正直に言う。


「そこまで」


「そう」


「でも」


 氷の母は急かさない。

 目を逸らさず、ただ続きを待つ。


 その待ち方が、妙にずるかった。

 黙ってこちらへ話させる大人の待ち方だった。

 アリスは少しだけ視線を落とし、湯気の向こうで言葉を探した。


「療養施設が心配」


 出てしまえば、あとは意外に止まらなかった。


「義弘も。SABLEも。ドローンたちも。……みんな」


 氷の母は頷くだけで、余計な相槌を打たない。

 それがまた喋りやすい。


「でも」


 アリスは続ける。


「今、新開市に私が戻ったら、また列が燃えるかもしれない」


 それを言葉にした瞬間、自分で自分の胸の奥に小さな痛みが走った。

 戻りたいのに、戻ることが危険だと、認めてしまったからだ。


「私がいると、みんな勝手に熱くなる。いや、勝手じゃないのかもしれないけど、とにかく、また集まる。群がる。担ぐ。利用する。利用される。……そうなる」


 氷の母は今までの冷たい印象とは打って変わって、本当に親身にその話を聞いていた。


 途中で遮らない。

 正しさを説かない。

 “だからあなたは危険要因なのです”と制度の言葉へ逃げない。

 ただ一人の少女の心配事として、静かに聞いている。


 その聞き方に押されるみたいに、アリスは思っていた以上に喋ってしまった。


「私、あの街のこと、嫌いじゃない」


 気づけばそんなことまで言っていた。


「嫌いじゃないのに、戻ると危ないかもしれない。戻らないと、待ってるやつらがいる。戻りたい。でも戻ったらまた――」


 そこまで言って、アリスははっとした。


 何をこんなに喋っているのだろう。

 らしくない。

 あまりにも、らしくない。


 アリスは急に恥ずかしくなって、肩をすくめるみたいに身を縮めた。

 カップの縁へ視線を落とし、フードの下へ隠れようとする。


「……忘れて」


 ぼそっと言う。


「そんなに喋るつもりじゃなかった」


 氷の母は、少しだけ身を乗り出した。

 そして、怯えた子どもをなだめるみたいな、静かな声音で言った。


「恥ずかしがることはないのよ、アリス」


 その言い方に、アリスは思わず顔を上げた。


 氷の母は、続ける。


「アリス、新開市のことは忘れて、普通の少女になりなさい」


 はっとした。


 その言葉は、アリスの予想していたどんな説得とも違っていた。


 責任を果たせでもない。

 自重しろでもない。

 戻るなでもない。

 忘れろ。

 普通の少女になれ。


 氷の母はゆっくりと言葉を重ねた。


「新開市は、人類のインフラは、あなたの年齢で背負う荷ではありません」


 アリスは何も言えなかった。


「もっと子供になりなさい、アリス」


 その声はどこまでも優しかった。

 慰めではない。

 哀れみでもない。

 本当に、そうしてよいのだと許す声だった。


「急いで義務と使命を背負った大人になることはありません。義務と使命を背負うべき大人は、何もあなただけではないのですから」


 アリスの胸の奥で、何かがゆっくりほどけかけた。


 それは痛みでもあった。

 今まで無理やり固めていたものが、急にやわらかくなった時の痛みだ。


「だから、あなたは子供になりなさい。あなたの年齢にふさわしい、子供に」


 その言葉を聞いた瞬間、アリスは疲れがどっと押し寄せるのを感じた。


 あまりに長いあいだ、自分は気を張っていたのだと、その時初めて身体が思い出したみたいだった。

 泣きそうになる。

 喉の奥が熱い。

 目の裏がじわりとする。


 だがアリスは、かろうじてそれを堪えた。

 ここで泣いたら、たぶん何かが決定的に崩れてしまう気がしたからだ。


 代わりに、少しだけ掠れた声で言う。


「……待ってる人たちがいる」


 氷の母は黙って聞く。


「私を待ってるやつらが、いる」


 アリスは言葉を選ぶ。

 拙くても、ちゃんと自分の言葉で言いたかった。


