第二十八話 呼ぶ声
新開市の朝は、燃えカスの匂いがする。
インフラの焦げた匂い。
濡れたコンクリートの匂い。
人間の汗と埃の匂い。
そして――画面の匂い。
義弘は、移動車の中でその匂いを嗅いだ気がした。
匂いなんてあるはずがないのに、端末を見た瞬間、胸の奥がざらつく。
トミーが膝の上で端末をいじっている。
緑がかった毛並みのウサギが、指先でスクロールする姿は、普通なら笑える。
今は笑えない。
「……ジジイ。これ見ていいやつ?」
「見なくていい」
「見せたいんじゃなくて、もう“街が見てる”」
トミーは画面を義弘に向けた。
義弘はため息を吐き、視線だけで追う。
そこには、地獄が並んでいた。
『【神回】義弘の斬撃まとめ(完全版)』
『【尊い】シュヴァロフ母性シーン集』
『【かわいい】アリス口悪い集(字幕付き)』
『【検証】影の正体、フレーム解析で判明!?』
『【正義】サムライ・ヒーロー救助の“正解”』
『【炎上】義弘、一般市民を突き飛ばす!?(切り抜き)』
『【特定】ゴーストの顔、AI復元(※閲覧注意)』
『【カウントダウン】ゴースト討伐まであと◯日』
本人たちにはとても見せられない動画。
本人たちを、商品にする動画。
本人たちを、道具にする動画。
義弘は画面を閉じた。
「……見せるな」
「見せてない。見えてる」
トミーの声は毒舌なのに、妙に冷静だった。
「地獄みたいなサムネだな」
「ウサギでも分かる。これ、現場を壊す」
義弘は窓の外を見る。
未完成のリングが遠くに見える。
外延部の街並みが、蜘蛛の巣みたいに絡みついている。
「撮影が災厄を呼ぶ」
義弘が呟くと、トミーが鼻で笑った。
「災厄が撮影を呼ぶ、も追加しとけ」
外延部の一角が、煙を吐いていた。
小規模火災。
倒壊。
配管破損。
電源盤の一部が焼け、周辺の電力が不安定になっている。
災害現場は戦場に似ている。
しかし決定的に違う。
敵がいない。
敵が“どこにもいる”。
救助の導線が命だ。
瓦礫をどかす順番。
避難路の確保。
二次災害の封じ。
サムライ・ヒーローたちが汗だくで働いている。
派手さはない。
視聴率は取れない。
ただ人が助かる。
――そこへ、カメラが飛び込んできた。
小型の撮影ドローンが、避難路の上を低空で滑る。
救助の縄の上をかすめ、粉塵を巻き上げる。
「うわ、ちょ、邪魔だ!」
現場のヒーローが怒鳴る。
だがドローンは止まらない。
その後ろから、男が走ってきた。
派手なジャケット。
胸に小型カメラ。
片手にマイク。
もう片手で端末を掲げている。
そして、叫ぶ。
「どうもー! 新開市の真実を照らす男! ハイライトでーす!」
名乗った。
名乗ることで顔になった。
ブランドになった。
「今ね! 救助が“隠されてる”って噂があるんで! 透明性のために来ました!」
透明性。
善意の皮。
その下に視聴率の牙。
「コメント見えてる? みんな心配してるよね!
“義弘さん来るっしょ?”って!
“アリスちゃん顔見せて!”って!」
現場の空気がざわつく。
救助に集中していた視線が、一瞬だけカメラに吸われる。
それだけで導線が揺らぐ。
「……来るっしょ? ねえ来るよね? 英雄だもんね!」
ハイライトは笑う。
笑いながら、救助の縄の前に入り込む。
「ちょっと! その瓦礫、今どかす瞬間撮りたいんで待って!
