第295話 退却線の接収者
オールドユニオンの攻勢は、OCM海外部門にとって、想定の範囲内に収まる種類の圧力ではなかった。
ただ現地で一つ二つの拠点が潰されるとか、協力者が何人かしょっぴかれるとか、そういう現場の損耗ではない。
もっと嫌な種類の圧だった。
表の顔。
外交の線。
物流と支援線。
外から見れば合法の顔をしているオールドユニオンが、本来なら地下の現地工作員たちが一番嫌がる場所から、じわじわと絞めに来る。
それは、いかにもアザドのやりそうなやり方だった。
新開市から遠く離れた一室で、OCM海外部門の臨時会合は、珍しく険悪な空気を露骨に表へ出していた。
「虎の尾を踏んだ」
最初にそう言った男の声は、怒りというより、すでに後悔の方へ寄っていた。
「オールドユニオンは現地の見栄や面子だけで動く組織じゃない。あそこを本気で怒らせれば、現地の小競り合いじゃ済まないと最初からわかっていたはずだ」
「アリス・スクワッドの時みたいに、もっと静かにやるべきだったんだ」
別の声が続く。
「あれは雑多で、足もとの悪い集団だった。だからこそ使いようもあった。だが今は違う。派手にやりすぎた。レオンは火のつけ方が露骨すぎる」
「派手、というより浅い」
女の声が冷たく言った。
「新開市を甘く見たんだ。あの街は、火をつけるだけなら簡単だ。だが燃え方を最後まで制御できると思った時点で負ける」
誰もレオンの名前を最初から大声で責めたりはしなかった。
だが、言葉が重なるたびに、責任の輪郭は自然と一人へ寄っていく。
レオン・ヴァルケン。
大胆で、常識外れで、そして結果を出すことも多い危険人物。
その危険さを、組織は半分くらい“使えるから”で許してきた。
だが今、そのつけが来ている。
「現地エージェントに退却命令を出すべきだ」
ようやく、その言葉が机の上へ明確に置かれた。
「これ以上、新開市の現地線へ人員と資源を残す意味は薄い。とくにレオンを中心に据えた運用はリスクの方が大きい」
「レオン本人を回収できるのか?」
「命令は出す。従うかどうかは別として」
その言い方には、すでに諦めが混じっていた。
レオンは、命令に従うこと自体を、いつも“ひとつの選択肢”くらいにしか思っていない。
組織の理屈は利用するものだと考えている節がある。
だから今ここで退却命令を出したところで、彼が素直に撤収する可能性は高くない。
だがそれでも、組織として線は引かなければならない。
結論は早かった。
現地のOCM海外部門エージェントに退却命令。
レオンを含む。
新開市での工作線は、可能な範囲で畳む。
残置できない資産は破棄または封鎖。
現地協力者の線も整理に入る。
その決定が伝達された時、レオンは笑った。
*
「なるほどね」
レオン・ヴァルケンは、回線の向こうの冷たい通知を最後まで聞いたあと、椅子へ深く座ったまま、妙に機嫌よく笑った。
「切られたか」
口調に恨みはない。
驚きも薄い。
むしろ、予想していた答えが出た時の軽い納得に近かった。
拠点の中にはまだ、OCM海外部門の名残がそこかしこに残っている。
仮設端末、武装ラック、搬送ケース、封鎖前提で雑に束ねられたファイル群、そして現地運用に使われていたドローンの格納区画。
退却命令が本気で出た以上、組織としてはこれらをきれいに畳みたいのだろう。
だが新開市はいつだって、畳みきるには広すぎて、時間が足りない。
「で?」
ドラウグルが低く言った。
WEREWOLFの四人と、残っている“ゴースト・ヒーロー”たちは、すでに同じ拠点の空気を吸っていた。
彼らはレオンが何かを隠している時の顔を、もう少しずつ覚え始めている。
今の笑い方は、嫌な時のものだ。
「退くのか」
リンの声は冷たかった。
企業群に一度捨てられ、今また別の外部勢力の都合で振り回されている自覚があるぶん、その問いには刺がある。
