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第276話 バイバイ

 最初に響いたのは、金属が軋む音だった。


 それは巨大な機械同士の衝突音でありながら、どこか生き物の悲鳴に似ていた。会場上空を切り裂くバーディングの翼、地上を押し潰すように進むOF-44 DRAKE、そしてその両方の間を縫うように滑るブージャム。企業群と代替派がそれぞれの思想を載せて持ち込んだ二機の大型ドローンに対して、ブージャムはたった一機だった。


 数で負けているだけではない。


 DRAKEは企業群の檻だ。

 低重心、重装甲、制圧と回収のために設計された軍用大型機。真正面から噛み合えば、押さえ込みと拘束では圧倒的に厄介だ。

 バーディングは代替派の祭具だった。

 巨大な怪鳥めいた輪郭、上空支配、視界と導線の固定、そして何より、舞台そのものを一方的に“守護像の儀式”へ変えてしまうための空虚な美しさ。


 その二機に挟まれて、ブージャムは劣勢だった。


 それでも均衡が崩れきらないのは、アリスがいるからだった。


 白いフードを深く被った少女は、会場外縁の仮設構造物と資材の影を滑るように移動しながら、端末と視線と街の流れ、その全部で戦場へ干渉していた。前髪に片目を隠した黒髪、暗がりでなお冷たく光る赤い瞳。彼女は表舞台へ立たない。だがこの戦場の呼吸は、明らかに彼女のものだった。


 DRAKEが拘束用のアームを開く直前、アリスのハックが制御回線へ薄く噛む。

 バーディングが空から攻撃角を取ろうとした瞬間、会場の照明と監視回線に微細な遅延が走る。

 ブージャムはその一瞬だけ生まれた隙を、生き物じみた滑らかさで食っていく。


 だが、それでも苦しい。


 バーディングの翼が広がり、会場上空に巨大な影を落とした。

 その影はただの影ではなかった。音響、投光、視線誘導、その全部を含んだ“舞台の固定”だ。観客たちの足が止まり、悲鳴が上がり、逃げようとする流れが妙に一方向へ偏る。代替派はこういう時のために、この怪鳥を作ったのだろう。空から状況全体を儀礼へ変えるために。


 アリスはそれを見上げ、舌打ちを飲み込んだ。


 嫌なやり方だった。

 人の足を、怖がり方を、見上げ方を、上からまとめて形にしようとする。

 折原の夢がさらに空虚な方向へ研ぎ澄まされたみたいだった。


 だがいま嫌悪している余裕はない。


 DRAKEが前へ出る。

 重い。速くはない。だが速くないからこそ、真正面からの圧が揺るがない。

 ブージャムが横へ滑って死角へ入ろうとするが、DRAKEは拘束用のアンカーを路面へ打ち込み、自らの重心を固定してそれを許さない。押さえる気だ。真正面からではなく、都市空間の狭さごと利用してブージャムの自由を奪うつもりでいる。


 ブージャムの補助アームが伸び、DRAKEの関節自由度を噛みにいく。

 そこで、空からバーディングが降った。


 鋭い嘴のような頭部から、収束された光学攪乱と衝撃波が落ちる。

 ブージャムは身を沈めてそれをやり過ごすが、その回避動作そのものがDRAKEに有利な姿勢を作ってしまう。

 檻と祭具。

 実務と儀礼。

 思想は噛み合っていなくても、今この瞬間だけは、二機の役割は恐ろしく悪くなかった。


 アリスの指が端末の上で走る。


 バーディングの投光パターンへ偽信号を流す。

 観客向けの緊急表示を一瞬だけ強制転送し、視線の流れをひっくり返す。

 上空監視ドローンのうち二機に、存在しない危険点を誤認させる。


 その瞬間、バーディングの攻撃線がほんのわずかにずれた。


 ずれた光の刃が、DRAKEの肩装甲を舐める。

 企業群側の通信が一斉にざわつく。

 バーディングが苛立ったように翼を震わせる。

 同士討ちには至らない。だが連携の確実さは削れる。


 ブージャムはその揺らぎを見逃さなかった。

 低く、ほとんど地面を這うように滑り、DRAKEの拘束アームの根元へ体当たりじみた角度で潜り込む。

 金属が悲鳴を上げる。

 拘束はまだ完全ではない。

 ブージャムはかろうじて自分の自由を繋いでいる。


 だが、会場の外周で別の気配が濃くなった。


 代替派のエージェントたちだ。


 彼らは最初からそこにいた。ただ、バーディングとDRAKEがブージャムを押し潰すのを待っていただけだ。もしアリスが支援のために姿を寄せるなら、その時に獲る。手順としては正しい。