神回になるから!」
神回。
人命より軽い言葉。
義弘が現場に到着したとき、最初に見たのは火ではなくカメラだった。
煙の向こうで、ドローンが光る。
レンズが光る。
視線が光る。
義弘はまだ万全じゃない。
体のどこかに鈍い痛みが残っている。
それでも来た。
来るしかない。
「義弘さん来たぁぁぁ!」
ハイライトが叫び、カメラが一斉に向く。
それがもう、最悪だった。
「皆さん! これが本物のサムライ・ヒーロー!
あの斬撃、もう一回見せてくれますよね!?
救助の合間に! ね!」
義弘はハイライトを見た。
表情は動かない。
だが、目が冷たい。
トミーが肩から顔を出し、ハイライトを見上げる。
「お前、邪魔」
「え? なんか喋った? かわいい! ウサギも出てきた!」
トミーの耳がぴくりと動く。
「かわいいで済むなら、お前の脳もかわいいな」
「退け。救助の導線だ。ウサギでも分かる」
周囲のヒーローが一瞬だけ笑いそうになり、すぐ真顔に戻る。
笑う余裕はない。
義弘は一歩前に出た。
戦場なら斬る距離だ。
だが、今は斬らない。
「退け」
声は低い。
命令だ。
ハイライトは怯まない。
むしろ嬉しそうだ。
「うわ! 出た! これ! “義弘さんの圧”!」
「コメント欄! きたきたきた!」
“圧”は娯楽になる。
義弘は手首のアンカーを鳴らした。
人工蜘蛛糸が伸びる音は、災害現場では“救助の音”だ。
義弘はその糸を、瓦礫の梁に掛けた。
「救助を優先する」
それだけ言って、義弘は背を向けた。
ハイライトは叫ぶ。
「ちょ! 逃げた! 逃げたって!
これ、検閲じゃない? 透明性どうするの!?
救助の裏で何してるか見せろよ!」
透明性。
その言葉が、火炎瓶みたいに投げ込まれる。
火炎瓶は、本当に飛んできた。
誰かが叫んだ。
「危ない!」
瓶が弧を描き、配管の近くに落ちる。
割れる。
炎が跳ねる。
火は小さい。
だが、場所が悪い。
二次災害の匂いが立ち上がる。
油の匂い。
焦げる匂い。
インフラが悲鳴を上げる匂い。
「止めろ!」
義弘が走る。
足の痛みが遅れて来る。
だが走る。
その瞬間、ハイライトが叫ぶ。
「うわあああ! きた! 事件!
みんな! これ! リアルタイム!
“義弘なら来る”って言ってたやつ! 来たぁぁ!」
来た。
義弘が来た。
だから成功だ、と言わんばかり。
火炎瓶を投げた男が、瓦礫の陰から飛び出した。
目がぎらついている。
憎悪ではない。
興奮だ。
「来たじゃん……! ほら! 来たじゃん!」
「言っただろ! 義弘なら来るって!」
「ヒーローを呼ぶには災厄が要るんだよ!」
災厄を起こして、ヒーローを呼ぶ。
助けを求める声と同じ形をした、最悪の呼び声。
義弘は男の手を掴む。
掴んだだけで折れるほどの力を持っているのに、折らない。
折れば、切り抜かれる。
“義弘、一般市民を破壊”
“ヒーロー暴力”
義弘は最低限の力で男を倒し、腕を背に回し、地面に押さえつけた。
「やめろ」
男は笑っていた。
笑いながら、泣きそうだった。
「やめろ? なんで? 最高じゃん!」
「みんな見てるよ!
コメント欄も! ほら!
