第270話 ゴーストの不在証明
新開市は、喪失に慣れる速度だけは早かった。
それは復興都市の強さとも、広告都市の冷酷さとも言えた。ひとつの象徴が消えれば、次の象徴が直ちに必要になる。空白は恐怖を生み、恐怖は管理の失敗を意味し、管理の失敗は観光と投資の損失に直結する。ゆえにこの街では、誰かを失った悲しみより先に、失われた誰かの代わりが設計される。
アリスが姿を消してからの新開市は、まさにその法則に従って動いていた。
駅前の巨大スクリーンには、GLASS VEILの映像が昼夜を問わず流れていた。夜の観光導線を紹介する映像、緊急時避難の啓発映像、中立フェスにおける安全行動の案内映像、そのどれにもSABLEがいた。彼女は以前と同じく無表情に近い顔でカメラを見つめ、短い言葉で観客を導いていたが、問題は内容ではなかった。彼女の立ち位置が、すでに「客演する海外アイドル」ではなくなっていたことだ。
彼女は今や、新開市の“新しい守護像”として扱われていた。
ドローン警備会社の標準手順書には、群衆密度の異常上昇時に「SABLE演出チャンネルと連動する臨時誘導モード」が追加され、企業群の広報では「人流の自律的安定化を促す次世代型ビジュアル・ガイド」といった仰々しい言葉が踊っていた。観光協会の一部は、これを“市民参加型の安心デザイン”と持ち上げた。企業ヒーローの現場マニュアルにまで、「先導権を取るのではなく、SABLE中心の群衆流動を阻害しない支援配置を優先すること」という文言が書き加えられたと聞く。
アリスは、ひとりの少女としては消えた。だが、“アリス的なもの”はむしろ増殖を始めていた。
その中心にいたのが、オールドユニオンの代替派である。
彼らはついに、長く温めてきた構想を本格始動させた。新開市で一度だけ奇跡のように成立した“ゴースト”を、再現可能な現象へと分解し、設計し、国際興行の規格に載せる計画。海外アイドル・バンドグループを媒体に、「都市に接続される守護像」を量産する計画。呼び名はいくつもあったが、内部では最も単純で、最も傲慢な言い方が定着しつつあった。
アリス量産計画。
その中核としてSABLEが選ばれたことに、異を唱える者は少なかった。彼女には才能があった。群衆の目線を奪い、散乱しかけた空気をひとつの方向へ整え、その場にいる者たちに「ここにいてもいい」と錯覚させる才能。単なる歌や踊りの巧拙ではない。存在の輪郭そのものが導線として機能する、稀有な資質。折原連はその事実に、ある種の感動さえ抱いていた。
列でできた人は、もっと先へ行ける。
それが最近の折原の口癖になっていた。
彼はオールドユニオン代替派の臨時設計室に出入りし、ホログラム上に幾本もの動線モデルを重ねながら、夢中で語った。都市の群衆はもう生の偶発に頼る必要はない。人は列に並ぶとき、自分の意思の一部を周囲へ委ねる。そこへ音、光、期待、そして象徴を適切に与えれば、群衆は単なる集合から、都市を支えるひとつの器官へ進化できる。アリスはその先駆例だった。だが彼女は天然で、不安定で、再現不能だった。ならばSABLEを起点に、より精密に、より拡張的に、より安全に、“巨大なアリス”を作ればいい。
彼の言葉は、理屈の形をしていた。だが内実は信仰に近かった。
代替派は折原を歓迎した。彼の設計は群衆の心理に踏み込み、導線屋の非公式な知見と企業的な最適化を奇妙な均衡で両立させていた。しかも彼は、アリスそのものに執着しているようでいて、最後には「都市に必要なのは人ではなく接続点だ」という結論へ滑っていく。都合がよかった。
企業群もまた、その熱から逃れられなかった。
