第283話 虎は待たない
レオン・ヴァルケンは、獲物を待って罠にかけるだけの男ではなかった。
待つ、という行為には、相手の都合へ半歩譲る響きがある。
相手が来ることを前提に場を整え、踏み込んできた瞬間を狙う。
それはそれで悪くない。
だが、アリスのような相手に対しては、レオンはそのやり方をあまり信じていない。
そもそも、どうやって感知するつもりなのか。
OCMが何度煮え湯を飲まされたと思っている。
最強のハッカー、“ゴースト”。
監視の網を抜け、通信に触れ、視界の外から噛みついてくる相手だ。そんなものが拠点へ来るのを、どこかの警報装置が律儀に教えてくれるとでも思っているのなら、最初から勝負にならない。
だからレオンは、待たなかった。
VX-32 TIGERの調整が完了した瞬間、彼は即座に街への出撃を命じた。
名目はもちろん、アリス・スクワッド支援のため。
真実を暴く市民ヒーローたちを、もっと派手に、もっと安全に、もっと“映える”よう支えるための戦力展開。
建前としては、それで十分だった。
「待ち伏せなんて退屈だろ」
レオンは地下層の発進区画で、低く笑いながら言った。
目の前では、VX-32 TIGERが重い駆動音とともに起動している。
低い。
獣のように低い姿勢。
四脚に近い擬似四脚の構え、前肢にあたる裂断クロー、鈍い砂色と暗い縞模様の装甲。
DRAKEが檻なら、バーディングは祭壇だった。
だがTIGERは違う。
こいつは狩りの兵器だ。追い、詰め、食らいつき、逃がさないための獣。
「アリスには檻も祭具も似合わない」
レオンは起動灯を見上げながら、楽しそうに呟く。
「やっぱり牙がないと失礼だよな」
技術員たちの顔は硬かった。
この男が笑っている時ほど、現場の負荷は増す。
だがレオンはそんなことを気にも留めない。
「行けよ、タイガー」
彼は軽く指を鳴らした。
「街で遊んでこい。どうせあの子も、見過ごせない」
*
その時、アリスはすでに拠点の中にいた。
輸送施設跡地の地下層。
表向きには死んだ物流拠点。
だが電力の流れと搬送レールの負荷が、まだ何かが生きていることを隠しきれていない。
アリスは影のように静かに、その内部を滑っていた。
白いフード。
黒髪。
片目を隠す前髪。
見えている方の赤い瞳だけが、暗がりの中でわずかに光を拾う。
足音はない。
端末を握る指先だけが、機械の呼吸を読むみたいに時折かすかに動く。
レオンの支援線はここへ繋がっている。
アリス・スクワッドの先鋭化、その背後にある供与された武装、煽りの演出、そして療養施設や生存線へ近づき始めた火。
それらの根を断つには、まずこの拠点を押さえなければならない。
そのはずだった。
低い警告音が、施設のどこかではなく、もっと生の機械音として響いた時、アリスはすぐに異変を察した。
重い。
大型機体。
しかも、今この瞬間に動いている。
アリスは搬送用の梁の影へ身を寄せた。
ちょうどその直後だった。
巨大な影が、目の前の横通路をゆっくりと横切っていく。
VX-32 TIGER。
低く沈んだ猛獣のような巨体。
装甲の継ぎ目に走る暗い縞。
前肢の裂断クローが、歩くというより地面を試しながら進む。
ただ大型なだけではない。
“追うために生まれている”機体の圧が、通路の空気を変えていた。
アリスは一瞬だけ、呼吸を止めた。
ここで見逃す選択肢はない。
この獣を街へ出せば、レオンは何かを始める。
あるいはもう始めている。
端末の画面を切り替える。
待機させていたブージャムへ、極短の呼び出し信号。
返答は言葉ではない。
だが十分だった。
ブージャムが来る。
*
別角度の暗がりでは、四つの影もまた、同じものを見ていた。
ドラウグル。
シロサギ・リン。
榊圭吾。
舞原朱音。
四人は、アリスを秘密裏に支援し、レオンの目論見を潰すために静かに動いていた。
レオンを叩けば、OCMはより大きな支援を出す。
その支援線ごと奪う。
