第278話 幕開けの条件
新開市は、相変わらず話題に飢えていなかった。
飢えていないどころか、少しでも火種が落ちれば、それをたちまち明るい方へ、映える方へ、噂として回しやすい方へ転がしていく。誰かが傷ついたあとですら、街はその傷の輪郭をなぞりながら、次の物語を欲しがる。冷酷とも言えるし、しぶといとも言える。新開市はそういう街だった。
決戦のあと、街が真っ先に語り始めたのは、もちろん“ゴースト”のことだった。
ブージャムを伴って現れ、企業群の大型ドローンと代替派の怪鳥をひっくり返し、最後には何事もなかったように闇へ消えた白いフードの少女。
誰かはそれを“本物の守護者”と呼び、誰かは“都市伝説の更新版”と呼び、また別の誰かは“新開市の祭りが生んだ怪異”と呼んだ。
ブージャムそのものにも、勝手な神話がつき始めていた。怪獣ではない。守護獣だ。いや、アリスの影が機械の形を取ったのだ。そんな馬鹿げた言い方まで出る。
義弘もまた、無事では済まなかった。
OF-44 DRAKEを白刃で斬り崩した白のサムライ。
アライアンス所属のサムライ・ヒーローでありながら、新開市の泥臭い現場へ平然と踏み込む男。白のサムライ・スーツに血の代わりみたいな油汚れと擦過痕をつけて、ブージャムの拘束を断ち切ったあの姿は、見た者の記憶に強く残ったらしい。
行政に近い者たちは“義弘氏の越権行為ではないか”と眉をひそめ、祭り好きの若者たちは“白いやつが一番格好よかった”とはしゃぎ、企業群に愛想を尽かした現場の人間たちは“やっぱり最後に前へ出るのはああいう人だ”と小さく語り合った。
シラヌイにも、変な拍車がかかった。
バーディングの翼へ泥臭く食らいつき、最後には企業の論理から外れて折原を治安機関へ渡そうとした女ヒーロー。企業群の中にいながら企業群に従いきらなかった人間。その矛盾を、街は嫌いではなかった。むしろ新開市は、完全に整った英雄より、どこかで線を踏み外して、それでも守る側へ戻ってくる人間を好む。
そしてGLASS VEIL。
欧州圏から来た、透明で規範的で、冷たく整いすぎた四人組。
新開市の燃える祭りとはまるで逆の温度を持つ外様の偶像であるにもかかわらず、街は彼女たちを歓迎した。歓迎というより、面白がった。こんなに冷たいのに、妙に目が離せない。崩れないように見えるのに、その崩れなさが逆に不穏で綺麗だ。危険や騒動まで“安全に映像化”できる存在として売り込まれていたはずなのに、実際にはその冷たさごと新開市の熱へ放り込まれ、今やその違和感自体が魅力になっている。
新開市は、こういう勝手な消費を平気でする。
それを嫌悪する者もいれば、利用する者もいる。
アリスはたぶん、そのどちらにもなりきれない。
*
SABLEは、療養施設で奇妙に歓迎されていた。
歓迎しているのは人間だけではない。
アリスが守りに置いていった戦闘用ドローン、シュヴァロフもまた、あからさまにSABLEへ肩入れしていた。
シュヴァロフは、初めて見る者ならまず戦慄するたぐいの機体だった。
全身は光をまったく返さない、深い闇そのものみたいな黒。輪郭は細いのに、直立すれば四メートル近い高さがあり、しかも背中には巨大な腕を背負っている。鋭く大きな爪を持つその腕は、鞘のように前腕部と上腕部が伸縮し、必要とあれば肩へ移って戦闘形態になるのだと、SABLEは事前に聞かされていた。
脚部は鳥に似た構造で、関節が奇妙に多い。膝だけではなく、その後ろにもう一つ関節があり、脛にあたる部分が鞘のように伸び縮みする。胸部の装甲もただの装甲ではなく、展開すれば複数の腕を内包しているらしい。
知らなければ怪物にしか見えない。