彼らは当初、アリスの代わりを自分たちで作れると思っていた。企業ヒーローを前面に押し出し、可変型ドローンVX-19 SKYLANCEの戦術映像を盛り、勇敢さと管理能力を演出すれば、危機対応と都市観光を両立する新しい主役になれるはずだと。しかし現実は逆だった。ヒーローは強いが、群衆の心そのものは掴めない。彼らは守れる。制圧もできる。だが、人々の不安を自発的な熱狂へ変えることはできない。そこにSABLEが現れ、折原が“列”を与えた。
勝負はついていた。
企業群は敗北を認めたわけではない。ただ、配置転換を受け入れたのだ。主役を諦め、相棒役へ回る。アリスの代わりにはなれない。ならば義弘のように、象徴に付き従い、支え、危険を現場で処理し、政治と物流を引き受ける側へ回ればいい。企業ヒーローたちは下請けのような形でオールドユニオン関連案件に投入され、表向きは共同警備、実態としては“新しい守護像”の脇を固める装置となった。
シラヌイは、その報告書を読み終えたとき、しばらく黙っていた。
彼女は企業ヒーロー側の待機室で、薄い端末を机に置き、無機質な白壁を見つめた。部屋の隅では、整備員が装備ケースを閉じる金属音を立てている。新しいシフト表には、自分の名の横に「SABLE連動警備支援」「GLASS VEIL導線補助」「代替派主催イベント応急対応」などの文字が並んでいた。どれも英雄譚にはなりにくい仕事ばかりだった。だが危険は減っていない。むしろ増している。主役でなくなった現場ほど、責任の所在が曖昧になるからだ。
彼女はアリスを思い出した。
白いフード。片目を隠す黒髪。静かで不機嫌そうな赤い瞳。人を寄せつけないようでいて、危険の中心には必ずいた少女。あれが新開市にとって何だったのかを、今になって多くの者が理解し始めている。だが理解した頃には、本人はいない。
いない者の形だけを街が奪っていく。
シラヌイはそれを、ひどく不快に思った。
義弘がOCM海外部門の動きを掴んだのは、午前五時四十二分だった。
まだ夜と朝の境が曖昧な時間、執務室の外には薄い青色の光が差し込んでいた。彼はほとんど眠れないまま、机の上の端末群を順に見ていた。医療物流、観光警備、中立フェス準備会議、アライアンスとの調整資料、企業群の協定更新案、そのどれもがアリス失踪後の歪みを反映している。日常業務の文面で取り繕われていても、都市の深部では均衡が崩れていた。
そこへ、古い回線から通知が入った。
送り主は、OCM海外部門に食い込ませていた細い協力線のひとつだった。内容は簡潔だったが、その簡潔さがかえって危険を示していた。準備不足のまま、OCM海外部門が再進入を計画している。人数は限定的。重装備の本隊ではない。だが斥候、交渉担当、工作要員、調達要員が混ざっている。目的は「現地の再評価」としか書かれていない。しかし義弘には十分だった。
アリスがいないから来るのだ。
新開市にOCM海外部門が直接手を出しにくかった理由は、ひとつではない。アライアンスの目があること。オールドユニオンとの均衡があること。だが何より、義弘とアリスの組み合わせが読みづらかった。政治と実務、表と裏、公式と非公式、その両方が手を繋いでいる都市は扱いにくい。表の交渉だけでは崩せず、裏の工作だけでも足場が定まらない。だから彼らは距離を取ってきた。
今は違う。
アリスが欠けた。その一点だけで、都市の見え方は激変する。
義弘は椅子から立ち上がった。視線は机の端に置かれた療養施設の配置図へ向く。NECROテック患者の一部を受け入れている施設群。その存在は、表向きには慎重に伏せられている。だが完全な秘匿は不可能で、金と恨みと好奇心のある者は必ず辿り着く。OCM海外部門が新開市の再評価に来るということは、いずれそこへ目が向くということだった。
アリスが守ろうとしていたものを、奪わせるわけにはいかない。
