第298話 握手会は列へ戻る
アリス握手会の待機室で、アリスは本気で嫌がっていた。
「嫌だ」
椅子に座ったまま、白いフードを深めにかぶり、片目を前髪で隠した小柄な体をやや丸める。
見えている赤い目だけが、今日はいつも以上に露骨に不機嫌だった。
「やりたくない」
短く、しかしはっきり言う。
その声には投げやりさだけでなく、かなり本気の抵抗が混ざっていた。
待機室の空気は、妙に整えられている。
オールドユニオン協調派らしい、過不足のない清潔さ。
必要な椅子、必要な導線、必要な警備、必要な華やかさ。
壁際には簡易の案内板が置かれ、外では列整理の準備が着々と進んでいる気配がする。
その“きちんとしている感じ”自体が、もうアリスには腹立たしかった。
「もっと他に方法があるだろ」
アリスは続ける。
「絶対ある。握手会じゃなくて。もっと別の、まともな……いや、まともじゃなくてもいいけど、とにかくこれじゃないやつ」
理屈は、頭では分かっている。
オールドユニオンが今度はじっくりと正規の手順で来るならば、真正面から突っぱねるより、可能な限りその足を引っ張って、新開市への浸透を遅らせた方がいい。
義弘や真鍋やミコトが、オールドユニオン対策を考え付く時間を稼ぐ。
そのために一番適しているのは、アリス協調派と手を組み、オールドユニオン内部で勢力争いを起こさせることだ。
頭では、本当に理解している。
理解しているからこそ、なおさら嫌だった。
「……分かってる」
アリスはぼそっと言う。
誰に向けてかも曖昧な独り言に近い。
「分かってるけど、嫌なものは嫌だ」
SABLEが、その少し前に立っていた。
今日はステージ上の偶像の顔ではなく、もっと静かな目をしている。
GLASS VEILの白と淡い銀の衣装を着ていても、いまは飾りではなく、アリスの機嫌を壊しすぎないよう気をつけている人間の顔に見えた。
「嫌なのは知ってる」
SABLEが言う。
「知ってるけど、出ないともっと面倒になる」
「うるさい」
「うるさく言う」
「最近、お前ほんと義弘みたいなこと言うな」
「悪い?」
「よくない」
そう言いながらも、アリスはいつものように完全には噛みつかない。
本気で嫌だ。
やりたくない。
それでもSABLEに悪気がないことも、SABLEなりにアリスを守ろうとしていることもわかっているからだ。
そして今日は、よりにもよってSABLEが来ている。
SABLEが来るならと、GLASS VEILまで揃ってやって来た。
そのことがまた、アリスには耐えがたかった。
本物のアイドルたちの中へ、自分が並べられる。
白と淡い銀、透明なヴェール、完成度の高い偶像性。
そこへ、自分みたいな口の悪い引きこもり上がりを並べて何になるのか。
しかも新開市の側は、それを“いいもの”として受け取りかねない。
その全部が、どうにも我慢ならない。
「本物のアイドルの隣に私を置くな」
アリスは本気で嫌そうに言った。
「事故だろ、そんなの」
部屋の隅で待機していたシュヴァロフが、静かに頭部をわずかに傾けた。
いつものように言葉はない。
だが“また始まった”とでも言いたげな、少し困った気配がある。
今日はブージャムが療養施設の守りへ回っていた。
だからアリスのそばにいるのはシュヴァロフだ。
黒い怪物じみた輪郭のはずなのに、今は保護者みたいに立っている。
アリスが椅子の背へさらに身体を預けると、シュヴァロフは肩位置の上腕をそっと動かして、フードの端が変に引っかからないよう直した。
その丁寧さが余計に腹立たしい。
「お前もそっち側か」
アリスが睨むと、シュヴァロフは今度は少しだけ距離を詰めた。
逃がさないつもりらしい。
SABLEが小さく息を吐く。
「お願いだから、出る前にそれ以上拗ねないで」
「拗ねてない」
「拗ねてる」
「本気で嫌がってるだけ」
「それを拗ねてるって言うこともある」
アリスは顔をしかめた。
SABLEの言い方は静かなのに、妙に逃げ道がない。
義弘ほど年長者の圧はない。
真鍋ほど実務的でもない。
でも、アリスの嫌がり方をちゃんと見た上で、それでも必要だからと言う。
そこがまた面倒だった。
「アリス」
SABLEが少しだけ近づく。
「いやいやでもいい」
「よくない」
「よくなくてもいい。今日は出る」
その言葉は説教ではなかった。
たぶん一緒に立つと決めた人間の言い方だ。
だからアリスはしばらく黙り、それから心底いやそうな顔のまま立ち上がった。
「……最悪」
そう呟く。
だが立った、というだけで、SABLEは少しだけ安心した顔になる。
シュヴァロフもまた、露骨ではないが“やっとか”みたいな位置へ身体を置き直した。
アリスはその二人を見て、また少しだけ不満げに唇を尖らせた。
「ほんとにいやいやだからな」
「知ってる」
SABLEが答える。
「それでも出る」
「お前ら、私を雑に扱いすぎだろ」