そして自分たちが“ゴースト・ヒーロー”になる。
その青写真の最初の一歩として、今夜ここへ来ていた。
だが、レオンの手は彼らの想定より速かった。
「……もう出すのか」
榊が低く呟く。
普段は美意識の話をする時以外、感情をあまり声へ乗せない男だが、その一言にはさすがに感心が滲んでいた。
リンも、暗がりの中で目を細める。
「待たないのね」
「だから厄介なんだ」
ドラウグルが短く言う。
舞原朱音は、その低い駆動音を聞きながら、静かに息を吸った。
「新開市の熱を読むのが早い。あれは組織の人間というより……祭りの煽り役だわ」
四人とも同意した。
レオンは待ち伏せる男ではない。
先に盤面をぐしゃぐしゃにして、相手の判断を乱す。
それを“面白い”と思っている。
だからこそ、ここで初手から大型機を出す。
「でも」
リンが呟く。
「それでも、あの人は行く」
“あの人”が誰か、言わなくてもわかった。
白いフードの少女。
影のように動き、でも放ってはおかない、本物のアリス。
*
ブージャムは、数十秒もかからずに現れた。
施設外縁の監視線が一瞬だけ乱れ、その次の瞬間には、暗がりの中からすでに黒い影が滑り込んでいる。
ブージャム。
アリスの怪獣。
企業群の檻でも、代替派の祭具でもない、守るための獣。
VX-32 TIGERが頭部をわずかに振る。
感知した。
熱か、振動か、空気の流れか。
とにかくこいつは、ただ大型なだけではない。ブージャムみたいな相手を追うための獣だ。
次の瞬間、TIGERが飛んだ。
速い。
DRAKEのような重みのある突進ではない。
低く、鋭く、獲物へ距離を詰めるためだけの加速。
裂断クローが闇を切る。
ブージャムは真正面からは受けず、細い巨体を折りたたむように沈めて回避した。爪が梁を抉り、火花が散る。
だがTIGERはそこで止まらない。
止まる気が最初からない。
振り抜くより先に次の踏み込みへ移り、逃げ先の角度を読んで追い直してくる。
狩りだ。
まさにそういう動きだった。
アリスはその戦闘を、あえて支援しなかった。
支援しないというより、支援を最小限に絞った。
いま優先すべきは施設侵入の継続だ。
ブージャムに勝てと命じるのではなく、時間を稼げと託す。
ブージャムも、それを理解している。
動きは防御寄りだった。
積極的に噛み砕きには行かない。
回避し、受け流し、必要な時だけ短く噛む。
TIGERの追跡線を殺し、施設外縁で時間だけを浪費させる。
アリスが奥へ通るための戦い方だ。
レオンは、その変化を見逃さなかった。
施設中央監視区画で、彼は複数の画面を同時に見ていた。
ブージャムの動き。
TIGERの追跡線。
施設内部の侵入検知。
全部が一枚の盤面として頭に入っている。
「そう来るか」
口元が楽しそうに歪む。
「勝ちに来てない。通しに来てる」
つまり、アリスは施設潜入を優先している。
ブージャムはそのための時間稼ぎだ。
なら、やることは決まっている。
「警備レベル最大」
レオンは指示を飛ばした。
「HOUNDを全部出せ。搬送区画から地下三層まで。面白くなってきた」
施設の各所で、低い駆動音が目を覚ます。
VX-07 HOUND。
地上制圧用ドローンたちが、一斉に解き放たれた。
*
アリスは狭い整備通路の壁際を滑るように進みながら、その気配を読んだ。
HOUNDが多い。
しかも広い。
単純な巡回ではない。
施設内の経路そのものを潰しに来ている。
「……読んだ」
小さく呟く。
レオンはやはり、派手好きなだけの男ではない。
ブージャムの戦い方から、自分の優先を見抜いた。
だから施設内部を一気に硬くした。
HOUNDの一機が、前方通路を塞ぐように現れる。
アリスは直前で進路を変えた。
だが別の角からさらに二機。
タイミングがいい。よすぎる。
まるでこちらの経路を予測しているみたいに。
その一機が、突然横から何かに打たれたようにバランスを崩した。
アリスは一瞬だけ目を細める。
攻撃?
