第277話 椅子に座るゴースト
勝利と呼ぶには、あまりに散らかった終わり方だった。
会場には沈黙したOF-44 DRAKEと動けなくなったバーディングが残り、搬入路には押収された書類と機材が山のように積まれ、企業群とオールドユニオン代替派の双方は、互いに責任を擦りつけ合いながら、どうにかして致命傷だけは避けようと必死になっていた。
だが、真鍋からすれば、それはむしろ都合がよかった。
人は窮地に立たされると、守るべきものの優先順位を剥き出しにする。
企業群が守ろうとしたのは、市民の安全でも現場の誇りでもなく、自社の延命だった。
オールドユニオン代替派が守ろうとしたのも、SABLEでもGLASS VEILでもなく、“新しい守護像”という構想を失敗として記録されないための体面にすぎなかった。
真鍋はそれを、一つずつ、冷たい実務の形へ落としていった。
治安機関の臨時対策室には、押収物の一覧が並ぶ。
DRAKE搬入に使われた分割輸送ログ。
企業群の緊急対応名目で偽装された搬送申請。
代替派側の補助搬入倉庫から押さえた資材リスト。
バーディング運用のための一時展開記録。
HOUNDの異常配備履歴。
そして何より、会場で実際に運用された戦力の映像記録。
真鍋は机の上に散らばるそれらを見下ろしながら、ほとんど無表情のまま言った。
「企業群はもう、責任者を一人差し出して済ませようとしています」
対面の若い職員が顔を上げる。
「……想定より早いですね」
「早いというより、いつもの手口です」
真鍋は淡々と答えた。
「現場へ無茶を押しつけ、証拠が固まったら、切り捨てやすい階層を“判断の誤り”として出す。会社そのものの意思決定へ辿らせないための生贄です」
言い方に熱はなかった。
怒りがないわけではない。
だが真鍋の怒りは、声量ではなく、逃げ道を塞ぐ精度で表れる。
「切られる責任者の周辺通信も押さえてください。単独判断ではないことを示す線を消される前に」
「はい」
「それと、企業群側が“独自に持ち込まれた不正戦力であって、企業本体の管理下ではなかった”と言い始める可能性があります。DRAKEの固定具規格と整備計画、社内承認の接続線を優先」
職員は急いでメモを取った。
真鍋は端末を閉じ、次の指示先へ視線を移す。
新開市の裏側では今、責任の押しつけ合いが始まっている。
だが少なくとも今回、真鍋はそれを“いつものように”終わらせるつもりがなかった。
*
代替派の撤退は、企業群の生贄探しよりもさらに露骨だった。
彼らは新開市で大恥をかいた。
SABLEを中核にした“新しい守護像”の制度化構想は、市民の前でブージャムにひっくり返され、さらに最後にはアリス本人と義弘たちの共闘によって舞台ごと奪われた。バーディングは止まり、GLASS VEILの公演は傷つき、搬入の証拠まで押さえられた。
損失は金銭だけではない。
物語の主導権そのものを失ったのだ。
結果、代替派は新開市からの戦術的撤退を選んだ。
表向きには「情勢の再評価」。
内実は敗走に近い。
その報告が刀禰ミコト市長のところへ上がった時、彼女は大声を上げなかった。
市長執務室は静かだった。高層から見る新開市の景色は、何事もなかったみたいに整って見える。フェス会場の一部はすでに片付けが始まり、遠くの交通線は平常の流れを取り戻しつつある。
だがミコトは、その“何事もなかったように見える”街並みの奥にある損耗を知っていた。
またしてもフェスは他所の思惑の戦場にされた。
またしても新開市は、企業と外部勢力の実験場みたいに使われた。
またしても市民は、誰かの構想のために危険へ晒された。
ミコトは報告書を閉じた。
「企業群も、オールドユニオンも」
声は静かだった。
だが、その静けさが却って部屋の空気を冷やした。
「もう“協力者”として扱う前提を見直します」
秘書が慎重に顔を上げる。
「市長、どの程度まで……」