レオンは肩をすくめた。
「まさか」
あまりにもあっさり言うので、逆に一瞬、空気が止まった。
「退却命令ってのは、たいてい空白を作るための命令でもある」
彼は立ち上がり、広い格納区画の方へ歩いていく。
扉は半ば開いたままだった。
封鎖処理の前に、まだ動かせるものと動かせないものを選別していた痕跡がある。
だがそれは、“捨てていくもの”の目録でもあった。
「連中は去る。線を切る。資産を畳む。つまり逆に言えば、ここにあるものは一時的に“誰のものでもなくなる”」
レオンはそこで振り返った。
「だったら接収すればいい」
その言葉に、ドラウグルが眉を寄せる。
リンは露骨に嫌そうな顔をした。
榊圭吾は口元を歪め、舞原朱音は一拍遅れてその意味を正確に掴んだ。
「接収?」
榊が確認する。
「そう」
レオンはにやりと笑った。
「退却命令を逆手に取るんだよ。“ゴースト・ヒーロー”が、新開市に残されたOCM海外部門の拠点を接収する。いい響きじゃないか。外から見れば、支援を捨てて現地独立した影の勢力って見える」
その言い方が、あまりにも滑らかだった。
まるで、最初からそうするつもりだったみたいに。
実際、たぶんそうだったのだろう。
レオンは負け筋すら舞台へ変える男だ。
見捨てられることも、彼にとっては“新しい物語の開始条件”でしかない。
*
格納区画の奥には、まだ使える戦力が残っていた。
VX-07 HOUND。
都市内追跡と制圧に向いた、あの嫌な犬じみた機体。
複数機。
整備の状態はまちまちだが、それでも現場へ出せる。
VX-19 SKYLANCE。
完全な形ではない。
部品の欠落もあり、過去の戦闘で負った損傷もまだ生々しい。
だがレオンにとっては、それで十分だ。
完全でない怪獣ほど、脚本には使いやすい。
そして、LC-08 スコルピウス。
アーバレスト再来を思わせておいて、実際に現れれば別種の恐怖へ塗り替える“格闘で殺しきるための札”。
余計な装備を削った、殴るためだけのシルエット。
関節と体幹と打撃部が目立ち、近くで見ると道具より“格闘用の獣”に見える圧。
対サムライ・スーツ格闘戦を意識した、可動を確実に奪う近接の怪物。
それを見た瞬間、ドラウグルの目が少しだけ細くなった。
「……ずいぶん隠してたな」
「隠してたんじゃない。出番がなかっただけだ」
レオンは軽く言う。
「札は切る場所が大事だろ?」
リンはその横で、別の意味で気分が悪かった。
OCM海外部門は去る。
だが去る前に、こんなものを置いていく。
あるいは、レオンがそう見せているだけかもしれない。
どちらにせよ、“使われるもの”として並べられている感覚がどうにも腹立たしい。
レオンはそんな内心を気にも留めない。
「これだけのドローンをオールドユニオンにぶつけたら、連中は間違いなく沸騰する」
HOUNDのフレームを軽く叩き、SKYLANCEの残骸へ視線を流し、最後にスコルピウスの沈黙した巨体を見上げて言う。
「オールドユニオンは面子と規範の組織だ。やられたら、やり返す。しかも“正しく”過剰にやり返そうとする。そういう時こそ――」
レオンはそこで、芝居がかった間を置いた。
「“ゴースト・ヒーロー”の出番だ」
その言葉に、残っていた他の“ゴースト・ヒーロー”たちはざわめいた。
支援線が切られた。
兵站も、補給も、外のコネクションも、全部が細くなる。
その不安は現実だ。
なのにレオンは、まるで問題ではないみたいな顔で、新しい戦力を指し示している。
「出番、で済ませるな」
ドラウグルが低く言った。
「OCMの線が切られたんだぞ。弾も整備もどうする」
「その程度で怯えるなよ」
レオンは笑う。
「言っただろ。オールドユニオンに煮え湯を飲ませたいのは、OCM海外部門だけじゃない」
その一言に、リンの空気が変わった。
