第二十七話 同じ場所
薄い味の料理は、最後まで薄いままだった。
白い皿。白い器。
上品な盛りつけ。
舌に残るのは、塩気ではなく“配慮”の形だけ。
個室の空気は冷たく、音は吸われ、匂いは薄い。
ここでは体温が浮く。
人間が、そこにいることだけが目立つ。
アリスは箸を置いた。
食べきったわけじゃない。
食べ続けると、自分の中まで薄くなる気がした。
向かいにいる氷の母は、微笑んでいる。
微笑みの角度は優しいのに、目の奥が冷たい。
その微笑は“個人”のものではない。
組織の顔だ。
テーブルの周りには、席がいくつあるのかはっきりしない。
輪郭の薄い影があり、声があり、気配がある。
名乗らない。
誰も自分を指して「私」と言わない。
「我々は――」
声が落ちる。
別の声が続く。
声色が違うのに、一人称だけが同じだから、頭がむず痒い。
「我々は中立だ」
「我々は継続だ」
アリスは舌打ちした。
「……どれが喋ってんだよ」
氷の母が、微笑のまま言う。
「我々が喋っているの」
その言い方が、いちばん腹が立つ。
そして、いちばん怖い。
義弘は黙っていた。
料理に手をつけない。
目だけが動く。
会合の目だ。
交渉の目だ。
誰かの首を落とすか、誰かに首輪をつけられる前に、出口を探す目だ。
“我々”が問いを落とした。
「所属するか」
短い。
問いの形をしているが、答えが決まっているときの言い方だった。
別の声が続ける。
「あなたは資産だ」
「守る枠を与える」
さらに別の声。
「管理下の自由は保証する」
管理下の自由。
檻の中の自由。
アリスの胃がむかついた。
薄味の料理が、急に苦くなる。
義弘が口を開いた。
「所属しない」
一撃だった。
余計な言葉がない。
だから刺さる。
“我々”の気配が、わずかに揺れた。
怒りではない。驚きでもない。
ただ、内部の計算が走った揺れ。
義弘は続ける。
「我々はインフラの装置じゃない」
氷の母の微笑が、ほんの僅かに変わった。
喜びではない。
だが、“角度”が変わる。
義弘は、視線を上げ、影を見渡した。
名もない相手へ、名を呼ぶように言う。
「守るのは人間だ」
“我々”が返す。
「人間を守るのは、インフラだ」
義弘はすぐ返した。
「違う。インフラは手段だ。目的じゃない」
その言葉が個室の空気に落ち、しばらく動かなかった。
薄い空気の中で、太い言葉だけが浮く。
義弘は続ける。
企業人の言葉ではない。
サムライ・ヒーローの言葉でもない。
“守ろうとして守れなかった”男の言葉だ。
「揺り篭の日に、俺は見た。
止まったら人間は死ぬ。
だからインフラは守る。必死で守る。――だが、それは人間のためだ」
“我々”が淡々と言う。
「正義ではない」
義弘はその言葉を受け取り、返した。
「なら我々も正義じゃない。責任だ」
責任。
その単語は、薄い味の料理より重かった。
氷の母が、微笑のまま息を吐く。
吐息が白くなりそうなほど冷たいのに、どこか満足げだった。
“我々”が言う。
「責任は、継続に帰結する」
義弘は短く笑った。
「そこは一致する。だから余計に、所属しない」
“我々”が問い返す。
「なぜ」
義弘は答える。
「所属した瞬間、守る順番が変わる」
「人間より先に、制度を守ることになる」
「俺は……もう一度それをやる気はない」
義弘の声は静かだ。
静かな声ほど、決意は固い。
アリスは、そこでようやく口を挟んだ。
毒を吐くためじゃない。
吐かなきゃ、自分が薄くなるからだ。
「晩飯で人を買うの、マジでムカつく」
“我々”は答える。
「買わない」
「選ぶ」
アリスは吐き捨てた。
「だからムカつくんだよ」
「所属しない。私は私のドローンと街を守る」
彼女の背後で、黒い影が揺れた。
シュヴァロフ。
動作制限が残っているのか、完全には動けない。
それでも、アリスの背中に“母性”の影を落とす。
双子が左右に立つ。
言葉はない。
だが、フードの縁を整える手つきがある。
支える。先回りする。守る。
アリスは続ける。
「インフラじゃなく、人間を守るサムライ・ヒーローになる」
“我々”が言う。
「あなたは犯罪者だ」
アリスは笑った。笑えない笑み。
「だから何」