「緩めません」
それだけで十分だった。
ミコトは怒っていた。
それも感情的な憤激ではなく、行政の長として、都市の信用を傷つけられたことへの静かな怒りだ。こういう怒りは長い。長く続き、しかも制度の中へ沈んでいく。
「追及は続けます。企業群には搬入と違法運用の責任を。オールドユニオンには未申告戦力の展開と市内混乱への関与を。フェス運営の信頼回復は別途こちらでやる。二度と“燃える祭り”を、他所の舞台にさせないように」
その言い方に、ミコトの矜持があった。
新開市は、誰かの偶像や怪獣のためだけにある街ではない。
その当たり前を、ようやく都市の側が言い始めたのだ。
*
シラヌイが退職届を出したのは、その翌日だった。
企業群のオフィスはいつも通り清潔で、白く、空調も効きすぎていた。戦闘と混乱の記憶がまだ体に残っているシラヌイには、その清潔さがむしろ嘘っぽく感じられた。つい数日前まで、自分もこの白さを“秩序”の一部だと思っていたのに、いまは薄い化粧板みたいにしか見えない。
人事担当は表情を崩さず書類を受け取ったが、目の奥は隠しきれずに険しかった。
「再考の余地はありませんか」
「ありません」
「感情的な判断では」
「感情的ですね」
シラヌイは自分でも驚くほど平坦に言った。
「だから辞めるんです」
企業群にいた頃の彼女なら、もう少し言葉を選ったかもしれない。
だが今は、選ぶ気が起きなかった。
怪獣を舞台装置として扱い、市民を背景として扱い、現場のヒーローですら会社の体面のために切り捨てかねない。そういう組織の中で、これ以上“守る側”の顔をして立っていることに、彼女は耐えられなくなっていた。
退職届を出したあと、シラヌイはしばらく街を歩いた。
フリーのサムライ・ヒーローになる、という考えが頭にあった。企業群にも治安機関にも完全には属さず、自分の判断で動く。悪くない。むしろ自分には合うかもしれない。
だが、それは同時に、全部を一人で背負う覚悟が要るということでもある。
高架下の小さな喫茶スペースで立ち止まっていた時、義弘から連絡が入った。
『時間はあるか』
「……ありますけど」
『なら会おう』
義弘は簡潔だった。
会ってみれば、その理由も同じくらい簡潔だった。
義弘の会社の応接室は、企業群ほど真っ白ではない。木目と金属が共存していて、実務の匂いが残っている。きれいに整ってはいるが、“何かを作り直している最中の会社”という雰囲気があった。
義弘はスーツ姿だった。白のサムライ・スーツではない。だが、その背筋や目つきには、戦場の名残がまだ少し残っているように見えた。
「聞いた」
義弘は座ってすぐ言った。
「会社を辞めたそうだな」
「ええ」
「フリーを考えている?」
シラヌイは少し眉を上げた。
「情報が早いですね」
「早くなければ困る仕事をしている」
義弘は少しだけ口元を緩めた。
それから、本題へ入る。
「うちへ来ないか」
シラヌイは瞬いた。
予想していなかったわけではない。
だが、いざ正面から言われると、少しだけ現実感が薄かった。
「うちは綺麗じゃない」
義弘は静かに言った。
「政治も、企業との折衝も、治安機関との距離も、全部ある。だが少なくとも、怪獣を舞台装置にはしない」
その一言で、シラヌイの中の何かが少しほどけた。
「……そこ、大事なんですね」
「大事だ」
義弘は即答した。
「怪獣だけじゃない。ヒーローも偶像も、市民もだ」
その言い方に気負いはなかった。
ただ、彼の中では当たり前の線なのだろうとわかる。
シラヌイは短く息を吐いた。
「フリーでやるつもりでした」
「それも悪くない」
「でも、フリーってたぶん、格好いいだけじゃ済まないですよね」
「済まないな」
義弘は少しも甘い顔をしない。
「だから拾う」
その言い方は、誘いというより実務に近かった。
シラヌイは、そこでようやく少し笑った。
「スカウト、下手ですね」
「上手いと期待させるだろう」