違う。
処理された。
しかも、自分じゃない。
別の通路でも、もう一機のHOUNDが急に沈黙する。
その動きは、爆発でも大破でもない。静かに急所だけ抜かれたような止まり方だ。
ドラウグルだった。
彼は施設の別線を這い、アリスの直接進路にかかるHOUNDの一部だけを、必要最低限で削っていた。
派手な破壊はしない。
だが迷いもない。
武力を持つべきだと考える彼にとって、こういう処理はむしろ自然な呼吸に近い。
その少し後ろ、リンも動いていた。
企業ヒーローとしての教育で身につけた導線の読みと装備の扱いを、今はまったく別の側で使っている。
HOUNDの死角。
視界の取り方。
企業製機体が一瞬だけ反応を鈍らせる角度。
彼女はそれを知っていた。
知っていたから、アリスのために使えてしまう。
「……これで、少しは“らしい”?」
誰にともなく小さく呟きながら、リンは一機のセンサー束へ短く刃を入れた。
アリスならもっと静かにやるのかもしれない。
それでも今の彼女は、このやり方でしか“影の主役”へ近づけない。
アリスは、また一機HOUNDが不自然に止まるのを見た。
自分の手ではない。
でも味方なのかどうかもわからない。
ただ、誰かが自分の支援をしている。
その認識だけが、静かに胸へ沈んだ。
*
外では、ブージャムとTIGERの戦いが続いていた。
VX-32 TIGERは、しつこい。
逃がさない。
ブージャムが梁を蹴って上を取れば、熱と振動で追尾し、降下先を狙う。
横へ滑れば、低い姿勢から裂断クローを差し込んでくる。
狩りの機体だ。
ブージャムみたいな高機動・奇襲型を追うための設計思想が、はっきり見える。
ブージャムはそれに対し、あくまで防御と回避で応じる。
勝負を決めに行かない。
逃げるわけでもない。
ただ時間だけを刻む。
榊圭吾は、その動きを見ていた。
「綺麗だな」
思わず口をついて出る。
戦い方そのものが、榊の美意識には刺さった。
派手に勝とうとしない。
必要な目的のために、戦いをきちんと手段に落としている。
ブージャムの動きには、組織の演出ではない、本物の選択がある。
「見惚れてる場合じゃない」
舞原が低く言う。
彼女と榊は、TIGER対策のトラップを仕掛けていた。
榊は導線を読む。
この獣が追うなら、どういう角度で追い、どこへ踏み込みたがるか。
舞原は街の側の地理感覚と、人の痕跡の残し方を知っている。
施設外縁の足場、仮設資材、逃がしたふりをして絞る流れ。
その二つが噛み合えば、TIGERに一瞬でも“踏み違え”を起こさせられる。
梁の陰に仕込まれた誘導杭。
足場に見せかけた薄い空間。
ブージャムが避ける先を読むのではなく、TIGERが追いたくなる線の方をずらす。
そして、その一瞬が来た。
ブージャムが左へ滑る。
TIGERが当然のように同じ線を追う。
だが踏み込んだ位置の床がわずかに沈み、重心が一拍だけ流れた。
そこへ側壁の資材束が落ちる。
致命傷ではない。
だが十分に鈍る。
ブージャムはその隙を逃さず、装甲の継ぎ目を短く噛み、すぐまた距離を取った。
TIGERの追跡線が、初めて明確に乱れる。
レオンは監視画面を見て、目を細めた。
「……へえ」
これはアリスだけの手腕ではない。
ブージャムの持ちこたえ方が、明らかに想定より深い。
施設内部のHOUNDの減り方もおかしい。
外と内、両方で見えない手が入っている。
「誰だ?」
楽しそうでもあった。
だが同時に、盤面の匂いが変わったことも理解している。
分が悪い。
レオンはその判断を、驚くほど早く下した。