「……誰だ」
声が一段低い。
レオンはあっさり答えた。
「企業群」
その場の空気が、今度ははっきり冷えた。
「実は秘密裏に、向こうの一部とも話をつけていた。オールドユニオンにやられて面子が潰れてるのは、別にうちだけじゃないからな。手を貸す理由は十分ある」
リンは本気で顔を歪めた。
企業群。
そこは、自分をここまで追いやった原因の一つでもある。
企業ヒーローの顔として使われ、切られ、主役候補から落とされ、結果として今、自分はWEREWOLFの一員として煙の中に立っている。
その企業群が、また裏から手を貸している。
しかもレオンはそれを、都合のいい現実として平然と差し出す。
「ふざけるな」
リンの声には、もう隠しきれない怒りが混ざっていた。
「最初はOCM、今度は企業群? どこまで外の都合で引っ張り回すつもりだ」
「利用できる線は使う。それだけだ」
レオンは平然としている。
「君らだって新開市で定着したいんだろ? だったら、いま手放す理由はない」
榊圭吾は、そこで静かに口を挟んだ。
「“映え”が全部仕込みだらけになる」
彼の声は大きくなかった。
だが、その嫌悪ははっきりしている。
「危機も、敵も、舞台も、支援線も、全部外の手で整えられたものなら、それはもう俺が欲しかった“映え”じゃない」
レオンは一瞬だけ榊を見て、それから笑った。
「潔癖だな」
「美意識だ」
榊は即座に返した。
舞原朱音も、珍しく早めに言葉を差し込んだ。
「自治を掲げるなら、外部勢力に依存しすぎです」
その声は静かだが、芯がある。
「新開市のための影であるはずなのに、実際にはOCMと企業群の残り火で立っている。それは筋が悪い」
ドラウグルはそこへ重ねるように言った。
「武力にも筋がある。相手も、理由も、汚れ方にもな。何でも噛めばいいわけじゃない」
四人の言葉は別方向を向いていた。
だがレオンに対する嫌悪という一点では一致している。
彼らはもう、レオンを“利用できる支援者”とは見ていなかった。
便利な外部勢力でもない。
いずれ切るべき危険人物。
ただ今は、まだ使いどころがある。
それだけだ。
レオンは、そんな視線すら楽しんでいるようだった。
「いいじゃないか」
彼は軽く手を広げる。
「嫌いでも、使えるうちは使う。君らだってそうだろ? それに――」
そこで、わざと少しだけ声を低くする。
「“ゴースト・ヒーロー”が新開市で定着するまで、あと一息だ」
その一言が、ひどく効いた。
あと一息。
もう少しで、“煙の中の何か”ではなく、新開市の側が勝手に受け入れる新しいヒーロー像になれる。
そこまで来ている。
そこまで来てしまっている。
だからこそ、切れない。
リンは奥歯を噛んだ。
榊は目を伏せる。
舞原は不快そうに息を吐き、ドラウグルは露骨に機嫌を悪くしたまま、それ以上の反論を飲み込んだ。
矛は、収まった。
収まっただけで、納得したわけではない。
WEREWOLFの四人の内側は、もうかなり裂けている。
その裂け目は、いまはまだ表へ出ない。
だが次に何かがあれば、もう綺麗には戻らない。
その予感だけは、全員が共有していた。
*
その夜、レオンは一人で別の回線を開いた。
OCM時代に使っていた、まだ完全には死んでいない古い連絡線。
切られたはずの命脈の、最後の細い血管みたいなものだ。
そこへ、レオンは驚くほど迷いなく指を滑らせた。
相手はアリスだった。
最初に受けたのは、短い沈黙だった。
アリスは回線を切らなかった。
切らないが、歓迎もしない。
その沈黙だけで、彼女がいまどれくらい苛立っているか、レオンには十分わかった。
「やあ」
レオンは軽く言う。
「今さら挨拶もないだろ」
返ってきたアリスの声は、冷たかった。
黒髪の下、片目を隠す前髪の向こうで赤い目が細くなっているのが、見えなくても想像できる声だった。