「……じゃあ、行きます」
「歓迎する」
それで話は決まった。
拍子抜けするほど簡単に。
だがシラヌイには、その簡単さがむしろありがたかった。もうどこかへ“使われに行く”のではなく、自分が納得できる線の中へ移る。それだけで十分だった。
*
GLASS VEILの残留は、もっと複雑だった。
後援していた代替派は新開市から撤退する。ならばグループも本来は引き上げるべきだ。欧州圏から来た偶像として、この街に深く根を下ろす理由はない。むしろ、ここまで舞台が傷ついた以上、距離を取る方が自然だった。
だが、決まらなかった。
仮滞在用のラウンジで、四人は珍しく長く話した。
白と淡い銀の衣装は脱いでいても、彼女たちにはまだ冷たく整いすぎた美しさが残っている。光を散らす装飾も、透明の薄いヴェールもいまは外されているが、その温度の低さは消えない。
最初に口を開いたのはIRISだった。
「整理しましょう」
センター格らしい、感情の揺れを見せない声。
完成度の高い“表の顔”を担う存在だが、いまは誰に見せるでもなく、ただグループの軸として話している。
「後援は薄くなる。代替派は撤退。私たちも引き揚げるのが合理的」
NOVAがソファの背へ体を預けたまま、少しだけ顔をしかめる。
「合理的すぎるんだよね、それ」
彼女は新開市の熱狂を“言葉”で整える役だ。煽りも空気作りも得意だが、だからこそこの街の空気の変わり方にも敏感だった。
「でも今回の熱、あれは代替派が作った熱じゃなかった。もっと……変だった。危ないけど、本物だった」
MIRAはその言葉を静かに受け取りながら、指先でカップの縁をなぞっている。
「歌う場所としては、ひどい街ね」
声の芯になる人間らしい、柔らかい言い方だった。
群衆を落ち着かせたり、救済っぽく見せたりできる声を持つ彼女の言葉には、怒りよりも疲労が混じっていた。
「でも、だからこそ、ここで歌う意味が急になくなるとも思えない」
SABLEはずっと黙っていた。
無表情に近いまま、けれど以前より少しだけ、自分の意志を隠していない顔になっている。
IRISがSABLEを見る。
「あなたは残りたいの」
SABLEは少しだけ間を置いてから答えた。
「……うん」
「代替派のためじゃなく?」
「違う」
「じゃあ誰のため?」
SABLEはすぐには答えなかった。
アリスの名前を口にするのは、まだ少し躊躇いがあった。
だが結局、嘘をつく気にもなれない。
「ここに、まだ終わってないものがあるから」
NOVAが小さく笑う。
「詩みたい」
「嫌ならいい」
「嫌じゃないよ」
IRISは目を閉じ、ほんの一瞬だけ考えた。
感情を見せないプロとしての彼女は、たぶんこの場でも簡単に結論を出せる。
だがそれでも、仲間の意思を聞く時間は取る。
「残りましょう」
最終的にそう言ったのは、やはり彼女だった。
「しばらく、この街で。後援なしでも成立する形を探す」
MIRAが静かに頷く。
NOVAも肩をすくめながら同意した。
「危ないけどね、この街」
「知ってる」
IRISは平然と答える。
「でも危ないものを“安全に映像化”するだけでは、たぶんもう足りない」
その決断の裏には、アザドの静かな手引きもあった。
彼は表立って残留を命じたりはしない。
ただ、必要な宿泊線を切らず、現地活動の名目を細く残し、撤退後の空白が即座に埋められないよう調整した。
あからさまに手を貸せば反発を招く。
だから彼はいつも通り、“残すべき線だけ残す”やり方を取った。
*
義弘とSABLEがアリスの足跡をたどって、NECROテック患者の療養施設へ行ったのは、その数日後だった。
それは“捜査”とは少し違っていた。
追い詰めるためでも、見つけ出すためでもない。
アリスが守ろうとしていた場所を、自分たちの目で見るための訪問に近い。
療養施設は、市の表向きの導線から少し外れた場所にあった。