知っていても、やはり怪物じみている。
だが、その動きは奇妙なくらい穏やかだった。
療養施設の廊下を巡回している時のシュヴァロフは、巨大な猛禽類というより、気難しくて妙に家事の得意な黒猫が、無理やり四メートル級の戦闘機械に押し込められたような気配をしている。
足音はほとんどない。
光学迷彩のせいで、視線を外した瞬間にそこから消えたように見える。
にもかかわらず、気づくと必ずSABLEのすぐ近くへいる。
SABLEが廊下を歩けば、半歩後ろを静かについてくる。
椅子へ座れば、少し離れた位置で待機しながら、周囲を見張る。
知らない人間が近づくと、さりげなくその巨体を間へ滑り込ませる。
誰かが落とした毛布を、肩位置の細い上腕で丁寧に拾い上げ、信じられないほど几帳面な手つきで畳んでベッド脇へ置いた時には、SABLEは思わず瞬きをした。
「……これ、私のこと好きなの?」
思わず漏れた声に、近くにいた患者の一人が吹き出した。
「好きだね、それは」
別の者も笑う。
「アリスのドローンって、気に入った相手には露骨だから」
「しかもシュヴァロフはその中でも世話焼き寄り」
「見た目、あんななのにね」
SABLEは改めてシュヴァロフを見上げた。
黒い。
深く、光を吸い込むような黒だった。
その表面はまるで闇の切れ端のようで、背中の巨大な腕も、胸部の複雑な構造も、脚の異様な関節も、戦場に出れば恐ろしく見えるのだろうと思う。実際、同サイズの無人機の中では最強級だと聞いている。一撃離脱、奇襲、強襲、立体機動。そのための装置が全身へ詰め込まれている。
それなのに今、シュヴァロフはSABLEの肩からずり落ちそうになった薄い毛布を、肩位置の上腕でそっと持ち上げ、驚くほど丁寧に掛け直していた。
その動作には、機械的な無機質さがなかった。
言葉は喋れない。
でも、細やかな気遣いだけははっきり伝わる。
「……ほんとに、猫みたい」
SABLEが小さく言うと、シュヴァロフは答える代わりに、わずかに頭部を傾けた。
黒い怪物みたいな輪郭のくせに、その仕草だけは妙に素直だった。
義弘は少し離れた位置から、その様子を見ていた。
白のサムライ・スーツではなく、今日は通常の装いだが、それでも立ち姿には戦う側の緊張が残っている。そんな彼の目にも、シュヴァロフの振る舞いは異様に映った。
「ずいぶん気に入られたな」
義弘が言うと、療養施設の年若い患者が笑う。
「SABLE、アリスの友達なんでしょ」
その言い方は自然だった。
代替でも偶像でもなく、ただアリスと繋がっている人間として、ここではもう受け入れられている。
SABLEは少しだけ視線を落とした。
友達。
そう呼ばれることにまだ慣れない。
だが否定したくもなかった。
「……うん」
ようやくそう答えると、シュヴァロフはまるで納得したみたいに、背中の巨大な腕をわずかに畳み、廊下の見張り位置へ戻っていった。
その後ろ姿はやはり黒い怪物そのものだったが、床へ落とした布巾を器用に拾い上げ、ついでのように汚れた棚の縁まで拭いていくのを見てしまうと、どうしても怖がり切れない。
SABLEはその背中を見ながら、胸の奥に小さな熱が灯るのを感じた。
アリスのそばにいたものたちは、こんなふうに誰かを守る。
恐ろしく強くて、でも細やかで、言葉がなくても、気にかけていることだけは伝わるように。
そのことが、SABLEには少しだけ嬉しかった。
*
アリスは、収監されているオスカー・ラインハルトの言葉を忘れたわけではなかった。
眉目秀麗で仕事ができる企業人の顔をして、しかしサボテンの世話を趣味にしている男。サボテンは余計なことを言わないから、という乾いた理由まで含めて、あの男は変に印象に残る。
