第299話 声を聞く者
舞原朱音は、生身だった。
武器もない。
防具もない。
サムライ・スーツも、ハルニッシュも、まして戦闘用ドローンの類など持っていない。
ただの、熱を持った新開市民だ。
対するアリスのそばにはシュヴァロフがいる。
黒い怪物。
静かな最強機。
アリスがその気になれば、舞原一人を制圧することなど、本当に簡単だった。
だが舞原には、妙な確信があった。
狂信に近い、信仰心のようなものだ。
アリスは、新開市民の声を聞く。
少なくとも、自分たちの声をまったく無視して、ただ排除するような真似はしない。
そう信じていた。
いや、信じるというより、そこへ賭けていた。
人波の奥、白いフードの下でアリスがこちらを見ている。
片目を前髪で隠した、小柄で細い身体。
黒髪。
赤い瞳。
どこか不機嫌そうで、静かで、しかしこちらをちゃんと見ている目。
舞原は、その目へ向かって呼びかけた。
「アリス」
その声は、先ほどみたいな煽りではなかった。
むしろ、思っていたよりずっと静かだった。
「アリス、新開市の声を聞いてください」
アリスはその言葉を聞いた瞬間、心底うんざりした顔になった。
「だからやりたくないって言ったんだ」
ほとんど独り言みたいな小さな声だった。
だがその一言には、今日ここに立つまでの嫌悪と、嫌な予感と、そして今まさにその予感が当たりつつあることへの苛立ちが全部入っていた。
舞原の呼びかけは、一人の声で終わらなかった。
握手会の列に並んでいた新開市民たちは、もともとアリスへ触れたくて、何か言ってほしくて、話を聞いてほしくて、ここへ来ている。
そこへ「アリスは新開市の声を聞いてくれる」という空気が生まれた瞬間、それまで一応“イベント参加者”の顔をしていた欲望が、むき出しになった。
「アリス!」
「聞いてくれ!」
「ひとことだけ!」
「こっち見て!」
「話があるんだ!」
「戻ってきてくれ!」
「いや、まず俺の話聞けよ!」
人の流れが変わる。
列が列として立っていた形が崩れ、待機していた群衆が一斉に前へ乗り出した。
押すつもりで押しているのか、ただ近づきたいだけなのか、その当人たちにすら分からない。
だが分からないままの熱の方が、整った誘導よりよほど危ない。
警備に立っていたセグメンタタが、すぐに押し返しと遮断へ入ろうとする。
だが遅かった。
工具の束みたいな機械の兵は、秩序を見せるのには向いていても、こういう“飢えた群衆”には弱い。
正しい角度で割り込もうとするほど、人はそこへぶつかっていく。
押し返そうとするたび、その周囲でまた別の波が起きる。
「押すな!」
「ちょ、待て、痛っ!」
「撮れてる、撮れてる!」
「どけ、今アリスが――」
「押すなって言ってんだろ!」
セグメンタタはあっという間にもみくちゃになった。
GLASS VEILも同じだ。
IRISが冷静に位置を取ろうとしても、NOVAが声を張って空気を整えようとしても、MIRAが落ち着かせようとしても、今日はもう“整える”という行為そのものへ群衆の熱が乗ってしまっている。
SABLEがアリスの横へ詰めた。
「まずい」
「見れば分かる」
アリスは短く返す。
だが言葉より先に、目が状況を読んでいた。
止められない。
少なくとも、このままでは止まらない。
セグメンタタも、GLASS VEILも、もう“維持”の側に回れない。
この波の中心が自分に向いたままでは、何をやってもまた次の波を呼ぶ。
そしてアリスは、一瞬で決めた。
「SABLE」
その声に、SABLEが振り向く。
「シュヴァロフについてろ」
「え」
「今すぐ」
シュヴァロフがすでに動いていた。
黒い巨体がすっと角度を変え、SABLEと群衆の間へ半歩滑り込む。
巨大腕を振り回すわけではない。
ただ、その存在だけで押し寄せる人波を一枚剥がす。
上腕がSABLEの肩へかすかに触れ、そこが“保護位置”だと無言で示す。
「アリス!」
SABLEが呼ぶ。
だがアリスはもうそちらを見ない。
いや、見られない。
目の前の群衆が一気に距離を詰めてきたからだ。
次の瞬間、アリス自身は群衆の海へ埋没した。
*
それは本当に、海みたいだった。
押される。
引かれる。
違う方向から手が伸びる。
名前を呼ばれる。
袖を掴まれかける。
近くで見たいだけの者、何か言ってほしい者、ただ存在を確かめたい者、その全部が同時に押し寄せる。
「待て!」
「押すな!」
「順番守れ!」
「聞くから、まず離れろ!」
アリスは叫ぶ。
叫ぶが、通らない。
いや、通っている者もいる。
だが一人へ届くころには、別の十人がまた前へ出る。
足元が不安定になる。
その瞬間、誰かが肩を持ち上げた。
いや、一人ではない。
二人、三人、もっとだ。
アリスの小柄な身体は、押し潰されるのではなく、逆に群衆の上へ浮かび上がった。
「うわ、ちょっ――!」
反射的に声が出る。
次の瞬間にはもう、彼女は神輿みたいに担ぎ上げられていた。