騒がしい観光区画から離れ、風の音と、遠くの機械音と、時折聞こえる人の笑い声だけが混じる穏やかな一角。
施設といっても冷たい病棟ではない。あちこちに、誰かが無理に整えすぎない優しさを置いたような痕跡がある。手すりの高さ、廊下の角の処理、配線の保護カバー、簡易な端末の配置。
アリスが直したのだろう、と義弘にはわかる。
誰にも褒められないところほど、あの子は手を入れる。
施設の中には、NECROテック患者たちがいた。
そして彼らの中には、アリスを“兄弟姉妹”と呼ぶ空気が自然にあった。血縁というより、同じ痛みと技術と孤独の近さで繋がった関係だ。
SABLEは最初、少しだけ緊張していた。
自分がここへ来ていいのか。
アリスの不在を埋めるために来たと見られないか。
そう思っていた。
だが、それは杞憂だった。
「SABLE、だよね」
年若い患者の一人が、ベッド脇から顔を上げて言った。
眼差しに警戒はなかった。むしろ好奇心と、少しの嬉しさがある。
「アリスの友達なんでしょ」
SABLEは言葉に詰まった。
友達。
そんなふうに自分を呼ばれると思っていなかったからだ。
「……うん」
ようやくそう答えると、相手は素直に笑った。
「じゃあ歓迎する。あの子、変に黙るから」
別の誰かも続く。
「無愛想だし」
「でも危ない時は必ず来る」
「配線、勝手に直してくれる」
「あとドローンにだけちょっと甘い」
SABLEはその小さな断片を聞いていた。
戦う“ゴースト”としてのアリスではなく、ここで配線を直し、人の様子を見て、無愛想なのにちゃんと気にかけるアリス。
それは自分が見てきた彼女よりもずっと生活の近くにいる姿だった。
義弘は少し離れた場所で、そのやり取りを見ていた。
SABLEがここで“第二のゴースト”としてではなく、アリスの友達として受け入れられている。
それが彼には、静かな勝利の一つに思えた。
アリスはまだ戻らない。
けれど世界の側が、少しだけまともな形へ寄り始めている。
少なくとも、この場所では。
トミーは施設の隅で、長い耳をぴくぴく動かしながら、落ち着かなそうに椅子へ腰掛けていた。ウサギの彼には、こういう静かな場所は少しむず痒いのかもしれない。だがその目は、ちゃんと部屋の空気を見ている。
「結局さ」
トミーがぼそっと言った。
「残るやつが、街を直してくんだな」
誰に向けたわけでもないその一言に、義弘は短く目を細めた。
雑だが、本質だった。
*
一方、オールドユニオンでは、別の意味で静かな火が燃えていた。
新開市で受けた打撃は小さくない。
代替派は撤退を余儀なくされ、戦力運用の痕跡も押さえられた。
ならばこの街から手を引くべきではないか。
そういう撤退論が、内部会合で現実味を帯び始めていた。
会議室に並ぶ顔ぶれは、どれも疲れていた。
疲れているが、だからこそ保守的になる。
無理に賭けるより、損切りを選びたくなるのは当然だった。
「新開市は割に合わない」
撤退派の一人が言う。
「アリスは行方不明。代替計画は一旦破綻。企業群との連携も露見した。これ以上の介入は費用対効果が悪い」
「GLASS VEILも盤石ではない」
別の者が続ける。
「代替派の後ろ盾が薄れた以上、現地での影響力維持は不透明だ」
その意見は合理的だった。
合理的であるがゆえに、アザドの反論も簡単には通らない。
アザドは席に座ったまま、資料を閉じる。
「結論が早すぎる」
声は低く、平坦だ。
感情で押し返すのではなく、あくまで手順の人間として話している。
「GLASS VEILは残る見込みがあります」
「それは代替派の失敗と切り離せない」
「切り離せないからこそ価値がある。彼女たちは“代替の偶像”としてではなく、新開市で別の立ち位置を探し始めている。これは撤退だけでは回収できない資産です」
誰かが眉をひそめる。
「資産、か」
「そうです」
アザドは続けた。