そして何より、彼の言葉は正しかった。
オールドユニオンを完全に新開市から退かせれば、それで全部が綺麗に片付くわけではない。
空白は別の脅威を呼ぶ。
その空白へ最初に入り込もうとするのが、OCM海外部門のような連中であることも、アリスにはもう十分すぎるほどわかっていた。
療養施設は、アキレス腱だ。
そこにいるNECROテック患者たち。
兄弟姉妹みたいに繋がった人たち。
非公式な生存線。
それらは新開市の表の制度だけでは守りきれない。だからこそアリスは守ってきた。
そして守ってきた以上、そこを狙われることが自分の急所になるのもわかっている。
オールドユニオンに好き勝手に火遊びをさせるわけにはいかない。
だがオールドユニオンを完全撤退させてもいけない。
この街の均衡は、きれいな理念では保てない。
あまりに気に食わない現実だった。
だからアリスは、自分で決めた。
残る。
オールドユニオンに。
戻る、ではない。
好きで従う、でもない。
ただ、新開市を守るために、その危うい線の上へ自分の体重を置き直す。
アザドの執務室へ現れたのは、そのためだった。
*
アザドはアリスに対して敬語を使わない。
最初からそうだった。
丁寧に扱っているようでいて、距離を作るための言葉を選ばない。必要な線だけを引いて、あとはまっすぐ話す。
「で」
アザドは机の端へ軽く寄りかかり、アリスを見る。
「何を決めて来た」
アリスはまだ彼の椅子に座っていた。
白いフードの奥で、赤い瞳だけが静かに光っている。
「残る」
短い返答だった。
アザドの目がわずかに細くなる。
驚きではない。確認だ。
「オールドユニオンに?」
「そう」
「ずいぶん素直だな」
「素直じゃない」
アリスは即座に返した。
「条件がある」
「聞こう」
アリスは机の縁へ指先を置いた。
その指は細いが、迷いはない。
「NECROテック患者や療養施設、非公式な生存線に触るな。新開市の裏側を、勝手に実験場みたいに使うな。代替派みたいな火遊びはもうやるな」
アザドは黙って聞く。
条件そのものは予想できていた。
むしろ、そこへ一直線に来るのがアリスらしい。
「他は」
「“他は”って?」
「それだけじゃ済まない顔してる」
アリスはほんの少しだけ口元を歪めた。
見透かされるのは癪だが、否定する気もなかった。
「ブージャムの整備に使う。トウィードルダム、トウィードルディー、バンダースナッチの部品もよこせ」
アザドは小さく息を吐く。
「高いな」
「壊された分の請求」
「誰に?」
「みんなに」
その言い方に、アザドは少しだけ口元を動かした。笑ったわけではない。だが、らしいと思った。アリスは理念だけで交渉しない。必要なものは必要だと言う。機体の部品、補修資材、守るための現物。それを曖昧にしないところが、彼女の強さでもあり、面倒なところでもある。
「それで、私が全部飲むと思うのか」
「思ってない」
「なら?」
「飲ませる」
アザドはそこで、ようやく正面から彼女を見た。
白いフード。
黒髪。
片目を深く隠す前髪。
赤い瞳。
椅子に悠々と座っているようでいて、実際にはかなり無理な線の上にいる少女。
彼女が残留を選んだのは、忠誠でも帰属意識でもない。もっと冷たく、もっと切実な現実のためだ。
「お前の急所はわかってる」
アザドは言った。
アリスの目がわずかに細くなる。
「療養施設だ。OCM海外部門も、その線を再評価し始めてる。オールドユニオンが完全に引けば、あいつらが入る口実はいくらでもできる」
「知ってる」
「知ってるなら、残留の意味もわかるだろう」
「だから来た」
アリスの声は低い。
怒鳴らない。