「撤収」
即座だった。
周囲の技術員が一瞬だけ固まる。
「VX-32も引け。要員も切る。データは持てるだけ持て。残りは焼け」
「ですが、まだ」
「いいから」
レオンは笑っていた。
笑っているのに、判断は冷たい。
「面白いけど、ここは負け筋だ。だったら残る必要ないだろ」
彼は負けることそのものを嫌うわけではない。
つまらない負け方を嫌う。
そして今夜の盤面は、誰かの見えない介入で、すでに“次”へ使える材料をくれる種類の負けへ変わりつつあった。
「十分だよ」
レオンは呟く。
「来た。支援もある。しかもアリス自身はそれを掴んでない。最高じゃないか」
*
アリスが地下三層の制御区画へ辿り着いた時には、もう撤収は始まっていた。
HOUNDの気配が薄い。
人の足音が、戦うためではなく運び出すための速度になっている。
データの一部は消去中。
残りは持ち出し。
そして重い機体の発進準備音が、逆方向へ引いていく。
「……速すぎる」
アリスは小さく言った。
レオンは、自分が不利と見た瞬間、躊躇なく拠点を切った。
しかもこちらがあと一歩で手をかける、その直前に。
悔しさはある。
だが同時に、それだけで終わらない違和感も残った。
HOUNDの減り方。
TIGERの動きの乱れ。
自分ではない支援。
誰かが確かに、ブージャムと自分のために盤面へ手を入れていた。
気持ちが悪い。
でも敵とも断定できない。
アリスは無理に追わなかった。
レオンの逃げ足は速い。
ここで無理に噛みつけば、逆に残った罠へ引かれる。
代わりに彼女は端末を開き、短い暗号通信を飛ばした。
宛先は真鍋。
『支援拠点を確認。座標送る。
要押収。大型機の整備痕あり。残骸と搬送線を拾って』
返答はすぐだった。
『了解。現場班を回します』
それだけで十分だった。
アリスは一人で全部を回収しない。
拠点の押収と証拠の保全は、真鍋に任せるべきだと、もう知っている。
外へ出ると、ブージャムはすでに距離を取っていた。
VX-32 TIGERは撤退に入っている。
追うことはできる。
だが今夜はそこまでだ、とブージャムも理解しているみたいだった。
黒い巨体が、細い影みたいにアリスのそばへ寄る。
無傷ではない。
装甲の一部に裂断痕が走っている。
それでも大きな損耗は避けている。
「……無理しなかった」
アリスが小さく言うと、ブージャムは答えない。
答えないが、それでよかった。
彼女は立ち止まり、施設の暗がりを振り返った。
何かがいた。
自分以外の、静かな介入者。
でも、それが誰なのかは見えない。
アリスの支援なのか、レオンを狩る別の影なのか、あるいはもっと厄介な何かなのか。
答えはまだない。
ただ一つ確かなのは、今夜の勝負はアリスとレオンの二人だけで閉じなかったということだった。
その少し離れた暗がりでは、四人の影がすでに撤いていた。
ドラウグルは武装の痕跡を消し、
リンは最後に一度だけ、白いフードの小さな背中を見た。
榊は今日の導線の美しさと歪さを頭の中で反芻し、
舞原は、新開市のための“新しい影”が確かに動き始めたことを静かに噛みしめていた。
アリスは、その存在に気づかない。
レオンは逃げた。
拠点は押さえられる。
真鍋が来れば、残った線もいくつかは拾えるだろう。
それでも何かが、まだ盤面の外にいる。
アリスは白いフードの奥で、赤い目を細めた。
新開市の闇は、思ったよりも早く、思ったよりも多くの“影”を育て始めているのかもしれない。
そのことだけが、夜の風より冷たく彼女の背中へ残った。