「そして今回の件で、アリスの影響力は逆説的に証明された。ブージャム、企業群、代替派、GLASS VEIL、市民の受け取り方、その全部に対して、彼女はまだ一個人以上の重みを持つ」
「その肝心のアリスが行方不明だ」
撤退派の言葉は鋭かった。
「“影響力があるかもしれない”では、会計も戦略も動かせない。しかも彼女は今、我々の指揮下にいない」
アザドはそこで、ほんのわずかだけ目を細めた。
「アリスは、まだオールドユニオン所属です」
それは事実だった。
少なくとも制度上は。
だがその一言に、会議室の空気はかえって重くなった。
制度上そうであっても、実態として彼女がどこにいるか、何をするか、誰にもわからない。
撤退派が二の足を踏むのは当然だった。
「所属だけでは足りない」
「動かせるのか?」
「戻る保証があるのか?」
問いは、どれも正しい。
アザド自身、それに決定打を返せないことはわかっていた。
だから結局、その日の会合は結論を出せなかった。
撤退と残留、そのどちらにも完全には振り切れないまま、議論は流れる。
疲労だけが残り、各々が自分の計算へ戻っていく。
アザドもまた、資料をまとめ、静かに席を立った。
*
執務室へ戻る廊下は、妙に静かだった。
会合のあとの疲れが、足取りへわずかに出る。
アザドは自分でもそれを自覚していた。
代替派の失敗、撤退派の圧、GLASS VEIL残留の細い線、そして何より、アリスという例外の扱い。
どれも簡単ではない。
だが簡単ではないからこそ、彼にはまだ新開市へ楔を打つ余地があるとも思っていた。
執務室の扉を開く。
灯りは半分だけ落ちていた。
机の上にはまだ昨日のままの書類。
その向こう、自分の椅子に、先客がいた。
アザドは一瞬だけ足を止めた。
白いフード。
黒髪。
前髪に隠れた片目。
見えているほうの赤い瞳。
細い体つきのまま、しかし驚くほど自然に、まるで最初からそこが自分の席だったみたいに悠々と座っている。
アリスだった。
彼女は机の縁へ片肘を預け、わずかに口元を歪めた。
それは大きな笑みではない。
だが明らかに、少し機嫌の悪い皮肉を含んだ、珍しい表情だった。
「新開市流の歓迎は、刺激が強かったか?」
アザドは扉を閉めた。
驚きは最初の一拍で処理し終えている。
次に来るのは、確認と計算だ。
「ずいぶんと勝手な来訪だな」
「そっちも、ずいぶん勝手に街へ色々持ち込んだ」
アリスの声は低く静かだった。
だが、その静けさの底には、はっきりした棘がある。
アザドは執務机の向こうへ回らず、少し離れた位置へ立ったまま彼女を見る。
「会合の内容を聞いていたのか」
「少し」
「盗み聞きは感心しない」
「じゃあ、堂々と来てよかった?」
その返しに、アザドはほんのわずかだけ口元を緩めた。
皮肉が返ってくる時点で、彼女はまだ消耗しきってはいない。
「用件は」
「いくつか」
アリスは椅子の背へ体を預けた。
義弘たちの前で見せた無理をした笑顔とは違う。こちらの顔は、もっと鋭く、もっと本来の彼女に近かった。
「まず、新開市から勝手に引くとか、勝手に残るとか、勝手に決める前に、私の話も聞け」
アザドはそれを聞き、ようやく確信した。
彼女はただ現れたのではない。
次の交渉をしに来たのだ。
そしてそれは、オールドユニオンにとっても、新開市にとっても、また一つ局面が動くということだった。
アザドは静かに扉の施錠を確認し、ようやく自分の机の前へ歩み寄った。
椅子はまだアリスが占領している。
だが、いまはそれでよかった。
彼は立ったまま言う。
「聞こう」
アリスの赤い瞳が、わずかに細くなる。
新開市では、真鍋が証拠を積み上げ、ミコト市長が追及を緩めず、シラヌイが新しい居場所を選び、GLASS VEILが残留を決め、義弘とSABLEがアリスの残したものを見つめていた。
その全部の外側で、しかしその全部と繋がる場所で、いままた一つ、新しい線が引かれようとしていた。