義弘は必要な名を頭の中で並べた。古い同盟筋。物流会社の社長。港湾管制の窓口。監視網更新に関わる技師。中立フェス警備の名目で動かせるチーム。公式には使えないが、頼めば動く人間もいる。時間がないなら、彼自身が先に秩序を作るしかない。
しかし、その最初の電話をかける前に、来訪者があった。
アライアンス使節だった。
使節は朝に似合わぬ整った顔で、濃紺のスーツをほとんど乱さず執務室に入ってきた。年齢は義弘より幾分若いが、目元にある疲労の影は深い。おそらく彼もまた、昨夜から休めていないのだろう。だがその疲れは、人を守るためのものというより、均衡を崩さないための計算が連続しているときの疲れに見えた。
「早い時間に失礼します」
「それほど急ぎの話ということだろう」
義弘は促すように座ったまま言った。使節も座る。しかし背筋は少しも緩まない。
「OCM海外部門に関する情報を掴まれたそうですね」
「耳が早いな」
「早くなければ、ここへ送られていません」
使節はそう言ってから、わずかに声を落とした。
「先に申し上げます。独自行動はお控えください」
義弘は表情を変えなかった。だが机の上に置いた指先が、わずかに硬くなる。
「療養施設を守るための根回しも含めて、か」
「それを含みます」
「中立を理由に?」
「中立は理由ではなく、構造です」
義弘はそこで、初めて相手の顔を正面から見た。
「構造か。便利な言葉だな。誰かが襲われるときには止める理由にならず、誰かを守ろうとするときだけ制止の根拠になる」
使節は一瞬だけ黙った。怒りを買うことは織り込み済みなのだろう。そのうえで来ている。
「お気持ちは理解します」
「理解している顔には見えん」
「理解しても、認められないことはあります」
部屋の空気が冷えた。
使節は続けた。
「OCM海外部門が準備不足で戻ってくるということは、彼らもまだ攻勢の形を定めていないということです。こちらが先に過剰反応すれば、口実を与えます。アライアンスが一方的に特定勢力を排除しようとしている、と」
「では待てと?」
「観測し、証拠を揃え、正式な枠組みで押さえるべきです」
「その間に施設の位置が割れたらどうする」
「その可能性も含めて、全体最適で——」
「全体最適」
義弘はその言葉を反芻し、低く吐き出した。
「現場で誰かが傷ついても、それが全体最適なら許容すると。ずいぶん上品な言い換えだ」
使節の顔色が、ごくわずかに変わった。
「あなたが感情で動いているとは思いません」
「だが止めに来た」
「はい」
「なぜだ」
「あなたが動けば、周囲も動くからです。あなたは今、この街の一部にとってまだ重みがある。だからこそ、その重みを個別防衛に使われると、均衡が崩れます」
義弘はそこで理解した。
使節が恐れているのは、OCM海外部門そのものではない。義弘が“私的に守る”という事実が、公的な秩序の外に新たな秩序を生むことだ。アリスがそうであったように。あるいはアリス不在の今、義弘までが制度の外へ踏み出すことを恐れている。
つまり彼らは、もう義弘すら“管理対象”として見ている。
その瞬間、義弘は自分の胸の内に冷たい疲労が沈んでいくのを感じた。怒りよりも深いところで、何かが静かに削れていく感覚だった。
「……君たちは」
義弘は低く言った。
「アリスが何をしてこの街を保っていたのか、最後まで理解せんままだな」
使節は答えなかった。
答えられないのではなく、答える資格がないとわかっている顔だった。
その沈黙を切ったのは、義弘の端末に入った着信だった。
表示された名を見て、義弘は眉を動かした。
アザド。
アザドの声は、相変わらず無駄がなかった。
『時間を取らせる。今、話せるか』
「話せる」
