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第271話 ブージャム

 折原連は、その夜ひどく珍しい感覚に襲われていた。


 自分だけが遅れているのではない。自分だけが先に見てしまったのだ、という感覚だった。


 代替派の臨時設計室は、深夜にもかかわらず明るかった。中立フェス関連の仮設導線図、GLASS VEILの公演配置、企業群との共同運用モデル、緊急時の分岐プラン、群衆制御の予測波形――壁面の大型投影には、街をひとつの巨大な楽譜のように扱う図面が何層にも重ねられている。折原にとって、それは本来なら心地よい風景のはずだった。線が線を呼び、人が流れになり、流れが意味を持つ。都市が偶然を減らし、意志ある構造として立ち上がっていく様は、長く彼が夢見てきたものそのものだった。


 だが今夜、その光景は妙に薄っぺらく見えた。


 スクリーンの端では、M-22 マルティネス歩行戦闘車の分解図が開いている。軍用の骨格、関節駆動、耐衝撃構造、補助推進ユニット。そこへ企業群の技術者が書き加えた改造案がいくつも重ねられ、怪獣的な外観を強めるシルエット案や、観衆に恐怖を与えつつも制御可能な範囲へ収める挙動制限案が添えられていた。

 折原はその図を見るたび、あの裏路地での赤い目を思い出した。


 ――消えたままにしたら、次も同じになる。


 あの静かな声が、耳の奥に残っている。


「それで?」


 代替派の中心にいる男が、机の端に腰を預けながら言った。年齢は四十代半ば、笑うと人当たりがよく見えるが、その実、物事を可否の二値でしか扱わないタイプの顔だと折原は知っている。彼は今、折原に向けて愉快そうな視線を送っていた。


「君の提言というのは、要するに、M-22関連の痕跡を完全には消すべきではない、ということかな」


「そうです」


 折原は短く答えた。


「責任追及のため?」


「それもある。でも主眼は別です。アリスがもう一度この件に噛みつく可能性が高い。痕跡を雑に消せば、逆に彼女の行動線を刺激する。M-22の再利用もやめた方がいい」


 室内にいた数人が顔を見合わせたあと、ひとりが笑った。もうひとりもつられる。あからさまではない。だが、折原の神経には十分届く笑い方だった。


「まだ彼女をそんなに恐れているのか」


「恐れという言い方は雑だね」


 折原は口元だけで笑った。


「構造上の危険性を言ってる。彼女は正面から噛み砕くタイプじゃない。見えないところから来て、設計の前提そのものをひっくり返す」


「だとしても、それは以前の話だろう」


 別の代替派の男が資料をめくりながら言った。


「今の新開市は違う。彼女ひとりが都市の中心だった時代は終わった。SABLEがいる。GLASS VEILがいる。折原君、君自身が群衆を接続する仕組みを作った。ゴースト現象は、例外ではなくモデルになる段階へ来ているんだ」


 その言葉に、室内の空気が緩くうなずいた。彼らは本気でそう思っているのだと、折原は理解した。アリスを軽く見ているというより、理解しきったつもりになっている。例外を分解し、再現の手順へ落とし込み、制度に変換できると信じている。だから本物を恐れない。


「……モデル化したつもりなんだね」


 折原が呟くと、中心の男は肩をすくめた。


「つもりではなく、している途中だ。もちろん完成ではない。だが、だからこそM-22の再利用には意味がある。新開市の群衆反応、企業群の怪獣演出、対SABLE戦シミュレーション、全部を一つの系で調整できる」


「対SABLE戦?」


「保険だよ」


 男は楽しげに言った。


「守護像には試練が必要だ。象徴は脅かされ、乗り越えることで完成する。企業群には、M-22のパーツを活かした新規機体の試作を急がせるつもりだ。SABLEに敵対する構図を演出し、それを制御下で制圧させる。うまくいけば、市場にも説明しやすい」