「アリス!」
「アリス!」
「アリス!」
コールが起きる。
何かを祝っているわけではない。
だが、祝祭のような熱だけがそこにある。
飢えた祈りが、そのまま歓声の形を取っているような声だった。
アリスはその上で、本気で嫌そうな顔になった。
だが嫌そうな顔をしていても、群衆は止まらない。
むしろ、担がれた彼女が少しでも自分たちの方を向けば、それだけでまた熱が増す。
「降ろせ!」
「危ないだろ!」
「聞くから、まず落ち着け!」
「押すなって!」
アリスは必死に説得する。
上から見える顔は、近くで見た時よりももっと切実だった。
若い顔。
疲れた顔。
怒っている顔。
泣きそうな顔。
何か言ってほしいと飢えた顔。
それら全部が、自分を見ている。
新開市民はお祭り気質だ。
娯楽に飢えている。
事故も騒ぎも“映え”に変えたがる。
それは本当だ。
でもそれだけではない。
満たされないのだ。
誰かに、自分の話を聞いてほしい。
どうしようもない日常の鬱屈も、外部勢力への苛立ちも、自分が置いていかれている感じも、全部まとめて、いったん誰かに受け止めてほしい。
そして“アリス”は、それを聞いてしまう。
口は悪くても、途中で切り捨てない。
そのことを、街が知ってしまっている。
だから止まらない。
「アリス、聞いてくれ!」
「仕事なくなったんだ、企業群のせいで!」
「うちの商店街、フェスでぐちゃぐちゃにされて!」
「娘がずっとあんたのこと待ってて!」
「オールドユニオンなんてどうでもいいから、新開市にいてくれよ!」
アリスはその一つ一つに、全部は返せない。
返せないのに、聞いてしまう。
それがまた群衆の熱を呼ぶ。
下では、舞原が打ち震えていた。
「やっぱり……」
喉の奥から、ほとんど祈るみたいに声が漏れる。
「やっぱり新開市はアリスを求めてる……」
舞原にとって、これは証明だった。
アリスはただの象徴ではない。
新開市の声に応えられる中心だ。
それがいま、これ以上なく分かりやすい形で現れている。
彼女は感動していた。
危険も、混乱も、その感動の前では一瞬だけ遠のくくらいに。
榊圭吾もまた、別の意味で息を呑んでいた。
一人の人間が、これほど巨大な街を動かしうるのか。
仕込みではない。
誘導だけでもない。
ただ、声を聞くという性質だけで、ここまで群衆の中心になってしまうのか。
レオンの脚本とも、オールドユニオンの握手会とも違う。
これはもっと生々しい。
もっと危うく、もっと美しい。
榊は画面越しにそれを見ながら、皮膚の内側がひりつくような感覚を覚えていた。
*
だが、感動している暇は長く続かなかった。
治安機関とオールドユニオンの増援が、ようやく本格的に駆けつけてきたからだ。
真鍋の治安機関は、現場の外縁から一気に規制線を引き直そうとする。
人波の流れを割り、転倒者を外へ逃がし、巨大化した列を部分ごとに切り分ける。
オールドユニオン側はさらに苛立っていた。
“握手会”という整えられた政治イベントが、目の前で雑多な群衆パレードへ変質している。
それは協調派にとって、かなり悪い意味での予想通りでもあり、予想以上でもあった。
フルーテッドが投入される。
羽根状パネルを持つ優雅な従者ドローンたちが、群衆の頭上へ薄い光を散らしながら入る。
同時にハルニッシュ部隊も前へ出る。
人の形をした秩序の兵。
彼らは列の統制と切断を目的に、正面から配置へ入ってきた。
アリスは担がれたまま、その気配を感じた。
「最悪……!」
今ここで正面から“統制”を強めれば、熱はさらにぶつかる。
そう思った時には、もう遅かった。
煙幕が投じられる。
白い煙が、会場の一角から一気に広がった。
今度は導線屋の過剰噴射ではない。
もっと狙いがある。
増援の視界を切り、列の整理と統制へ入る瞬間を壊すための煙。
「またか!」
「くそ、視界が!」
ハルニッシュが一瞬足を止める。
フルーテッドが上空へ散って輪郭を取り直そうとする。
群衆が悲鳴を上げ、配信者の画面がまた白く染まる。
そして、その煙の中から現れたのは、“ゴースト・ヒーロー”。
WEREWOLF。
そのうちの二人。
ドラウグル。
リン。
舞原も、榊も、その姿を見て息を止めた。
全員が揃っていない。
だが、だからこそ逆に、あの分裂のあとでもまだここへ来るのだという執着が見える。
煙の中から現れた二人は、以前よりも少しだけ輪郭が剥き出しになっていた。
もう綺麗な神話のままではいられない。
それでもなお、煙の中から現れるしかない。
そういう影の匂いがあった。
ドラウグルの目は、真っ直ぐアリスの方を見ている。
リンは煙の中で、群衆と増援とアリスの位置を一瞬で読んでいた。
列はまだ熱い。
アリスはまだ担がれている。
増援は入ったばかり。
そしてゴースト・ヒーローが、またそこへ噛んできた。
新開市の悪い祭りは、まだ終わらない。
むしろ今、ようやく次の本番へ入ろうとしていた。