義弘は使節を一瞥した。相手は席を立たない。聞くつもりらしい。義弘も追い出さなかった。
『こちらとしては率直に言う。アリスを探したい』
それは予想できる言葉だった。だが、アザドがそこまで直接的に言うのは珍しかった。
「代替派は“新しい守護像”で満足していると思っていたが」
『代替派はそうだ。私は違う』
「情で動いているようには聞こえんな」
『情だけなら、お前に電話はしない』
アザドは平坦な口調のまま続けた。
『アリス不在のままでは、オールドユニオン内部の均衡が崩れる。代替派は成功体験を得て、他派閥の抑制を聞かなくなる。SABLE個人の資質に依存した構造を、普遍的制度として押し通し始める。それは長期的に見て危険だ』
「危険、か」
『新開市にとっても、我々にとってもだ。アリスは例外だった。例外であったからこそ、皆が自分の都合のいい意味を勝手に貼り付けながらも、最後には例外として恐れていた。代替物が制度になると、恐れは消える。恐れが消えれば、使い潰しが始まる』
義弘は黙って聞いた。
使節もまた、口を挟まない。
『お前の側で追跡はしているはずだ』
「している。だが拾える足跡が少なすぎる。監視網の盲点を抜けたというより、最初から盲点だけを歩いているようだ」
『アライアンスでも同じか』
アザドの声に、わずかな硬さが混じった。義弘は隣の使節へ視線を移さず答える。
「同じだ。正規の網では追えん」
『M-22も消されつつある』
「聞いている」
『利用価値があると判断された。代替派にとっても、企業群にとっても、あれは過去の失策ではなく、今後使える軍用資産だ。責任追及は後回しにされる』
義弘の目が細くなる。
アリスを追い詰めた原因のひとつが、政治的有用性によって塗り潰されていく。その事実は、彼の内側で長く燻っていた怒りに静かに火を入れた。
「つまり、彼女を失踪に追い込んだ経路ごと消されるわけだ」
『そうだ』
「……都合のいい話だな」
『都合がいいからこそ通る』
アザドは間を置いた。
『義弘。お前の力が要る。表の網、物流、合法の照会権、使えるなら使ってほしい』
「アライアンスが止めている」
『知っている。だからこそ、お前に頼んでいる』
義弘はそこで、ようやく小さく息を吐いた。アザドはアライアンスの中立性を信じていない。義弘個人の判断を、あるいは逸脱を、むしろ期待している。
「……見つけたとして、どうする」
『まず保護する。代替派より先に』
「お前がそれを言うのか」
『私は手順の人間だ。手順を守るために、今は例外が必要だと判断している』
それはアザドなりの本音だった。
義弘は通話を終えたあと、しばらく端末を置いたまま動かなかった。執務室には朝の光がさらに差し込み、机の上の書類の影を短くしていた。隣の使節は無言で座っている。彼もまた、今の会話が意味するものを理解したはずだ。
「聞いたな」
義弘が言うと、使節は静かに頷いた。
「ええ」
「それでも、待てと言うのか」
使節は苦い顔をした。若く見えるその顔が、ようやく年相応以上に疲れて見えた。
「……言います」
義弘は椅子に深く座り直した。怒鳴る気力は、もうなかった。
「なら君たちは待て。私は考える」
使節はその言葉の曖昧さに気づいたはずだが、追及はしなかった。ただ席を立ち、礼だけして部屋を出ていった。その背中を見送りながら、義弘は思った。
中立とは結局、痛みの分配を遅らせる技術にすぎないのではないか。
だが遅らせた痛みは、誰かが先に引き受ける。そしていつも、その役を押しつけられるのは、制度の外にいる者たちだった。アリスのような。
折原連は、最近よく視線を感じていた。