「犯罪者でも、インフラ壊したくない」
「犯罪者でも、人間を潰したくない」
「……私が嫌いなのは銃と権力だ。
それが“人間を守る”って言いながら、人間を踏むことだよ」
言い終えると、喉の奥が痛んだ。
怒りの痛み。屈辱の痛み。
でも、言えた。
言えたことが、少しだけ救いだった。
氷の母が静かに言う。
「所属を謝絶するのね」
アリスは即答する。
「する」
義弘も言う。
「する」
一瞬、個室の気配が静止した。
それから、“我々”が――満足したように言った。
「理解した」
アリスの眉が動く。
「……は?」
“我々”は淡々と続ける。
「我々は従属を求めない」
「中立は、誰にも属さないことだ」
別の声が重なる。
「向く方向は違う」
「しかし辿り着く場所は同じだ」
アリスは鼻で笑った。
「意味わかんねえ」
氷の母が、微笑のまま説明する。
説明というより、宣告だ。
「人間を守る意志は、インフラを守ることにも繋がる」
「インフラを守る意志は、人間を守ることにも繋がる」
「順番の違いは、争いを生む。――でも、崩壊は同じ場所に立つ者を殺すの」
崩壊。
その言葉が、食卓の上に影を落とす。
“我々”が言う。
「だから送り出す」
送り出す。
“許可する”ではない。
“見逃す”でもない。
送り出す。
まるで、試験に合格したみたいな言い方。
アリスは歯を噛んだ。
「……気持ち悪い」
氷の母が微笑む。
そして、彼女も一人称を変えない。
「我々は、あなたたちを観測する」
観測。
採点。
答案。
義弘が言う。
「監視だろ」
氷の母は否定しない。
「そう呼んでもいいわ」
「次に迷ったら、あなたの“守り方”を選びなさい」
守り方。
責任。
継続。
義弘は、目を閉じる。
「……分かった」
氷の母が、最後に一言だけ落とす。
「行きなさい」
扉が開いた。
白い廊下が、外へ続いている。
外に出た瞬間、新開市の匂いが戻った。
油。汗。埃。屋台の出汁。
人間の匂い。
生き物の匂い。
それだけで、胸が少しだけ軽くなる。
檻の空気より、ずっと重いのに。
義弘は歩きながら、横を見る。
アリスはフードを深くかぶり、口元のスカーフを引き上げている。
怒りを隠すためではない。
表情を見せたくないだけだ。
双子が左右に張り付く。
シュヴァロフが少し遅れてついてくる。
母親みたいに、最後尾で守る。
義弘が言った。
「生きて帰れ」
アリスは即座に返す。
「死ぬなよ、ジジイ」
声がいつもより少し柔らかい。
柔らかいのが腹立たしいのか、アリスはすぐ続けた。
「……お前が死んだら、誰が面倒見るんだよ」
義弘は鼻で笑った。
「面倒を見るな」
「見るって言ってねえよ」
二人の会話は短い。
噛み合っていない。
だが、同じ場所に向かっている。
それが分かる。
夜。
新開市の外延部。
違法に増殖した町は、配管と電線が蜘蛛の巣みたいに絡み、建設途中の骨格が暗闇に沈んでいる。
屋台の灯り。
安い酒。
薄い笑い声。
ある男が、画面を見ていた。
避難所で見ていた。
飯屋で無音で見ていた。
子どものごっこ遊びを見ていた。
同じ映像を、何度も何度も。
義弘が殴る。
ドロイドが倒れる。
ゴーストが叫ぶ。
影が横切る。
影が映らない。
影が怖い。
男は笑った。
笑いは乾いている。
唇の端だけが上がり、目が笑っていない。
「……やっぱ、最高だな」
最高。
災厄。
正義。
視聴率。
男の周りには、分解されたドローンが並んでいる。
違法改造の痕跡。
安い工具。
焦げた配線。
男は手を動かした。
慣れていない手つきだ。
だが、熱だけはある。
熱があれば、人は危険になれる。
端末の画面に、コメント欄が映る。
男は自分のアカウントで、何度も同じ言葉を書いては消していた。
『次はもっと派手に』
『本物を見せろ』
『ヒーロー来い』
『ゴースト来い』
男は小さく呟いた。
「……ヒーローを呼ぶには、災厄が要る」
工具の先が、配線に触れる。
火花が散る。
小さな火花。
だが、火花は火になる。
火はインフラに届く。
インフラは世界だ。
男は笑った。
「来いよ、サムライ・ヒーロー」
その笑いは、誰にも届かない。
だが、火花だけは届く。