 折原は笑わなかった。


 恐怖が、骨の奥へじわじわと染みていくのを感じていた。自分だけが先に知っている。あの赤い目を、あの静かな断定を、この場の誰も見ていない。彼らはアリスを、失踪した少女の残像としてしか扱っていない。だが本当は違う。彼女はもう、ただ失われた側の存在ではない。都市の死角へ潜り込み、誰よりも先にこちらを見つけ返す側へ回っている。


 新開市でその実感を持っているのは、今のところ自分だけだ。


 折原はその事実に、背筋の温度が下がるのを感じた。


「進言は終わりかな?」


 男が尋ねた。


「終わり」


「なら、こちらの進行を優先する」


 あまりにあっさりした言い方だった。折原はその場で反論を重ねることもできたが、しなかった。無意味だとわかったからだ。ここでさらに言葉を足せば、単に“アリス信仰から抜けきれない導線屋”として処理される。彼らはもう、彼を必要としながら同時に乗り越えたつもりでいる。


 折原は設計室を出た。長い廊下の蛍光灯が、夜更けの白さで無機質に並んでいる。窓の外には新開市の光があった。広告塔、交通制御灯、ステージ設営の照明、フェス用の装飾照明。街はきれいに見えた。だが、そのきれいさの裏側に、誰にも見つからない導線がすでに引き直され始めていることを知ってしまった以上、もう以前のようには見えない。


 そのまま施設を出ようとした折原の前に、影が一つ差した。


 SABLEだった。


 彼女はGLASS VEILの簡易待機フロアから上がってきたらしく、ステージ用ではない地味な黒い上着を羽織っている。無表情に近い顔立ちのまま、だがその目だけがひどく鋭かった。華やかな演出の中心に置かれながら、その実、周囲の空気の歪みを誰よりも先に読む目。折原は最近、それを何度も感じていた。


「帰るの」


「帰るよ」


「顔が変」


「ひどいな」


「会ったでしょう」


 折原は一瞬、足を止めた。


 SABLEは問いではなく確認として言った。小さく、しかし逃がさない声だった。廊下の端を警備員が通り過ぎていくが、二人の会話までは聞こえていない。SABLEは少しだけ近づき、折原の目を真っ直ぐ見た。


「誰に」


 折原はとぼけてみせた。


「アリス」


 その名が出た瞬間、廊下の空気が一段冷えたように感じた。折原は苦く笑った。


「勘がいい」


「勘じゃない」


 SABLEは言った。


「あなた、前より街を見てない。見られてるみたいに歩いてる」


 折原はその観察の正確さに、内心で舌を巻いた。彼女はやはりただの偶像ではない。人から見られることを仕事にしているからこそ、人が“見られている側”へ回ったときの僅かな姿勢の変化に敏感なのかもしれない。


「どこで会ったの」


「それは言えない」


「生きてた?」


「それは見ればわかるだろう」


「私が見てないから聞いてる」


 声色は変わらない。だが、その無表情の奥にあるものは硬かった。SABLEは今、代替派の中核へ祭り上げられている。街は彼女を新しい守護像と呼び、企業も観光も治安も彼女を接続点として使い始めている。だが当の本人は、その位置に安住していない。むしろ、そこに置かれれば置かれるほど、本物の不在を鋭く感じているのだろう。