 だがアリスは、彼らが思うほど単純にそこへ立ってはくれない。


 最初のエージェントが資材の影へ滑り込んだ瞬間、アリスは一歩だけ後ろへ退いた。

 退いただけで、そこにいたように見える場所が入れ替わる。

 視線の先にあった白いフードは、実際には仮設シートの反射と照明の残光だった。

 エージェントの足がもつれたように止まる。


 列だ。


 群衆だけではない。

 視線の列、追跡の列、恐怖の列。

 アリスはそれを小さく噛み、追う者の進路をずらしていく。


 通路の奥で誰かが悲鳴を上げる。

 観客が一方向へ逃げようとして、しかしバーディングの影のせいで躊躇する。

 そこへ企業群が差し向けたVX-07 HOUNDが二機、さらに割り込んでくる。


 乱戦だった。


 DRAKEとブージャムがぶつかり合い、上空ではバーディングが舞台を固定しようとし、外縁ではエージェントとHOUNDが互いの導線を邪魔しながらアリスを追う。

 企業群も代替派も、アリスを確保したい。

 だが自分たちの用意した巨大な舞台装置と、相手方の人間たちがかえって邪魔になる。

 それ自体がひどく彼ららしい破綻だった。


 アリスは資材の影を抜け、ステージ支柱の裏へ出る。

 HOUNDが一機、低い駆動音とともにそこへ食いついた。

 だが、アリスは振り返らない。

 代わりに上空監視ドローンの一台へ侵入し、その視界をHOUNDの目の前へ叩きつけた。

 急に増えた偽視覚情報にHOUNDが迷う。

 その一拍の間に、アリスは群衆の逃げ遅れた小さな流れを横切り、その背中側へ回る。

 追う側から見れば、いきなり人の列が厚くなったようにしか見えない。

 だがその厚みは、アリスが意図的に作った壁だった。


「いたぞ!」


 エージェントの声が飛ぶ。

 直後、別方向から来たHOUNDとぶつかりかける。

 狭い。

 そして視界が悪い。

 さらにブージャムとDRAKEの衝撃で足元の振動が絶えない。


 アリスはその全部を利用していた。


 だが、利用できるものにも限界がある。


 DRAKEがとうとう、ブージャムの片前肢に拘束ワイヤーを打ち込んだ。

 磁着アンカーが装甲へ噛み、路面へ撃ち込まれた固定杭と繋がる。

 ブージャムの動きが一瞬、目に見えて鈍る。


 バーディングが待っていたように下降した。

 翼面が青白く光り、次の一撃に必要な角度を取る。


 アリスの指が滑る。

 ハックでバーディングの姿勢制御へ干渉。

 だが今度は浅い。

 バーディングは一瞬だけ傾いたものの、墜ちない。

 代わりに攻撃線がずれ、DRAKEの拘束アームを掠める。

 ほんの少しだけ連携が乱れる。

 けれど、それでもブージャムの不利は変わらない。


 ブージャムの装甲が一撃を弾く。

 だが二撃目、三撃目までは受けきれない。

 DRAKEは押さえ込んだまま離さず、バーディングは上から何度でも舞台を固定し直せる。


 アリスは歯を食いしばった。


 苦しい。

 思っていた以上に苦しい。

 罠の中へ入ると決めたのは自分だ。

 義弘たちはきっと、搬入口で証拠を掴んでいる。

 真鍋は押さえる。

 シラヌイは見抜く。

 SABLEも来るかもしれない。

 そう信じてここへ来た。

 でも、間に合わなかったら。


 その考えを打ち消すように、アリスはさらに端末を叩く。

 DRAKEの拘束出力へ微細な負荷変動を混ぜる。

 会場照明の非常系統を走らせ、バーディングの影の位置を一瞬だけ狂わせる。

 ブージャムの残された自由度へ、そこだと伝えるように。


 ブージャムがうなる。

 実際に声は出ない。

 だが、アリスにはそう聞こえた。


 次の瞬間、DRAKEがさらに拘束を強めた。


 ブージャムの巨体が路面へ押しつけられる。

 バーディングが上空で嘴を下ろす。

 もう少しで決まる。

 企業群と代替派の最後の切り札が、ようやくブージャムを制圧する、その寸前。


 白い閃きが走った。


 あまりに鋭く、会場の照明が遅れてそれを認識した。


 DRAKEの拘束ワイヤーが断ち切られる。

 金属線が跳ね、火花が散り、巨大な檻の構造が一瞬だけ緩む。

 そこへ白のサムライ・スーツをまとった義弘が踏み込んでいた。


 白い装甲。

 刃を抜いたサムライ・ヒーロー。

 濁った戦場の真ん中で、その白は異物みたいに鮮烈だった。


「遅くなった」


 誰に向けた言葉かはわからなかった。

 アリスか。