「お前、何がしたい」
「簡単だよ」
レオンは笑った。
「次の舞台を作りたい」
「殺すぞ」
「ほら、そういうところがいい」
レオンはまるで本気で褒めるみたいに言う。
その調子が、余計に人を苛立たせる。
「君がまたオールドユニオンのパレードをやるつもりなら――」
そこでレオンは、言葉をわざと区切った。
「今度は本当に大型ドローンをパレードに突入させる」
短い沈黙。
その後のアリスの呼吸だけが、ほんの少し変わる。
「阻止したければ」
レオンは続ける。
「アリスのドローンを持ってきたまえ」
アリスはすぐには答えなかった。
だが、その沈黙の質が変わったのを、レオンは感じた。
彼女は怒っている。
それは当然だ。
だが怒りだけではない。
いまの言葉の奥にある本当の狙いを、もう読んでいる。
「……それが狙いか」
アリスが低く言う。
レオンは笑う。
読まれること自体は嫌ではない。
むしろ、アリスにはそこまで届いていてほしい。
「そうとも」
「最初からそれだろ」
「もちろん。オールドユニオンのアリスと、“ゴースト・ヒーロー”。新開市にとって、これ以上わかりやすい新旧の神話対決があるか?」
その言い方に、アリスは本気で嫌そうな息を吐いた。
レオンが欲しいのは大型ドローンの突入そのものではない。
それはあくまで餌だ。
本当に欲しいのは、自分を表へ引っ張り出すこと。
オールドユニオンの象徴としてのアリス。
それに対抗する、新開市が受け入れ始めた影のヒーローたち。
古い守護と新しい守護。
その対決の絵。
「ふざけるな」
アリスは言った。
「そういう舞台に乗る気はない」
「でも乗らざるを得ないかもしれない」
レオンの声は軽い。
「君はそういう子だろう? 目の前に本当に危険が来ると、たとえそれが舞台装置だと分かっていても、止めに来る」
図星だった。
それがまた腹立たしい。
アリスは、しばらく黙った。
黙って、相手の呼吸と自分の怒りを少しだけ切り分けようとする。
レオンはその沈黙の向こうで、もう半分勝ったみたいに笑っているのだろう。
それも気に食わない。
「お前」
アリスがようやく言う。
「本当に、最低だな」
「光栄だ」
「褒めてない」
「知ってる」
レオンは愉快そうに笑った。
「じゃあ、考えておいてくれ。君が来るか来ないかで、次の神話の形はかなり変わる」
そのまま回線が切れる。
アリスは端末を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。
レオンの狙いはわかる。
腹立たしいくらいにわかる。
そして、わかるからこそ最悪だった。
“ゴースト・ヒーロー”はまだ完成していない。
だが新開市は、すでに彼らを見始めている。
そこへ自分が出れば、古い神話と新しい神話の決闘として消費される。
出なければ、今度こそ本当に大型ドローンが群衆へ入るかもしれない。
クソだ、とアリスは思った。
クソみたいな二択だ。
そしてその二択を、あの男は笑いながら押しつけてきた。
部屋の隅で、シュヴァロフが静かに気配を動かした。
主人の不機嫌と、どこか別の危険が近づいている匂いを、もう感じ取っているのかもしれない。
アリスはゆっくりと端末を伏せた。
新開市のどこかではいま、レオンがまだ笑っている。
“ゴースト・ヒーロー”たちは、あと一息のところで自分たちの中身を裂かれ始めている。
そしてオールドユニオンのアリスと、新しい影のヒーローたちをぶつける舞台だけが、着々と整えられていく。
その未来を思うと、アリスは心底うんざりした。
だがうんざりしても、たぶん終わらない。
終わらないなら、また次の面倒な手を考えるしかない。
新開市は、今日も誰かの神話を欲しがっている。
そしてその神話の材料にされるのが、自分であることもまた、たぶん避けきれないのだろう。