 折原は少しのあいだ迷ってから、口を開いた。


「アリスはM-22を追ってる」


 SABLEの目が、わずかに細くなった。


「やっぱり」


「やっぱり?」


「M-22の話をすると、みんな急にきれいな言い方をする。使えた、仕方なかった、今後に活かす、管理下に置く。そういう言い方をする時は、大人は何かを隠してる」


 折原は小さく笑った。


「君、だいぶ嫌な学習をしてるね」


「新開市にいると早い」


 SABLEは表情を崩さないまま言った。


「どこまで知ってるの」


「代替派が痕跡を薄めようとしてる。企業群はパーツを再利用して新しい機体を作る気だ。対SABLE用の脅威演出も兼ねてる」


「……私と戦わせるつもり?」


「象徴には試練が必要、だってさ」


 SABLEはその言葉に、ほんのわずかだけ眉を動かした。怒りとも違う、冷たい嫌悪に近い反応だった。


「私、そういうの嫌い」


「知ってる」


「調べる」


 それだけ言うと、彼女は踵を返しかけた。折原は思わず呼び止める。


「代替派の中で動くなら、目立つよ」


「今さら」


 SABLEは振り返らない。


「目立つの、仕事だから」


 そう言い残して去っていく背中を見ながら、折原は深く息を吐いた。街は今、誰もが自分の役割を押しつけられながら動いている。代替派は制度の夢を見る。企業群は従属を受け入れる。義弘は守るために政治と押し問答を続けている。SABLEは偶像であることを強いられ、その位置から逆に隠されたものを覗き込もうとしている。


 そしてアリスは、その全部の内側へ、もう侵入しているのかもしれなかった。


     *


 企業群の整備棟は、三日後にはちょっとした戦場になっていた。


 表向きには「フェス警備用可変装備の緊急改修」とされていたが、現場にいる人間のほとんどは、それが嘘だと知っている。大型シャッターの向こうには、M-22由来のフレーム部材が運び込まれ、切断され、再接合され、装甲の輪郭が怪獣じみた形へ強引に寄せられていた。設計部は無茶な工期を押しつけ、広報は「制御可能な脅威演出」という奇妙な言葉で承認を取り、現場監督は責任の所在が曖昧なまま怒鳴り散らす。修理の終わったVX-19 SKYLANCE群も脇のハンガーに並び、どれを予備投入に使うかまで検討が始まっていた。


 そこへ、一人の作業着の少女が現れたのは二日目の朝だった。


 誰が連れてきたのか曖昧だった。派遣だと言う者もいれば、別チームから回された臨時要員だと言う者もいた。灰色の作業着、汚れた工具ポーチ、帽子の下へ押し込んだ黒髪。細身で、小柄で、ほとんど喋らない。名札にはありふれた偽名が印字されていたが、誰もそれをろくに見ていなかった。現場は人手不足で、経歴確認より手を動かせるかどうかが優先されていたからだ。


 最初に彼女へ違和感を抱いたのは、ケーブル担当の中年技師だった。


 複雑に入り組んだ駆動補助線の束がひとつ、設計図と実機で微妙に合っていない。誰もが面倒がって後回しにしていた箇所を、その少女は指摘もせず、工具箱から必要な端子だけを抜き出し、無駄のない手つきで組み直してしまった。おかげで補助系統のノイズが半分以下になる。技師は思わず「前いたっけ?」と尋ねたが、少女は曖昧にうなずいただけだった。


 次に目をつけたのは、関節駆動を担当する若い整備員だった。

 M-22由来の関節機構は軍用で頑丈だが、そのまま怪獣的な外装を被せるには癖が強い。動きが重くなり、横方向の踏ん張りで不自然な遅れが出る。その整備員が苦戦していると、少女は背後から静かに工具を差し出し、何も言わず調整点を指で示した。示された通りにやると、嘘のように挙動が安定した。


「……君、どこの班?」


 聞いても、返事は短い。


「手が空いてるところ」


 それだけだった。


 現場ではそういう人間が、時々、奇跡のようにありがたく、同時に不気味でもある。上司の顔色を窺わず、余計なことを言わず、しかし必要な場所へ自然に現れて必要な仕事だけをこなす。人手が足りない時ほど、そういう存在は歓迎される。誰も深く追及しない。助かるからだ。


 少女は三日目には、溶接、配線、制御補助、装甲固定の全部に顔を出していた。しかも、どこでもさりげなく最適解に近いことをする。図面の欠陥を見抜き、材料のクセを読み、限られた部材で本来以上の動きを引き出す。作業者たちはしだいに彼女を頼るようになった。