「療養施設の子たちも。義弘も。SABLEも。ドローンたちも。……新開市の、たぶん、私を待ってるやつらも」


 そして、自分でも少し驚くほどまっすぐに続けた。


「私は、そいつらが幸せになれるように、力を尽くしたい」


 それは大義でも、綺麗な理屈でもなかった。

 義務だからではない。

 そうしたいと思っている。

 そのことを、ようやく言葉にできた。


 氷の母はその言葉を、途中で挟まずに聞き終えた。

 やがて、ゆっくりと一度だけ頷く。


「新開市に」


 その言い方は静かだった。


「あの燃える街に、戻るの、アリス?」


 その問いに、アリスは思わず逡巡した。


 戻りたい。

 だが戻れば、自分自身と戦い続けることになる。

 新開市の熱とも、外部勢力とも、そして何より、自分が中心になってしまう性質とも。

 それは分かっている。


 氷の母は、その迷いごと受け止めるみたいに続ける。


「あなたと“我々”は、あなたを都市危機要因として考えている。“我々”はインフラ・システムの守護者として、あなたの存在を許容できないし、あなた自身も、自分を抑えなければ新開市にはいられない」


 事実だった。

 冷たいが、事実だ。


「自分自身と戦い続けるのは辛いことよ、アリス」


 氷の母の目は静かだった。

 冷たくはない。

 ただ、とても遠くまで見ている目だ。


「もう忘れてしまいなさい」


 優しい声で言う。


「アライアンスの庇護下であれば、どこにだって行ける。何にだってなれる」


 その言葉は、甘い逃避ではなかった。

 本当に、それだけの力がアライアンスにはあるのだろう。

 どこへでも行ける。

 何にでもなれる。

 新開市に縛られず、“アリス”に縛られず、別の人生を選ぶことができる。


 氷の母は最後に、静かに告げた。


「アリス、もう“アリス”であることを止めにしましょう」


 アリスは黙った。


「何者にでもなっていいのよ、アリス」


 その優しい言葉は、体の芯まで染みた。

 乱暴ではない。

 強制でもない。

 本当に、何者にでもなっていいのだと許す言葉だった。


 アリスはその言葉が、自分の中で確固たる形になるまで黙っていた。


 氷の母は急かさない。

 湯気だけが静かに揺れ、遠くで施設の空調がほとんど聞こえない音を立てている。

 新開市の喧騒とは真逆の、整えられた静けさだった。


 やがて、アリスはゆっくり顔を上げた。


 その顔には、無理をした笑顔ではない、ごく自然な笑みがあった。

 自分で答えを決めた人間の、静かな笑みだった。


「私は」


 少しだけ息を整えてから、言う。


「“アリス”になりたい」


 部屋の空気が、ほんのわずかに変わる。


 氷の母はその答えをすぐには評価しなかった。

 褒めもしない。

 止めもしない。

 ただ、長く、静かにアリスを見た。


 その視線の中にあったのは失望ではなく、むしろ、ようやくそこへ辿り着いたのね、という種類の深い理解に近かった。


 アリスは、自分でそれを選んだ。

 義務だからではない。

 待っている人たちがいるからだけでもない。

 逃げ道があった上で、それでも“アリス”でありたいと、自分の意志で言った。


 氷の母は、ゆっくりとカップを置いた。


「そう」


 それだけを言う。

 だが、その短い一言には、先ほどまでの優しい説得とは違う重さがあった。

 その答えなら、その答えとして扱うという、大人の重さだった。


 窓の向こうには、静かな空がある。

 燃える街の喧騒は届かない。

 けれどアリスの中ではもう、戻る場所がはっきりしていた。


 どれだけ面倒でも。

 どれだけ危なくても。

 どれだけ自分自身と戦うことになっても。


 それでも自分は、“アリス”になりたい。


 その答えだけが、静かな部屋の中で、不思議なくらいまっすぐ立っていた。

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