街を歩くとき、列に混じるとき、イベント設営の確認をするとき、ふとした瞬間に背中の皮膚が薄く粟立つ。見られている。だが見える位置には誰もいない。気のせいではないと彼が判断したのは、三度連続で導線の死角を抜けた直後にも、その感覚が切れなかったからだ。
追跡者がいる。
しかも素人ではない。
折原はそれを面白いと思った。恐怖より先に好奇心が立つのが、彼の悪い癖だった。誰が自分を追うのか。OCM海外部門か、企業群の反主流派か、代替派に乗り切れない旧来の導線屋か。あるいは、SABLEに近づきすぎたことを快く思わない者たちか。彼は仮説をいくつも立て、そのどれにも少しずつ惹かれた。
その日の夕方、彼はわざと追跡しやすい経路を選んだ。中立フェスの準備で人通りが多い区画。仮設案内板の更新に人が群がり、企業ヒーローの移動車両が緩く交通を切り、観光客と作業員と地元住民の列が交差している場所。こういう場所では、折原は強かった。人の流れの濃淡、立ち止まりやすい点、視線の引っかかる色、警備の隙間、全部が地図として見える。彼は人波に体を滑り込ませ、速度を落とし、上げ、横に抜け、いくつかの群れの間を縫った。背後の気配がついてこられるなら、かなりの手練れだ。
だが、気配は消えない。
折原は心の中で笑った。
いい。ならば逆に炙り出す。
彼は駅前広場の外周で、わざとスクリーンの前に立ち止まった。大型映像にはSABLEが映っている。彼女が無機質な口調で避難経路の案内を読み上げるたび、周囲の視線が自然と前へ流れる。その瞬間の死角を使い、折原は身を翻した。通常ならこれで、後ろについた人間の顔を拾える。だが拾えなかった。
代わりに、奇妙なことが起きた。
人波が、わずかに傾いたのだ。
ただの偶然に見える程度の変化だった。若い観光客の集団がひとつ右へ寄る。警備ドローンが低空で通る。ベビーカーを押した親子が足を止める。立て看板の前に写真を撮る列ができる。どれも単体では不自然ではない。だが連続すると、流れの形が変わる。折原が抜けようとした空間が、塞がれていく。
彼は眉を上げた。
このやり方を知っている者は少ない。人を直接押すのではなく、小さな判断の連鎖で自発的に道を変えさせる。しかもその精度は荒いが、目的は明確だった。彼を、ある方向へ追い込んでいる。
折原は歩速を上げた。ならばこちらも導線を切り直す。裏通路に逃げ、搬入口を抜け、工事フェンス沿いの細い道へ出れば——
そこでも流れが待っていた。
作業員が二人、荷台を押してくる。通学帰りらしい学生が狭い歩道にたまり、ひとりが落としたイヤホンを拾うためしゃがむ。通報を受けた小型警備ドローンが、頭上で一瞬静止する。折原は立ち止まりそうになった。自分の知る列が、自分の手から離れている。設計者が利用者に回ったときの不快さが、初めて彼の背筋を冷やした。
誰だ。
彼は初めて本気でそう思った。
心拍が上がる。呼吸はまだ乱れていない。だが、街のノイズが違って聞こえ始めていた。広告音声、通行人の会話、足音、ドローンの羽音。そのすべてが、自分を追い立てる背景音のように思える。
折原は最後のつもりで、人の少ない管理外導線へ踏み込んだ。古い商業区画と再開発区画の境目、行政も企業もまだ完全には手を入れていない裏道。表のスクリーンの光は届かず、夕方の残照だけが壁面を鈍く照らしている。排気の匂い、湿ったコンクリート、古い配線箱。人の目が薄くなる代わりに、街の生々しい臓腑が剥き出しになる場所だった。
そこでようやく、折原は立ち止まった。
逃げ道はまだある。角を二つ曲がれば、資材置き場に出られる。反対へ抜ければ、搬送車両の待機線に紛れられる。頭の中では経路がいくつも描けた。だが足が動かなかった。
気配が、正面にあったからだ。
路地の奥は暗く、日が落ち始めた空の残り光が、かろうじて輪郭だけを浮かべている。