 無口なあの子に見せれば早い。あの子なら、たぶん何とかする。

 そういう言葉が、整備棟のあちこちで囁かれるようになった。


 けれど後になって思い返せば、誰一人、彼女が最初にどこから現れたのかを説明できなかった。


     *


 SABLEの調査は、静かに波紋を広げた。


 彼女は大騒ぎしなかった。ただ、代替派の説明資料にあるM-22関係の記述を妙に細かく確認し、企業群の担当者へ何度も同じ箇所を質問し、GLASS VEILの安全計画会議で「この脅威演出、本当に管理できるの?」と繰り返した。その問いは表面上はもっともだった。守護像として前に立たされる以上、自分へ向けられる“試練”の中身を知る権利はある。だが、大人たちはそこに別の意図を感じ取った。


 彼女は、M-22の隠蔽の匂いを嗅ぎつけている。


 その認識が、企業群を一気に焦らせた。


 企業群にとって、今の新開市でSABLEは無視できない存在だ。彼女は単なる外部タレントではない。群衆誘導、警備広報、都市演出、その全部の接点に立たされている。彼女が「これはおかしい」と言い始めれば、代替派の構想に亀裂が入るだけでなく、企業群自身の立場も危うくなる。だからこそ彼らは、依頼通りの“対SABLE用M-22改造ドローン”を一刻も早く完成させ、シナリオを先へ進めたかった。


 だが現場は、完成へ近づくほど妙な安定感を見せ始めていた。


 本来なら突貫工事で軋みが出るはずの機体が、異様なほど滑らかにまとまっていくのだ。接合部は美しく、補助制御は整理され、死角となるセンサー配置まで自然に補われている。監督者は「現場が珍しく頑張っている」と喜んだが、長く機械を見てきた技師ほど、逆に薄気味悪く感じた。


 誰か一人、全体を見通している。


 そんな完成度だった。


 巨大な機体は、当初のコードでは味気ない番号で呼ばれていた。だが現場では、いつのまにか別の呼び名が囁かれ始めていた。誰が最初に言い出したのかはわからない。けれど一度口にされると、その名は妙に機体へ馴染んだ。


 ブージャム。


 古い言葉遊びのような、不吉で、どこか滑稽で、しかし聞いた者の背中に小さな寒気を残す名だった。


「おい、誰だそんな名前つけたの」


 監督が苛立って訊ねても、誰も答えなかった。作業員たちは曖昧に笑うだけだ。だが、その名は消えなかった。機体搬入の指示書の端に、誰かが小さく書く。調整メモにも略号のように残る。やがて、現場の多くが番号よりその名で呼ぶようになった。


 そして、完成予定の前夜。


 ブージャムは消えた。


 朝の点呼で最初に異変へ気づいたのは、夜勤明けの警備員だった。整備棟の奥の格納スペースが、不自然に広い。そこにあるはずの巨体が、ない。固定具が外され、床には重機搬出の痕跡らしき擦れが残っている。だが出入口の記録はおかしい。大型シャッターは正式には開いていないはずなのに、内側の電源ログだけが短く乱れている。監視映像は、決定的な数分だけノイズで崩れ、煙が薄く流れたような灰色の乱れしか残っていなかった。


 そして、あの作業着の少女もいなかった。


 技師たちは最初、盗難だと思った。次に、内部犯行だと疑った。さらに、代替派の別ルート搬出かと推測した。だがどれも噛み合わない。あの巨体を、こんな短時間で、誰にも気づかれず、どうやって。議論は一瞬で怒号へ変わり、責任の押し付け合いが始まる。監督は顔を真っ赤にし、警備責任者はログの改竄を否定し、設計側は「現場が勝手に名前をつけるからこうなる」と意味不明な怒り方をした。


 そこへ代替派から一本の通達が入る。


 GLASS VEILのステージ計画は動かす。依頼は完遂すること。


 企業群は青ざめた。ブージャムは消えた。だがイベントは止められない。SABLEを中心とした演出計画は観光、警備、興行、全部が絡んでいる。ここで中止すれば、代替派だけでなく企業群自身の失点になる。