 ブージャムか。

 あるいは自分自身か。


 だがその一言だけで、アリスの胸のどこかに張っていた硬いものが、ほんの少しだけ緩んだ。


 義弘はそのまま二撃目を入れる。

 DRAKEの拘束アームの根元、もっとも負荷のかかる軸。

 白のサムライ・スーツの補助出力が乗った斬撃は、機械相手にも容赦がない。

 DRAKEの重装甲が悲鳴を上げる。


 同時に、別方向からシラヌイが飛び込んだ。


 企業ヒーローとしての機動。

 だがもう企業の命令では動いていない。

 彼女はバーディングの下降線へ斜めから入り、翼面のひとつへ体重と勢いを乗せて食らいつく。

 華やかな怪鳥は、泥臭く羽をもがれるのに弱い。

 シラヌイはそれを知っていた。

 見栄えのいい守護役ほど、現場で押さえ込まれるとみっともない。


「SABLE!」


 彼女が叫ぶ。


「今!」


 SABLEはすでに動いていた。


 ステージの裏導線、逃げ遅れた観客の固まり、警備員のためらい、光の当たり方。

 アリスほどではない。

 だがSABLEはSABLEのやり方で、いまこの場の“止まり”を作れる。

 彼女はバーディングへ向けられた視線をひとつにまとめ、その視線の重みで怪鳥の飛行線を鈍らせた。

 そしてアリスを見る。


 一瞬だけ、赤い目と視線が合う。


 言葉はない。

 でも足りた。


 アリスはSABLEの作ったその一瞬の淀みへ、自分のハックを差し込んだ。

 バーディングの翼面制御、投光制御、姿勢補助。

 SABLEが列で止めた流れを、アリスが電子の側から固定する。


 バーディングの翼が不自然な角度で震えた。

 上空支配が崩れる。

 影の位置がずれる。

 観客の足が、ようやく本来の逃走方向を取り戻し始める。


 真鍋は別線にいた。


 彼女は会場の表の乱戦に加わらず、その裏で代替派の搬入補助線を強襲していた。

 大型ドローンの分割搬入ログ、偽装書類、仮設倉庫の入出記録。

 戦場で勝っても、証拠が逃げれば何も残らない。

 だから真鍋は自分の戦場を外に置いた。

 そしてその判断は、確実に正しかった。


「押さえました」


 通信の向こうで、彼女の硬い声が響く。


「代替派側搬入の物証を確保。企業群側のDRAKE搬入証拠とも接続可能です」


 その言葉が届いた瞬間、義弘の表情がわずかに変わった。

 勝てる。

 戦場だけでなく、その後まで含めて。


 DRAKEがなおも義弘を押し潰そうと前へ出る。

 白のサムライ・スーツの足元が路面へ沈み込む。

 だが今度は、ブージャムが自由だった。


 拘束を断たれた巨体が、滑るように立ち上がる。

 義弘とブージャム。

 一人と一機。

 まるで最初から息を合わせていたかのように、同じ敵へ向く。


 DRAKEは重い。強い。檻として完成している。

 だが、義弘の刃はその檻の“継ぎ目”を知っている。

 ブージャムはその檻の“動きの癖”を噛める。

 二つの刃が重なったとき、OF-44 DRAKEはようやく沈黙へ追い込まれた。


 義弘のブレードが拘束機構の核を断ち、

 同時にブージャムがその低重心を逆に利用して、体勢そのものを崩し切る。

 巨大な軍用ドローンが鈍い震動とともに膝を折る。

 檻は、そこで初めてただの重い機械に戻った。


 一方、バーディングも終わりへ向かっていた。


 シラヌイが泥臭く食らいつき、SABLEが列を止め、アリスがその停止をハックで固定する。

 守護の儀礼を支えるはずだった怪鳥は、もはや空の舞台を支配できない。

 翼は半ば折られたみたいに震え、上空での美しい輪郭を保てなくなる。

 最後にアリスが投光制御の中核へ侵入し、SABLEが観客の視線を逆方向へ剥がしたとき、バーディングは完全に“見せ場”を失った。


 それは兵器としての停止であると同時に、物語装置としての死でもあった。


 代替派のエージェントたちが止まる。

 企業群のHOUNDも、それ以上踏み込めない。

 搬入の証拠は押さえられた。

 大型ドローンは沈黙した。

 逃げ道はもうどこにもない。


 会場に、ようやく本物の静けさが戻ってくる。


 観客のざわめきはまだ止まらない。

 だがそのざわめきは、さっきまでの恐怖とは少し違っていた。

 何が起きたのか完全にはわからなくても、彼らは見てしまったのだ。

 作られた怪獣と作られた守護ではなく、別の何かがこの場をひっくり返したことを。


 義弘が、ブレードを下ろす。