「アリスは雑に扱わないと、するっといなくなる」
SABLEのその言葉に、アリスは返せなかった。
図星だったからだ。
図星だからこそ、また少しむっとする。
*
握手会の情報は、とっくに新開市じゅうへ知れ渡っていた。
知れ渡った以上、まともなイベントで済むはずがない。
アリス。
握手会。
GLASS VEIL。
オールドユニオン協調派。
この四つが並んだ時点で、新開市の魑魅魍魎が寄ってこないわけがないのだ。
だから会場周辺は、開始前からもう列というよりうねりだった。
アリスに触れたい。
アリスに何か言ってほしい。
アリスに話を聞いてほしい。
ただ近くで見たい。
GLASS VEILもついでに見たい。
SABLEを一目見たい。
オールドユニオンに文句がある。
新開市へ戻ってきてほしい。
オールドユニオンに連れていかれたみたいで気に食わない。
そういう感情が、きれいに整列するはずもなく押し寄せてくる。
観光客。
野次馬。
アリスに情を持っている者。
アリスを勝手に救世主化している者。
話題に乗りたいだけの者。
配信者。
導線屋。
元アリス・スクワッドの残党。
そして“何か起きるならその瞬間にいたい”と思っている、新開市特有の住人たち。
アリスが会場へ出た瞬間、その熱はさらに跳ねた。
「来た!」
「アリス!」
「ほんもの!?」
「ちっちゃ……」
「いや今それ言うな!」
「SABLEもいる!」
「GLASS VEILやば」
「近っ、近っ、近い!」
うるさい。
本当にうるさい。
アリスは一歩出た瞬間、内心で本気の舌打ちをした。
だがここで引き返すわけにはいかない。
やると決めた以上、少なくとも途中で逃げると余計に面倒になる。
そういう計算だけは、もうしてしまう。
握手会の導線は一応整えられていた。
アリス協調派のセグメンタタが周辺を固め、GLASS VEILが視線と空気を散らし、オールドユニオン側のスタッフが必死に列を維持しようとしている。
だが新開市では、“維持しようとしている列”を見ると、そこへ勝手な物語を乗せたくなる者が必ず出る。
*
榊圭吾は、その列を少し離れた位置から見ていた。
馴染みの導線屋たち。
配信者たち。
そのどれとも近すぎず遠すぎない場所。
今日は“映え”を作る気はない。
作るのではなく、起きるものを撮る。
そのつもりで来ていた。
握手会の列は、すでにかなり面白かった。
いや、面白いという言い方は雑かもしれない。
だが少なくとも、これはただの政治イベントでは終わらない。
オールドユニオン協調派が整えた導線に、新開市民の欲望がまとわりつき、列の目的そのものを少しずつ変え始めている。
“握手会”のはずなのに、そこにいる者たちの半分以上は、握手だけを求めていない。
言質。
肯定。
帰還。
所属の再確認。
触れることで自分のものだと確かめたい歪んだ欲望。
そういうものが、列の体温を上げていた。
榊は、これは撮る価値があると感じていた。
レオンの仕込みのような、最初から設計された“映え”ではない。
もっと生っぽい。
もっと勝手で、もっと危うい。
新開市が、自分でアリスへ何を求めているかが、そのまま列になりかけている。
そこへ舞原朱音が来る。
舞原は、一人ではなかった。
彼女に同調した“アリス・スクワッド”の残党が何人かいる。
完全な武装勢力ではない。
だが熱だけはある。
そしてその熱は、他の群衆と混ざると妙に強く見える種類のものだった。
舞原は列の奥を見た。
その先にいるアリスを。
“アリスを取り戻す”。
その感覚は、舞原の中では単なる比喩ではない。
彼女にとってアリスは、オールドユニオンの所属物でも、協調派の政治イベントの目玉でもない。
新開市が生んだ、あるいは少なくとも新開市が育ててしまった中心だ。
なら、あそこへ戻るべきだ。
雑多な人間たちの中へ。
整えられた握手会ではなく、街そのものの列の中へ。
だが人波が厚い。
簡単には前へ進めない。
舞原は一度息を吸った。
そして叫ぶ。
「アリスは新開市のもの!」
その声は、人混みの上をうまく滑った。
政治的なスローガンであると同時に、もっと私的で感情的な呼びかけでもある。
「オールドユニオンのものじゃない!」
近くにいた同調者たちがすぐに続いた。
「アリス!」
「新開市に戻ってきてくれ!」
「こっち来てくれ!」
その叫びに、周辺の空気が一段だけざわつく。
握手を待っていた者たちの中にも、それに反応する顔がある。
ただのヤジではない。
少なくとも、この街ではかなり刺さる種類の言葉だった。
*
アリス協調派のセグメンタタは、その声にすぐ防御態勢を取った。
それ自体はある意味で当然だ。
“アリスを取り戻せ”の気配は、警備側からすれば即座に危険へ分類される。
だが問題なのは、その反応があまりにも早すぎたことだった。
工具じみた輪郭の無人機たちが、アリスと群衆の間へ硬く割り込む。
