第286話 ゴースト、話す
義弘が嫌な予感を覚える時、それはたいてい、理屈より少し早く身体の方へ来る。
数字や報告書や正式な連絡が揃う前に、街の空気の変化が先に刺さるのだ。
どこかで線がつながってしまった時の、あのわずかな重さ。
新開市では、そういう予感が外れることはあまりない。
真鍋とSABLE、それにトミーを交えた臨時の打ち合わせは、義弘の会社の一室で行われていた。窓の外にはいつもの新開市の灯りがあり、遠目には何事もないみたいに整って見える。だが画面の中には、もう何事もないとは言えない断片が溜まり始めていた。
真鍋が端末の画面を切り替える。
「アリス・スクワッド関連の暴露対象が拡大しています」
声はいつも通り硬い。
感情を混ぜない言い方だが、だからこそ内容の悪さが際立つ。
「企業群とオールドユニオンの不正暴露に留まっていた段階は、もう過ぎました。いまは現場職員の個人線、過去の懲戒情報、支援者の名寄せ、非公式搬送の経路にまで手を伸ばしている。これ以上進めば、企業に勤めているだけの新開市民や、関係の薄い支援網まで焼き始めます」
義弘は黙って聞いていた。
聞きながら、その言葉の最後に何が続くかも半分わかっている。
真鍋は視線を落とし、続けた。
「療養施設に繋がる可能性もあります」
SABLEがわずかに息を止めた。
その隣でシュヴァロフが、影みたいに気配を変える。
光を吸う黒い機体は今日は部屋の隅でじっとしていたが、その一言に反応したのは明らかだった。頭部がほんのわずかに動き、気配だけが前へ出る。
トミーは長い耳をぴくりと揺らし、落ち着かない様子で椅子の上でもぞもぞしている。
ウサギの彼はこういう話になると、軽口を叩く前に先に空気の悪さを吸ってしまう。
「やっぱり、そこか……」
義弘は短く頷いた。
「いまの流れを放置すれば、そこへ行く」
彼は画面に映る断片を見た。
アリス・スクワッドの暴露は、もう“悪い組織を叩く”だけのものではない。
支援線を掘り、個人を剥ぎ、弱い線を露出させる方向へ、熱そのものが流れ始めている。
こうなると、善意や正義感の有無はほとんど関係ない。
燃えやすいものへ火が移る。
それだけだ。
「アライアンスも動くかもしれません」
真鍋が言った。
「正式通知ではありませんが、これ以上の拡大はインフラ危機として扱うべきだ、という見方が強い」
義弘の表情がわずかに硬くなる。
それは当然だった。
アリス・スクワッドの暴露が、企業市民や支援線や施設搬送へ届くようになれば、もうこれは一部の過激な市民運動ではない。都市機能そのものを不安定化させる火だ。
アライアンスがそこを“危険な拡大”と見るのは自然だし、その自然さがかえって嫌だった。
新開市を守るための線引きが、外からのより大きな管理や介入の口実へ繋がりかねない。
アリスが一番嫌いそうな構図だ、と義弘は思った。
「支援線を断ちたい」
義弘は低く言った。
「アリス・スクワッドそのものを一気に潰すんじゃない。いまの一枚岩みたいな熱を壊す。細かい勢力へ分裂させる。そうすれば少なくとも、燎原の火みたいな広がり方は止まる」
真鍋が頷く。
「一番確実なのは、誰が支援しているかを特定して晒すことです」
「そうだ」
「ただ、レオンの証拠隠滅は周到です。施設もきれいに切られていた。現時点では、直接OCM海外部門へ繋げる決定打が足りません」
義弘は腕を組んだ。
そこが一番きつい。
支援線さえ見えれば、群衆の“自発的な正義”という神話をかなり崩せる。
だがレオンはそこを徹底して隠している。
力を与える。
舞台を与える。
餌を与える。
そのくせ、手の痕跡だけは薄くする。
本当に嫌な仕事をする男だった。
「証拠が足りない……」
SABLEが小さく繰り返した。
義弘は彼女を見た。
最近のSABLEは、考え込む時ほど表情が薄くなる。
無表情なのではなく、顔へ出すより先に内側で組み立てようとするからだ、と義弘はだんだんわかってきていた。
SABLEはしばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
「だったら」
その言い方で、義弘はあまり良くない予感を覚えた。
「私が入る」
「何に」
「アリス・スクワッドに」
部屋の空気が、一瞬だけ止まった。
真鍋は眉ひとつ動かさなかったが、視線だけが鋭くなる。
トミーは「は?」と言いかけて飲み込み、耳だけが大きく跳ねた。