そこに、少女が立っていた。
白いフードを被った細い体。肩に落ちる黒髪。その前髪は深く片目にかかり、見えているほうの目だけが、暗がりの中で赤く冷えていた。学生風の華奢な輪郭のまま、だが以前よりどこか、輪郭が街の影と繋がっているように見える。ひとりの人間が立っているのに、同時に監視網の死角とノイズと裏導線そのものが、そこへ集まって立っているような錯覚。
折原は、喉の奥が乾くのを感じた。
彼はずっと“巨大なアリス”を考えていた。群衆の中に拡張され、都市の表面を覆い、誰もが安全の象徴として見上げることのできる像。SABLEを核に、列と映えと音と期待で作る、新しい守護像。
だが今、目の前にいるのはそんなものではなかった。
都市に消費される偶像でも、制度に接続された記号でもない。
ただひとりで、それでも都市の奥に潜り込み、誰にも見つからないまま逆にこちらを見つけてしまう、本物の“ゴースト”だった。
アリスはしばらく何も言わなかった。
その沈黙が、折原には言葉より重かった。逃げようと思えば逃げられるはずだった。だが彼は理解してしまっていた。ここに来るまでの列は、彼女が作ったのだ。完璧ではない。粗い。都市全体を手に入れたわけでもない。だが十分だった。十分すぎた。彼は自分が、気づかぬうちに彼女の掌の上へ導かれていたと知った。
「……生きてたんだね」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど乾いていた。
アリスはわずかに首を傾けた。怒っているようにも、呆れているようにも見えない。ただ、ひどく静かな顔だった。
「勝手に、いなくしただけでしょ」
低い声が、路地の壁に短く跳ね返る。
折原は息を呑んだ。
その言い方には激情がなかった。責めるというより、事実を確認するような声音だった。だからこそ痛かった。
「君を探してる人は多い」
「知ってる」
「義弘も」
そこで初めて、アリスの赤い目がほんの少しだけ揺れた。だが揺れは一瞬で消えた。
「……だから、先にあんたに会いに来た」
折原は眉を動かした。なぜ自分なのか。その問いはすぐ言葉にならなかった。
アリスは一歩、暗がりから前へ出た。白いフードの縁に夕方の薄光が触れ、彼女の顔の線を浮かび上がらせる。以前より痩せて見える。だが脆くは見えない。眠りと修理と孤絶の時間が、彼女から余計な揺らぎを削ぎ落としていた。
「今の街、あんたが繋いでる」
折原は否定しなかった。
「少しだけ、ね」
「少しじゃない。SABLEも、列も、映像も、企業も、全部、あんたが気持ちよくなる形に整えてる」
淡々とした言葉だった。だが、その一語一語が折原の胸の奥へ薄い刃のように入ってくる。
「僕は進めてるだけだよ。止まったら、この街は空白を怖がる。君だって知ってるはずだ」
「知ってる」
「なら——」
「だから嫌だった」
アリスが言った。
折原は言葉を失った。
「みんな、空白が嫌い。だからすぐ埋める。何で埋めてもいい。似てればいい。きれいならいい。守ってるみたいに見えればいい」
彼女の声は小さい。怒鳴りもしない。だが路地の暗さの中で、その静けさだけが異様に澄んでいた。
「でも、あれは違う」
折原は、思わず問い返した。
「何が」
アリスは赤い目でまっすぐ彼を見た。
「“ゴースト”は、並べるものじゃない」
折原の背筋に、冷たいものが走った。
それは思想の否定だった。代替派の計画も、折原の構想も、企業群の転向も、その中心にある前提を一言で断ち切る否定。
折原は苦笑に似たものを浮かべようとしたが、うまくいかなかった。
「……それを言うために、僕をここへ?」
「半分」
「もう半分は?」
しばらくの沈黙のあと、アリスは言った。
「M-22のこと、消させないで」