 白のサムライ・スーツには戦闘の傷が増えている。

 それでも立ち姿は揺るがない。


 SABLEは息を整えながら、資材の影へ目を向けた。

 シラヌイも、片膝をついたまま視線だけを追う。

 そこに、アリスがいた。


 白いフード。

 黒髪。

 片目を隠す前髪。

 赤い瞳。

 静かで、少し不機嫌そうで、でも今はその静けさの奥に、はっきりした疲労が見えた。

 ブージャムの影が、その細い体の後ろに寄り添っている。


「アリス」


 最初に呼んだのは義弘だった。


 短い呼びかけだった。

 責めない。

 問い詰めない。

 ただ、そこにいることを確かめるような声。


 SABLEも、一歩だけ前へ出る。

 シラヌイも言葉を探している。

 だが、三人とも同じことを思っていた。

 行くな、と。

 今度こそ残れ、と。

 少なくとも、もう少しだけここにいろ、と。


 アリスはその視線を全部受けた。


 逃げる理由はいくつもある。

 まだ表へ戻るには早い。

 ブージャムも完全には安全じゃない。

 代替派も企業群も終わっていない。

 わかっている。

 だから、ここで留まるわけにはいかない。


 でも同時に、何も返さないまま消えるのも違うと思った。


 義弘は間に合った。

 SABLEも、シラヌイも、真鍋も、それぞれのやり方でここへ来た。

 信じていた通りに。


 アリスは口を開かなかった。

 開けば、うまく言えない気がしたからだ。

 だから代わりに、ほんの少しだけ口元を動かした。


 笑顔を作ろうとした。


 不器用だった。

 無理をした笑顔だった。

 安心した人の笑い方ではない。

 泣かせないために、あるいは心配をこれ以上増やさないために、ぎこちなく形だけ作ったみたいな笑顔だった。


 それでも、たしかに笑った。


 そして小さく、手を振った。


 バイバイ、とでも言うように。


 義弘の喉が、ほんのわずかに動いた。

 SABLEは目を見開き、シラヌイは息を呑む。

 そのたった一つの仕草が、何よりも彼女らしくなくて、だからこそ痛かった。


 次の瞬間には、アリスはもう後ろへ下がっていた。


 ブージャムの影が動く。

 仮設資材、照明の死角、観客のざわめき、会場外周の暗がり。

 それら全部が彼女のための導線になる。


「待って!」


 SABLEが思わず言う。

 義弘も一歩出た。

 シラヌイも呼び止めようとした。


 だが、追わなかった。

 追えなかった、ではない。

 追うべきではないと、どこかでわかってしまったからだ。


 あの笑顔は、今はここまでだという合図でもあった。


 アリスは何事もなかったかのように、闇へ消えた。

 白いフードも、赤い瞳も、最後にはブージャムの輪郭と一緒に夜の継ぎ目へ溶けていく。


 会場には、沈黙したDRAKEと動けないバーディング、そして押さえられた証拠だけが残った。

 企業群と代替派が用意した罠は、まるごと別の意味へ書き換えられて終わったのだ。


 義弘はしばらく、その闇を見ていた。


 白のサムライ・スーツの胸部装甲が、戦闘の熱をまだ少しだけ残している。

 その熱が冷めるまでの短い時間、彼は何も言わなかった。


 SABLEもまた、アリスが消えた方角を見続けていた。

 自分は代わりにはなれない。

 でも、あの人が全部を一人で背負う必要も、きっともうない。

 そのことを、さっきのほんの少しの共闘が示していた。


 シラヌイは肩の痛みを押さえながら、沈黙したバーディングを見上げる。

 企業が用意した檻も、代替派の祭具も、結局は本物の前で止まった。

 その現実が、彼女には少しだけ救いだった。


 そして別線で証拠を押さえ終えた真鍋は、通信の向こうで短く結果だけを報告した。

 実務は動いている。

 逃げ道は削られている。

 戦場が終わっても、現実は続く。


 それでも今夜だけは、誰もが同じ一点を見ていた。


 白いフードの少女が、無理をした笑顔で手を振って去っていった、その暗がりを。


 新開市の闇は、まだ彼女を隠している。

 けれど以前とは少し違う。

 今の闇の向こうには、たしかに彼女とこちらを繋ぐ線がある。


 それを知ってしまったからこそ、義弘も、SABLEも、シラヌイも、もう前と同じ喪失ではいられなかった。

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