“神回”だって!」
神回。
またその言葉。
トミーが吐き捨てる。
「神に謝れ」
同時に、別の方向で爆ぜる音がした。
模倣者だ。
自作の装備。
改造ドローン。
雑な配線。
過剰な出力。
「俺もサムライ・ヒーローだ!」
叫びながら、模倣者が飛び込んでくる。
背中には安い推進器。
腕には過剰に盛った装甲。
そして足元には、暴走しかけた小型ドローン。
ドローンが避難路に突っ込む。
落ちる。
バッテリーが発火する。
「うわああ! 助けて! サムライ・ヒーロー助けてぇ!」
自分で火を付けて、自分で助けを呼ぶ。
そして、こう叫ぶ。
「動画通りにやったのに!」
「解説が言ってた! これが“正しい動き”だって!」
解説動画。
正義のマニュアル。
現場を知らない正義が、現場を殺す。
義弘の視界が一瞬だけ揺れた。
ここは戦場じゃないのに、戦場よりしんどい。
そのとき、通信が割り込んだ。
――ギィ。
空気が一瞬だけ“静電気”の匂いになる。
「……うるさい」
声がした。
小さい。
毒がある。
腹が立つほど生きている声。
アリスだ。
フード。スカーフ。セーラー服に灰色のパーカー。
小学生みたいな身体が、現場の埃の中で不釣り合いに見える。
だが、目が違う。
目が、現場を“網”として見ている。
シュヴァロフが背後にいる。
黒い影。
母性の影。
双子が左右につく。
救助用の工具がすでに展開されている。
アリスはハイライトを見た。
「お前、名乗ったな」
ハイライトが嬉しそうに叫ぶ。
「きたぁぁ! ゴーストちゃん!
顔見せて! ねえ顔!
“口悪い集”更新したい!」
アリスの額に青筋が立つ。
立つが、殴らない。
代わりに、指先を軽く動かす。
空気の中の情報が、彼女の周りに翼みたいに広がる。
「……落ちろ」
次の瞬間、ハイライトの撮影ドローンが、ふわりと失速し、静かに地面へ降りた。
壊れない。
だが飛べない。
「え? え? ちょっと! 何これ!?
検閲!? 検閲だよね!?
みんな! 見た!? ゴーストちゃん検閲した!」
アリスは冷たい目で言う。
「救助の邪魔」
「落としただけ」
「壊してない。優しいだろ」
ハイライトは叫ぶ。
「優しい!? これ優しい!?
透明性! 透明性は!?」
アリスは一歩だけ前に出る。
「透明性って言葉で人を踏むな」
「見たいなら、助けろ」
「助けられないなら、黙れ」
その言葉が、現場に小さな静けさを作った。
ほんの数秒。
それだけで救助導線が戻る。
双子が動く。
瓦礫の隙間にエアバッグを差し込み、空間を確保する。
救助・工作特化。
この瞬間のための機体だ。
シュヴァロフが、家庭的な手つきで応急処置のパックを並べる。
包帯、止血剤、冷却材。
動作が丁寧で、母親みたいに落ち着いている。
その様子が、アリスの怒りをほんの少しだけ丸くする。
「……よし。やれ」
火はまだ危険ラインに届きかけている。
義弘は梁にアンカーを掛け、引く。
人工蜘蛛糸が鳴る。
梁が微かに動き、避難路が数十センチ広がる。
数十センチ。
だが、その数十センチで人が生きる。
熱がスーツに食い込む。
I2Hが衝撃と熱を置換し、スーツ内部に熱が溜まる。
強制冷却の限界が近い。
義弘は冷静に計算する。
「……今だ」
義弘は都市戦用ブレードを抜く。
斬るべきは敵ではない。
斬るべきは、落ちかけた鉄骨の結束。
絡まった配線。
引っかかった瓦礫。
刀が光る。
派手さはない。
だが、正確だ。
鉄骨が落ちる前に、落ちるべきところへ落とす。
配線が焼ける前に、焼けるべきところを切り離す。
救助のための斬撃。
その一撃を、ハイライトが必死に撮ろうとする。
手持ちカメラを突き出し、導線へ踏み込む。
「今の! 今の! 神回!!