 急遽、代替案が決まった。


 修理の完了したVX-19 SKYLANCEを一機、怪獣役として再構成し、ステージ周辺へ投入する。


 もともとVX-19は可変型ドローンであり、演出用の外装ユニットを被せれば、十分に“脅威”らしく見せることができる。正規プランよりは粗い。だが、ないよりましだった。


「とにかく予定通りにやるしかない」


 企業群の責任者は、そう言うしかなかった。


 だがその声の裏にある焦りを、現場の誰もが聞き取っていた。


     *


 その日の新開市は、ひどくよく整っていた。


 GLASS VEILのステージは観客導線も避難経路も見事に整理され、折原の設計した“映え”のラインが、群衆を過不足なく定位置へ運んでいく。大型スクリーンにSABLEの顔が映るたび、歓声は自然に波の形を取り、企業ヒーローたちはその縁を滑るように配置につく。フルーテッドも広域対応の位置で待機している。

 誰の目にも、イベントは成功へ向かっているように見えた。


 SABLEはステージ裏で、短く息を整えていた。衣装係が最後の襟元を直し、通信スタッフが耳元で安全確認を告げる。だが彼女の意識は、それらの半分しか聞いていなかった。M-22の匂いは消えていない。企業群の説明はまだきれいすぎる。折原の顔色もおかしかった。そして、どこかにアリスがいるかもしれないという感覚が、ここ数日ずっと消えない。


 アリスが自分を見ているのかもしれない。


 その想像は、SABLEを少しも安心させなかった。むしろ、胸の奥を冷たくした。自分はいま、街に“第二のゴースト”と呼ばれようとしている。だが本物がそれをどう見ているのか、想像がつかない。怒っているのか、呆れているのか、それとも、もう見限っているのか。


 ステージ進行の秒読みが始まる。


 観客の熱は上がり、演出照明が空を切り、ドローンカメラが上空を旋回する。予定ではこのあと、改造SKYLANCEが制御された脅威として出現し、SABLEを中心とした導線と企業ヒーローの支援によって“管理された勝利”が演出されるはずだった。


 その通りに、VX-19 SKYLANCEは現れた。


 外装ユニットを重ねられ、獣じみたシルエットを持たされた機体が、ステージ正面の広場へ降下する。観客がどよめき、警報演出が鳴り、企業ヒーローが配置へ走る。フルーテッドも別導線から接近を開始した。スクリーンには緊急モードの表示が灯り、誰もが“試練”の始まりだと理解した。


 だが、その前に。


 何かが、空の低い位置を横切った。


 最初は煙に見えた。照明の裏を抜ける灰色の影。次に、それが単なる煙ではなく、重量を持ったものだと気づく。観客の何人かが空を指差し、悲鳴に似た声を上げた。SKYLANCEのセンサーが反応し、首にあたるユニットを振る。


 その瞬間、巨大な影がステージ前へ降り立った。


 重い着地音が広場の床を震わせる。


 M-22由来の骨格。だが、企業群が設計した怪獣とは明らかに違う。装甲は必要な場所だけが厚く、無駄な威圧感より動きやすさを優先している。関節は獣のようでありながら、兵器らしく正確だ。頭部の輪郭はどこか不気味に尖り、背部のシルエットにはアリスの既存ドローンたちに通じる、奇妙な均整があった。怪獣と呼ぶには洗練されすぎ、ドローンと呼ぶには生き物めいている。


 ブージャムだった。


 企業群が失い、名だけが残ったはずの機体が、いま明らかに別の意志の下でここに立っている。


 観客席の一角で誰かが叫んだ。

「何あれ……!」


 ステージ袖の責任者は蒼白になり、通信回線では命令が重なってノイズになる。企業ヒーローの何人かは一瞬、足を止めた。自分たちが対処するべき脅威が、想定していたものと入れ替わっている。フルーテッドの機体も進路計算を修正し、わずかに遅れた。