視線を遮り、接近を制限し、防衛線を狭める。
それは警備としては正しい。
だが新開市では、正しすぎる反応ほど群衆を余計に熱くさせる。
「やめろ!」
アリスが即座に言った。
「その対応はまずい!」
だがセグメンタタは組織の兵だ。
即応はする。
だが人間の気配のようなものは薄い。
“今それをやると余計に列が膨らむ”という新開市の悪い癖までは、身体では理解していない。
榊は、その瞬間をちゃんと撮った。
舞原の叫び。
セグメンタタの防御反応。
その結果として、アリスが自分からそれを止めようとする姿。
配信者たちもすぐ反応する。
導線屋たちも、この熱の乗り方がただ事ではないと気づく。
榊の流した映像は、ほとんど即時で新開市の別の場所にいる人間たちの端末へ飛び始めた。
コメントが増える。
「また囲い込まれてる」
「アリス戻ってこい」
「新開市のものだろ」
「帰還イベント始まった?」
「セグメンタタやりすぎ」
「アリス困ってるじゃん」
“アリスの帰還”を切望する声が、じわじわと現場を後押しし始める。
舞原はそれを感じ取っていた。
これはまだ完全な流れではない。
だが、いける。
少なくとも巨大な列を作る気配までは持っていける。
「ほら!」
舞原はさらに周辺の群衆へ向かって言う。
「見ろよ! アリスはあんなふうに囲われる側じゃない!」
「新開市に戻ってきてほしいって思ってるの、あたしたちだけじゃないだろ!」
同調者たちも声を重ねる。
強い扇動ではない。
だが“みんなもそう思ってるだろ”という言い方は、群衆を巻き込むには十分だった。
*
アリスは、その流れを見てすぐに危険を理解した。
以前、自分を中心に巨大な列が作られたことがある。
あの時の肌触りを、彼女は忘れていない。
人々が一つの方向へ勝手に気持ちを揃え始める時の、あの嫌な、熱っぽい手触り。
導線が意思を持ったみたいに膨らみ、気づけば誰も止められなくなる感覚。
いま起きかけているのは、それに近い。
「流すぞ」
アリスが低く言う。
GLASS VEILのメンバーが即座に反応した。
IRISが最短の移動線を確保し、
NOVAが群衆の視線を別方向へ一度散らそうとし、
MIRAが声を使って落ち着かせる。
SABLEはアリスのすぐそばに残る。
セグメンタタも、アリスの指示でようやく“押し返す”のではなく“流す”方へ切り替え始めた。
そこへシュヴァロフが入る。
黒い怪物は戦うためだけにいるわけではない。
人を傷つけず、しかし確実に流れを変える。
肩位置の上腕と脚の置き方、身体の角度、わずかな威圧。
ただ立ち塞がるのではなく、群衆が“自然にずれる”角度を作る。
アリスが都市の中で培ってきた、列を切り、列を流し、列を大きくしないための技術がそこにある。
アリス自身も声を使う。
「押すな」
「立ち止まるな」
「話したいなら順番守れ」
「いま近づいても意味ない」
口調は悪い。
だが切り捨てない。
その雑さと真面目さの混ざった言い方が、逆に新開市の連中には効いてしまうこともある。
だが今回は、それでも危うかった。
熱がすでに別のものになり始めている。
握手会の熱ではない。
“アリスを取り戻す列”の熱だ。
*
その流しの最中、防御が薄くなった一瞬があった。
アリスは前方の圧を逃がすことに集中し、
セグメンタタは拙速な包囲から流動的な規制へ形を変え、
GLASS VEILもそれぞれの位置で群衆へ気を配る。
その結果として、局所的に“ただの人混み”に見える隙間が生まれる。
舞原と榊は、そこへ入った。
舞原は同調者たちとともに。
榊は、導線屋と配信者の流れへ自然に溶け込みながら。
群衆のふりをする。
いや、半分は本当に群衆だ。
ただし目だけが違う。
中心へ近づくための目だ。
アリスが何かに気づいて顔を上げた時には、もう遅かった。
舞原たちは彼女を取り囲む位置まで来ていた。
シュヴァロフが即座に半歩前へ出る。
黒い巨体がぴたりと止まり、アリスの正面へ入る角度を作る。
SABLEも反応して位置を変える。
だが舞原は、それでも止まらなかった。
彼女の顔には恐怖もある。
あるが、それ以上に熱があった。
「さあ、アリス」
舞原が言う。
その声は叫びではない。
むしろ妙に静かで、だからこそ不気味だった。
「パレードの続きをしましょう」
その一言は、握手会という整えられた政治イベントの皮を、一気にひっぺがすような力を持っていた。
アリスはその言葉を聞いて、背筋の奥が冷えるのを感じた。
舞原は本気だ。
冗談でも挑発でもない。
彼女は本当に、ここで“続きを”始めるつもりでいる。
新開市がまた、自分を中心に列を作ろうとしている。
握手会の形をした協調イベントの中で。
オールドユニオンの目の前で。
GLASS VEILが並ぶこの場所で。
最悪だった。
そして最悪だからこそ、この街では十分ありうると、アリスはもう知ってしまっていた。