義弘さん! もう一回!」
トミーが吐き捨てる。
「死ね」
言葉が強すぎて、周囲が一瞬凍る。
トミーはすぐ付け足す。
「……って言いてえけど、死なれたら後味悪いから帰れ」
「頼むから帰れ」
ハイライトは笑いながら後退した。
後退する足が、瓦礫に引っかかる。
転びそうになる。
その瞬間だけ、顔が“普通の人間”になる。
アリスが舌打ちした。
「……バカ」
シュヴァロフの腕が伸び、ハイライトを乱暴ではない力で引き戻す。
母親が子どもを引っ張り戻すみたいに。
ハイライトは目を見開き、すぐ笑顔に戻る。
「うわ! シュヴァロフさん! 母性!
これ切り抜き確定!」
アリスの目が死んだ。
「……殺す」
「やめろ」
義弘が言った。
声は低い。
制止ではなく、共有だ。
“殺したくなる気持ち”を、分かっているという共有。
アリスは息を吐き、殴らない代わりに通信をいじった。
ハイライトの配信が、一瞬だけ“無音”になる。
映像はある。音がない。
切り抜きの餌が減る。
ハイライトが叫ぶ。
「音が! 音がない!
これ検閲だろ!?」
アリスは言い返す。
「救助現場は無音で見ろ」
「音が欲しいなら、瓦礫の音でも聞いてろ」
火は封じられた。
倒壊も止まった。
救助導線が確保され、人が運び出される。
現場は、ひとまず落ち着いた。
だが、問題は終わらない。
捕まえた暴漢は、笑っていた。
「最高だった……」
「またやる……」
「みんなが呼べば、来る……」
義弘はその顔を見て、胃の奥が冷えた。
この男だけじゃない。
同じ目をした人間が、画面の向こうに無数にいる。
ハイライトは撤退しながら叫ぶ。
「みんな! 見た!?
ヒーローが市民を抑圧!
これが“透明性”の敵!
アーカイブ残すからね!」
逃げる。
倒せない敵。
殴れない敵。
切り抜きが増殖する敵。
義弘は理解した。
撮影=戦場。
それが、救助現場で最悪化している。
アリスは歯を噛んだ。
「……クソ」
シュヴァロフが、そっと彼女の背後に影を落とす。
母性の影。
それだけが、アリスの手を震えさせない。
夜。
現場の片付けが終わったころ。
アリスは、燃えた改造ドローンの残骸を拾い上げた。
模倣者のものだ。
雑で危険で、救助を殺しかけたもの。
だが、アリスはドローンの残骸を“憎んで”いない。
憎むべきは、使い方だ。
彼女は配線の断面を見た。
半田の癖。
接続の癖。
プロトコルの癖。
そして、気づいた。
「……これ」
双子が顔を上げる。
シュヴァロフも静かに近づく。
アリスは、端末に残った短いログ断片を抜き出した。
誰かのチャット。
企業回線ではない。個人端末の匿名チャネル。
そこに残る短文。
『我々は、我々のために』
『小さく始める』
『継続のため』
『観測は続く』
アリスの胃が冷えた。
「……紛い物の“我々”がいる」
義弘が横から覗き込む。
目が細くなる。
「企業がやってるんじゃない……」
アリスが首を振る。
「企業じゃない」
「企業にいる“個人”が、勝手に結託してる」
「……ミニ・アライアンスごっこだよ」
「最悪」
義弘は短く息を吐いた。
「“我々”を真似るのか」
アリスは吐き捨てた。
「真似て、気持ちよくなってる」
「秩序ごっこしてる」
遠くで、誰かの端末が鳴る。
新しい通知。
新しい切り抜き。
新しい解説。
新しい扇動。
義弘は空を見上げた。
未完成のリングが黒く浮かぶ。
その輪郭が、檻みたいに見えた。
「ヒーローを呼ぶ声は、助けを求める声と同じ形をしている」
義弘が言う。
アリスが答える。
「……だから厄介なんだよ」
その言葉が、夜に沈んだ。
そしてどこかで、また火花が散る。