 その全部より先に、ブージャムは動いた。


 SKYLANCEが演出用の威嚇姿勢を取るより早く、ブージャムは低く滑り込んだ。巨大な機体とは思えない静かさで間合いを詰め、側面の死角へ入る。次の瞬間、SKYLANCEの可変翼の基部を正確に打ち抜き、その姿勢制御を乱した。

 会場が息を呑む。


 あまりに見覚えのある戦い方だった。


 真正面から潰すのではない。相手が“見せるつもり”で作ってきた形を、死角から壊す。管理された脅威を、管理不能の現実へ引きずり落とす。アリスのやり方だ、と何人もの人間が同時に思ったはずだった。


 SABLEはステージ袖からその光景を見ていた。


 目を見開くことはしない。ただ、胸の奥に何かがはっきり落ちる。


 来た。


 本物が、ではない。

 本物の意志が、ここへ来ている。


 ブージャムの動きは激しいのに、どこか静かだった。吠えもしない。無駄に破壊もしない。SKYLANCEの動線だけを削り、ステージ正面と観客導線の間へきっちり楔のように入り込む。まるで「ここから先へは通さない」と線を引くためだけに立っているようだった。


 企業ヒーローたちがようやく包囲へ動き出す。フルーテッドも上空から進入する。だが、誰もすぐには撃てなかった。撃てば観客導線に影響が出る。しかもブージャムは、観客から最も危険を遠ざける位置にいる。脅威のはずなのに、動きだけ見れば守っているようにしか見えない。


 折原は管制席からその全景を見て、指先が冷たくなるのを感じていた。


 彼の設計した列は、たしかに機能している。観客は大パニックには陥っていない。だが、その列の中心にある意味は、今まさに別のものへ奪い返されつつあった。

 代替派が作りたかった“新しい守護像”ではない。

 制度化された第二のゴーストでもない。

 誰にも許可を取らず、誰のシナリオにも従わず、それでも最も正確に危険の前へ立つもの。


 折原は思った。


 やはり始まったのだ、と。


 アリスは帰還宣言などしない。帰ってきたとも言わない。そんな必要がないからだ。彼女はただ、都市が隠したいものを見つけ、奪われた意味を取り返し、必要な場所へ自分の線を引き直す。そのやり方で、もう一度街に噛みつき始めている。


 SKYLANCEが体勢を立て直し、再びブージャムへ向き直る。広場の照明が、その異形を青白く照らした。

 その背のどこか、装甲の影の縁に、ほんの一瞬だけ白いものが見えた気がした。


 フードのように。


 だが、それが本当に見えたのかどうか、折原には確信が持てなかった。


 SABLEもまた、同じものを見たのかもしれない。彼女は袖から一歩前へ出た。スタッフが慌てて止めようとするのも聞かず、赤く染まり始めた照明の向こうを見つめる。その視線の先で、ブージャムはもう一度低く身を沈めた。SKYLANCEの次の動きを読み切っている機械の姿は、ひどく頼もしく、同時に恐ろしかった。


 企業群は何かを叫び、代替派は回線の向こうで怒鳴り、ヒーローたちは位置を修正し続ける。誰もが状況を制御しようとしている。だが、制御という言葉そのものが、今この瞬間だけは空虚に聞こえた。


 新開市の中心で、管理された脅威と、奪い返された怪獣が向かい合っている。


 その間に引かれた見えない線の持ち主を、折原は知っていた。

 SABLEも、おそらく気づいている。

 だが街の大半はまだ、知らない。


 白いフードの少女は、表舞台へ戻る前に、まず怪獣の名前を奪ったのだと。

 そしてその怪獣は今、企業ヒーローやフルーテッドよりも早く、誰よりも正確に、守るべき場所の前へ立っているのだと。


 ブージャムが一歩、前へ出る。


 その動きはあまりに自然で、折原は思わず息を止めた。

 あれはもう企業群の兵器ではない。

 M-22の残骸でもない。

 アリスの側へ引き取られ、再定義された、新しいドローンだった。


 そしてその事実こそが、代替派の夢へ最初に入った亀裂だった。

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