第269話 眠り
新開市は、新たな熱狂を見つけていた。
熱狂は、いつもそうだ。
古い火がまだ燻っていても、次の火へ躊躇なく飛び移る。
反省しない。
めげない。
しょげない。
そして、自分たちが何を失ったかを、盛り上がりながらゆっくり忘れていく。
いま、新開市が名前を呼んでいるのはアリスではない。
SABLE。
GLASS VEILの最年少。
無表情のまま人を惹きつけ、怪獣ドローンと立ち回り、群衆とヒーローと従者ドローンを一つの流れへ接続した“戦うアイドル”。
配信の切り抜きは、もう作られている。
ニュースも、まとめも、個人の感想も、見出しだけで十分な熱を持っていた。
《新たなゴースト誕生?》
《アリスのように戦うSABLE》
《戦う偶像、世界水準》
《新開市、次の象徴を得る》
アリス“のように”。
その言葉が、何度も何度も繰り返される。
繰り返されるたびに、言葉の輪郭は少しずつ変わる。
最初は比喩。
次に称賛。
そしてやがて――置換。
アリスがいなくても、怪獣ドローンと立ち回れる。
アリスがいなくても、列を導ける。
アリスがいなくても、街は盛り上がる。
それはまさに、代替派が希望していたものだった。
オールドユニオンの代替派は大喜びしていた。
会議室の空気は静かだ。
だが、その静けさの中に、隠しきれない高揚がある。
「見たか」
「実戦で通用した」
「しかも群衆の反応が想定以上だ」
「第二の“ゴースト”は十分に機能しうる」
「ならば次だ。量産へ移行できる」
量産。
彼らは平然とその言葉を使う。
偶像だけではない。
“ゴースト”まで量産するつもりでいる。
アザドはその場にいた。
いるが、何も言わない。
口を挟まない代わりに、冷たく観察している。
SABLEは、彼にとって所詮アリスの鎖の一つに過ぎない。
人の鎖。
フルーテッドが機械の鎖なら、SABLEは感情と視線でアリスを縛る鎖。
その鎖が、ユニットを組めるほどのスペックを持つのか。
代替派はずいぶん自信があるらしい、と。
アザドはそう思っていた。
だがその感想は、口には出さない。
口にした瞬間、評価になる。
評価した瞬間、運用が始まる。
アザドは、自分の言葉が手順になることを知っている。
だから黙って、見ている。
折原 連もまた、SABLEの力に興味を深めていた。
歩道橋の陰。
屋台の脇。
人の流れの裏側。
折原は新開市のどこに立っていても、常に“列の鳴り”を聴いていた。
そして、あの日SABLEが巨大な群衆を一つの生き物みたいに動かした瞬間のことを、何度も頭の中で再生していた。
視線。
手の上げ方。
フラッシュの一斉発光。
企業ヒーローとフルーテッドの接続。
群衆の呼吸の同期。
美しかった。
想定以上だった。
折原は、自分が思っていたよりも深いところまで“列”が人格を持ちうることを知った。
だから、代替派の依頼をもう少し続けてみよう、という気になっていた。
SABLE一人に“ゴースト”の才能はない。
その見立ては変わらない。
だが、群衆を接続した時。
群衆ごと一つの人格に変えた時。
あれはもはや単独の才能ではなく、別種の“存在”だった。
折原は机に頬杖をつきながら、静かに笑う。
「……面白い」
自分の計画が自分の想定を追い越す。
その感覚は、何よりの報酬だった。
だがSABLE本人は、そんな代替派や折原の熱狂から少しずれていた。
SABLEは、アリスのことを気にしていた。
アリスがいなくなったこと。
手を離したこと。
泣いていたこと。
そして、そのまま消えたこと。
SABLEは、それを“勝ち”だとは思っていない。
自分がアリスの代わりになれたとも思っていない。
むしろ逆だった。
アリスがいなくなったのなら、その原因を追うべきだ。
アリスを押し出した原因であるM-22を追及しなければならない。
そして、アリスが戻るまで、新開市は守らなければならない。
SABLEの中では、そう整理されていた。
整理されているというより、もっと単純かもしれない。
アリスが戻ってきてほしかった。
それだけだ。
それを言葉にしないだけで、感情としては十分すぎるほど大きい。
GLASS VEILの控室で、他の三人が静かに身支度をしている時も、
SABLEはふと端末を見下ろし、M-22関連のニュースやまとめを探していた。
断片的な情報。
企業群の説明からこぼれているもの。
新開市民の雑な目撃情報。
その横で、NOVAが言った。
「探してるの? あの子を」
SABLEは顔を上げない。
「M-22を」
「同じことでしょ」
MIRAが小さく言い、
IRISは何も言わずに鏡の前で髪を整える。
SABLEは少し考えてから、答えた。
「……戻るまで、守る」
NOVAは笑いもせず、ただ目を細めた。