シュヴァロフは、反応としては一番わかりやすかった。影のように静かだった黒い機体が、音もなくSABLEの少し前へ位置を変える。明らかに“その話は嫌だ”という気配だった。
義弘は即答した。
「却下だ」
迷いなく、間を置かずに。
「危険すぎる」
「でも」
「却下だ」
SABLEは引かなかった。
むしろ義弘の反応が速すぎたことで、逆に自分の中の線が固まったみたいだった。
「中にいる人たち、全部が悪いわけじゃない」
「わかってる」
「本気で正しいと思ってる人もいる。今の過激なやり方じゃなくて、もっとちゃんとした手続きで、正式に真実を追うべきだって、一人ずつ話せば――」
「話せば通る段階を、もう過ぎてる」
義弘の声は強くはない。
だが、はっきりしていた。
「今のアリス・スクワッドは、善意の寄せ集めだけじゃない。煽りがある。武装がある。動きを作ってるやつがいる。お前が入ったら、説得以前に利用される」
「でも、アリスなら」
そこで初めて、SABLEの声に少し熱が混じった。
「アリスならそうする」
義弘は、一瞬だけ言葉を切った。
その言い方が腹立たしかったわけではない。
むしろ逆だった。
SABLEがそれを本気で言っていることがわかったから、返す言葉の方が詰まった。
たしかにアリスは、そうするかもしれない。
危険でも、筋が通るなら、相手の中へ自分で入ろうとするかもしれない。
でもだからこそ、義弘は止めたい。
「SABLE」
少しだけ声を落とす。
「お前がアリスの真似をしていい場面と、駄目な場面がある」
「真似じゃない」
「同じだ」
「違う」
押し問答になりかける。
真鍋が止めるかと思ったが、彼女は口を挟まなかった。
トミーも珍しく黙っている。
このやり取りに軽口を入れる余地がないと、ちゃんとわかっているらしい。
SABLEはまっすぐ義弘を見ていた。
その目は無表情に近いのに、こういう時だけ妙に頑固だ。
「アリスは、誰かがちゃんと聞けば止まる人たちまで、まとめて敵にしないと思う」
「今のあの集団は、もう“人たち”だけじゃない」
「でも中に人がいる」
義弘は息を吐いた。
そこがこの子の危うさであり、良さでもある。
群衆の中に、まだ一人一人を見てしまう。
それはたぶん、アリスにはもう少し苦手な感覚だ。
「危険すぎる」
義弘はもう一度言った。
前より低く、前よりはっきり。
「俺は行かせない」
SABLEが何か返しかけた、その時だった。
義弘の端末が震えた。
正式な着信ではない。
速報系のニュース通知と、内部連絡が重なった時の、嫌な揺れ方だ。
胸の奥に、あの予感が来る。
理屈より少し早く刺さるやつだ。
義弘は無言で端末を取った。
画面を開いた瞬間、顔色が少し変わる。
「……どうした、ジジイ」
トミーが小さく訊く。
義弘は答えず、そのままニュース映像を壁面へ投げた。
映し出されたのは、新開市の夜の現場だった。
高架下。
未完成構造物。
仮設照明。
野次馬のスマホの光。
その真ん中で、セグメンタタ部隊を後ろに従えた白いフードの小さな影が立っている。
アリス。
その正面には、レオンに煽られ、武装し、熱を持ったアリス・スクワッド。
さらに、その手前にはWEREWOLFを装着した四人の影。
ドラウグル。
シロサギ・リン。
榊圭吾。
舞原朱音。
そして背後に沈む、VX-32 TIGERの獣じみた輪郭。
義弘は、その構図を見た瞬間に理解してしまった。
アリスが何をするつもりか。
なぜ、こんな最悪な布陣の前へ、あえて正面から出ているのか。
そしてそれが、どれだけ危険か。
喉の奥から、ほとんど反射で声が漏れた。
「止めろ……」
小さな声だった。
だが部屋の全員が、それを聞いた。
SABLEが義弘を見た。
「何が」
義弘は画面から目を離さない。
「……あれは」
言葉を探す。
だが探すまでもなく、もう知っている。
「かつて俺が使った手だ」
真鍋がわずかに眉を動かす。
SABLEは息を止めた。
義弘は昔、一度だけそういう止め方をしたことがある。
力で押し切れない場面で、責任ごと自分を最前面へ出し、言葉で群衆と敵意の流れを止める。
正しいからではない。
そうするしかなかったからだ。
そしてそれは、見ている側が思う以上に、やる本人を剥き出しにする。
「まさか……」
SABLEが小さく呟いた。
その瞬間、画面の中で、ドラウグルたち四人にも妙な高揚が走っていた。
アリスと、正面から向き合える。
模造でもない。
伝聞でもない。
神話でもない。
本物の“ゴースト”が、自分たちの前へ立っている。