その言葉に、折原の顔色が変わる。
やはり彼女は知っている。いや、知っている以上に、追っているのだ。自分を追い込んだ原因が、いま政治と実利の中で塗り潰されようとしていることを。
「……難しい注文だね」
「知ってる」
「代替派も企業も、あれを手放したくない」
「知ってる」
「それでも?」
アリスは頷かなかった。ただ目を逸らさずにいた。その目には、かつての怯えとは違う種類の冷たさがあった。奪われることを恐れて隠れた少女が、隠れたまま、奪った側の構造を見てしまった目だった。
「消えたままにしたら、次も同じになる」
折原は返答できなかった。
路地の上を、遠くのドローン音が横切っていく。表通りではまだSABLEの映像が流れ、人々が新しい守護像を見上げているのだろう。企業ヒーローたちはその周囲を固め、義弘は療養施設を守るために政治と押し問答を続け、アザドは手順を破るための手順を考えている。その全部の外側で、目の前の少女だけが、都市の深部から別の線を引き始めている。
折原はその事実に、初めて、心の底から戦慄した。
自分は“巨大なアリス”を作ろうとしていた。だが本物のアリスは、巨大になる必要などなかったのだ。群衆に担がれなくてもいい。スクリーンに映されなくてもいい。彼女はただ、見つかってはならない場所から、必要な人間を先に見つけてしまう。
都市の主導権は、まだ完全には移っていない。
そのことを、折原はようやく理解した。
「……義弘には」
折原が慎重に口を開くと、アリスはわずかに目を細めた。
「まだ、言わないで」
「君は会いたくないのか」
「違う」
その返答だけ、少しだけ速かった。
「今は、まだ」
折原はその言葉の意味を測ろうとしたが、測りきれなかった。会いたくないのではない。会うには、まだ何かが足りないのだ。あるいは、会う前に片づけるべきことがあるのかもしれない。
アリスは路地の影へ半歩退いた。黒髪と白いフードが再び暗がりに溶け始める。
「折原」
「何」
「次に列を使うなら、気をつけて」
彼は思わず乾いた笑いを漏らしかけた。忠告とは思えない忠告だった。
「脅し?」
「確認」
赤い瞳が、暗闇の中で一度だけ鋭く光った。
「今の街、もう、あんた一人の設計じゃないから」
言い終えると同時に、彼女の気配はするりと薄れた。走った気配も、足音もほとんどない。ただ、そこに立っていたはずの少女が、路地の暗さそのものへ回収されたように見えた。
折原はしばらく動けなかった。
逃げ道を計算する癖も、導線を読み替える癖も、その数秒だけは役に立たない。彼は自分の手のひらを見た。指先が、ごくわずかに震えている。
恐れているのか。興奮しているのか。両方だった。
表通りへ戻れば、新開市はこれまでどおりの顔をしているだろう。SABLEの映像が流れ、企業ヒーローが歩き、代替派は勝利の設計図を広げ、観光客は整った列に安心する。誰もが、アリスの不在を前提に動いている。
だが折原だけは、もう知ってしまった。
白いフードの少女は消えていない。
誰にも見つからない場所で、誰より先にこちらを見つけている。
新開市のどこからも失われたはずの“ゴースト”は、都市の外へ追放されたのではなかった。ただ、都市が自分を見失っただけなのだ。
そして今、その見失われた少女が、制度にも広告にも祝祭にも属さないまま、静かに街の奥へ帰ってきている。
折原はようやく息を吐いた。
自分がこれから何を選ぶのか、その答えはまだ出ない。だが少なくともひとつだけ、はっきりしたことがある。
彼が列に載せ、群衆に拡張し、都市の表面へ貼り付けようとしていたものは、最初からこの少女の代わりではなかった。
本物は、もっと暗く、もっと静かで、そしてずっと手に負えない。