だが棘は隠さない。
「でも、だからって正式に首輪つけられる気はない」
アザドはそこではっきりと本題へ触れた。
「正式に組み込ませろ」
空気が静かに張る。
「制度上でも、実務上でも、お前をオールドユニオンに置く。制御しにくいのはわかってる。でも、少なくとも外側で勝手に噛みつかれるよりはましだ」
「正直」
「回りくどいのは嫌いだろう」
「嫌い」
アリスはすぐに答えた。
その即答が、かえって場を冷やす。
アザドは続ける。
「お前が残るなら、こっちにも保証が要る。勝手に消えるな。勝手に噛むな。少なくとも、新開市に関してはお前の線を把握したい」
「無理」
「全部じゃない」
「それでも嫌」
アザドは少しだけ肩をすくめた。
「交渉はそういうものだ」
「新開市で火遊びした連中が言うと腹立つ」
「否定はしない」
そのやり取りは静かだった。
だが、互いに相手の急所を知っている会話の静けさほど、緊張するものはない。
アリスは立ち上がらない。
だが、椅子のひじ掛けへ置いた指先にだけ、少し力が入っている。
「オールドユニオンは新開市から撤退するな」
彼女は言った。
アザドが一瞬だけ眉を動かす。
予想していた。
だがやはり、それを本人の口から聞くと意味が違う。
「でも火遊びはするな」
アリスはさらに続ける。
「療養施設にも、兄弟姉妹にも、非公式な生存線にも触るな。代替派みたいな真似もするな。部品は出せ。ブージャムとみんなの分。あと私に新開市の裁量を寄こせ」
「条件が増えてるな」
「減ると思った?」
アザドは短く息を吐いた。
結局、こうなる。
アリスは首輪を受け入れる代わりに、こちらの腕ごと噛みに来る。
だがそれでも、この形で残留させる価値はある。
少なくとも撤退派へ対抗するだけの材料になる。
GLASS VEILも残る。
新開市での影響力も、完全には消えていない。
そして何より、アリス本人がここへ来て、条件付きでも残ると言っている。
これは大きい。
「……いい」
アザドは言った。
「全部そのままじゃない。整理はする。でも、お前を新開市に残す方向で話を通す」
アリスはようやく、少しだけ肩の力を抜いた。
安堵ではない。
ひとまず線が繋がったというだけの緩みだ。
「また振り出しか」
彼女はぼそっと愚痴った。
オールドユニオンに残る。
危うい均衡を維持する。
療養施設を守るために、自分の嫌う組織とまた付き合う。
たしかにそう見える。
ぐるりと回って、同じ場所へ戻ってきたみたいに。
だがアザドは首を振った。
「振り出しじゃない」
その言い方は、低く、短く、いつも通り事務的だった。
それでも、少しだけ熱があった。
「新しい幕開けだ」
アリスは赤い目で彼を見る。
嫌な言い方だと思った。
でも、完全に間違ってもいない。
外では、新開市が勝手に次の話題へ沸き始めている。
義弘の会社ではシラヌイが新しい仕事に足を踏み入れ、療養施設ではSABLEがシュヴァロフに猫かわいがりされ、GLASS VEILは外様のままこの街に残ることを決めている。
真鍋は証拠を積み上げ、ミコト市長は静かに怒り続け、オールドユニオン内部では撤退と残留の線がまだ揺れている。
その全部の上に、いままた一本、細く危うい線が引かれた。
アリスはゆっくり椅子から立ち上がった。
アザドの席を、ようやく返す。
「幕開けなら」
アリスは低く言った。
「次は、もう少しましな歓迎にしろ」
アザドはそれにすぐ返さなかった。
だが口元だけが、ほんのわずかに動いた。
それが笑いかどうかは、アリスにはわからなかった。
わからなくてもよかった。
少なくとも今夜、新開市はまた一つ、誰にも見えない場所で配置を変えたのだから。