ドラウグルは、その事実に武器の芯が少しだけ熱くなるのを感じた。
自分が武力を持つべきだと考えてきた、その先にいる本物。
試されるようで、測りたくもある。
リンは、胸の奥に言葉にしにくい高揚と苛立ちが同時に走る。
まただ、と彼女は思う。
またアリスは、自分が正面に立つべき時に、誰よりも“主役の取り方”を知っている顔をして現れる。
榊は、その構図の危うさに美しさすら見ていた。
最悪の場所で、最悪のやり方を選んだ個人ほど映える。
嫌になるほど、それが本当だと思ってしまう自分がいる。
舞原朱音は、むしろうっとりするほど真剣にその瞬間を見ていた。
新開市の前で、アリスが何を選ぶのか。
それはもはや一個人の行動ではなく、街そのものが次に何を信じるかの宣言に近い。
アリスは、彼らのそんな熱を知らない。
あるいは知っていても、もうその先を見ている。
彼女はセグメンタタを背負わされ、レオンの作った盤面へ乗せられ、WEREWOLFの四人とアリス・スクワッドの熱の前へ立たされていた。
本来なら、絶対に避けたい形だ。
組織の顔を背負い、群衆の前へ輪郭を太くして立つこと。
彼女のやり方ではない。
でも、ここまで来たらもう別の線を引くしかない。
アリスは手に持っていた端末を見た。
支援線の断片。
暴露用にまとめていた証拠。
レオンの糸。
アリス・スクワッドを操る構図。
それを出せば、たしかにこの群衆の神話を少しは壊せるかもしれない。
けれど今この場でそれをやっても、たぶん足りない。
群衆はもう、証拠よりも熱で動いている。
熱を冷ますには、もっと別の刃が要る。
アリスは端末を手から離した。
カラン、と軽い音がして、それが地面へ落ちる。
その音は小さいのに、場の全員の神経へ妙にはっきり届いた。
次の瞬間、アリスは両手を上げた。
降伏の印だった。
セグメンタタがざわめく。
後ろの隊列に一瞬、判断の揺れが走る。
アリス・スクワッド側も、WEREWOLFの四人も、思わず足を止めた。
義弘は画面の前で、思わず一歩踏み出していた。
まるで届くはずもないのに。
SABLEの喉が、かすかに動く。
彼女がさっき口にした
「アリスならそうする」
という言葉が、もっと危険で、もっと剥き出しな形で現実になってしまったからだ。
トミーは耳を伏せた。
真鍋だけは表情を崩さなかったが、その目の中では計算が一気に走っている。
これは最悪の広報災害になり得る。
同時に、この場を止める唯一の楔にもなる。
高架下の風が、誰にも届かないくらい弱く吹いた。
アリスは、白いフードの下で赤い目をまっすぐ前へ向けた。
声は大きくなかった。
だが、その場の全員に届いた。
「私が、オールドユニオンの真実を話す」
そこで一度だけ、周囲の反応を待たずに続ける。
「だから、この場から引き揚げろ」
その言葉は、命令でも懇願でもなかった。
自分自身を、次の暴露対象として差し出す宣言だった。
アリス・スクワッドの誰かが息を呑む。
配信者の一人は、カメラを持ったまま硬直した。
WEREWOLFの四人も、すぐには動けない。
ドラウグルは、その言葉がただの時間稼ぎではないと、直感でわかった。
リンは、また奪われる、と思った。
正面の主役の席を。
榊は、それが最悪に映える選択だと理解してしまう。
舞原は、新開市の前で語られるなら、その真実はもう街のものになると、危うく陶酔しかけていた。
義弘は画面の向こうのアリスを見つめたまま、何も言えなかった。
止めたい。
止めなければと思う。
でも、もう言葉が届く距離ではない。
そして何より、自分にはわかってしまう。
あれがいま、この場を止めるために一番効く手だということが。
だからこそ苦しかった。
アリスはゴーストだ。
影から噛み、線を切り、見えないまま勝つのが本来のやり方だ。
その彼女がいま、正面から群衆の前で話す者として立っている。
それがどれだけ、自分の柔らかい部分を晒すことか。
新開市の夜は、数秒だけ静止していた。
セグメンタタも、アリス・スクワッドも、TIGERも、WEREWOLFの四人も、誰もすぐには次の一歩を選べない。
まるで街そのものが、今しがた差し出された“真実”という言葉の重みを測りかねているみたいだった。
その沈黙の中で、義弘だけが知っていた。
アリスは今、勝とうとしているのではない。
止めようとしている。
そして止めるために、自分がもっとも得意ではない武器――言葉と、自分自身の立場――を選んだのだと。
それはたぶん、誰よりも痛い勝ち方だった。