「やさしいのね」
「違う」
「じゃあ何?」
SABLEはそこで、初めて少しだけ言葉に詰まった。
何なのか。
執着か。
責任感か。
好意か。
全部違って、全部少しずつ入っている。
SABLEは短く言った。
「いないと、困る」
それが一番正確だった。
義弘がアリスの失踪を知ったのは、真鍋からだった。
硬質で、冷たく、正しさを手放さない。
その声が、回線の向こうで少しだけ重かった。
「アリスが見つからない」
義弘は一言で意味を理解した。
「……どこまで分かってる」
「M-22を捜査していたこと。
最後に向かった搬入路。
そこまでは追えている」
「それ以上は」
「出ない」
短い沈黙。
義弘は机の上の地図を見る。
新開市の外縁。
倉庫群。
導管。
リングの未完成部。
忘れられた搬入路。
アリスが本気で隠れる気になった。
そのことだけは、よく分かった。
“ゴースト”として本気で姿を消すなら、並みの捜索では見つからない。
義弘はそれを知っている。
なぜなら、あの少女は本来、そういう側の人間だからだ。
舞台の中央へ立たされているのがおかしいのであって、
元は裏へ沈むための才能を持っている。
義弘は低く息を吐いた。
「探す」
「ええ。
でも追うだけじゃ無理よ」
真鍋の言い方は冷たい。
だがその冷たさは諦めではなく、精度だ。
「アリスは、見つかりたくない時は見つからない。
だから、探す側の導線を変える必要がある」
「何かあるのか」
「今のところはない。
……でも、あの子は完全には街を捨てない」
真鍋はそう言い切った。
「M-22を追うか、NECROテックを拾うか、あるいは昔のOCMを掘り返すか。
どこかに“自分の手で繋げられるもの”を選ぶはず」
義弘は、その見立てに少しだけ救われた。
アリスは壊れても、たぶん動く。
止まったように見えても、どこかで何かを繋いでいる。
そういう人間だ。
アザドもまた、アリスを捜していた。
表向きの理由は明確だ。
監査記録官補佐の所在不明。
正式なユニット運用中の重要人物の逸失。
組織運用上の損失。
だが本音はそれだけではない。
鎖を失うことは、運用の損失だ。
アリスという不規則で制御困難な火種であっても、
それを鎖で囲い、舞台へ乗せていたのは事実だ。
その火種が、いま丸ごと見えなくなっている。
アザドは複数の経路で所在を追わせた。
正規の監視網。
エージェント。
物流記録。
オールドユニオンが間接的に握っている観測点。
それでも見つからない。
アザドは、そのこと自体に少しだけ興味を持った。
「本気で隠れたか」
静かな執務室で、誰に聞かせるでもなく呟く。
アリスが本気で隠れる。
それはつまり、どこかで壊れたのだ。
だが壊れた者ほど、別の形で鋭くなることがある。
だからアザドは、急いで見つけたいとは思わなかった。
見つからないのは損失だ。
だが、見つかった時の形もまた、興味深い。
それがアザドだった。
企業群もアリスを探していた。
理由は単純だ。
逆転の札だからだ。
アリスがいれば、企業ヒーローとの共演も作れる。
アリスがいれば、怪獣との対比も強まる。
アリスがいれば、視線を攫える。
アリスがいれば、そして最後にそこへ企業の実力を差し込めれば、“アリスと同じくらい”は届く。
そう信じている。
だが、企業群は知らない。
本気で隠れる気になった“ゴースト”を見つけられるものは、誰もいない。
表の地図で追えば、必ず外す。
防犯カメラを洗っても、隙間を抜ける。
配信映像を探しても、映りたくない時は映らない。
企業群の人間には、その感覚が分からない。
だから見つからない。
見つからないこと自体が、“ゴースト”の証明になっていることにも気づかない。
その頃。
アリスは、オスカーが管理し、今では忘れられたOCM倉庫の一つにいた。
忘れられた、というのは都合のいい言葉だ。
本当は、誰も見ないふりをしているだけかもしれない。
古い資材。
使われなくなった保管棚。
箱の番号が消えかけた備品。
湿った空気。
薄暗い照明。
そこは倉庫というより、墓場に近かった。
捨てられたもの。
回収されなかったもの。
役目を終えたまま、記録からも薄れていったもの。
アリスはその中を歩き、目的の場所で足を止めた。
そこにいた。
トウィードルダム。
トウィードルディー。
バンダースナッチ。
放置され、埃をかぶり、半ば忘れられていたドローンたち。
アリスは何も言わなかった。
ただ近づいて、膝をつく。
外装を確かめる。
電源系。
関節。
ケーブル。
レンズ。
手が勝手に動く。
これが壊れている。
ここは交換できる。
ここは応急処置で足りる。
この部品は代替がきく。
思考は澄んでいる。
泣くための頭ではない。
怒るための頭でもない。
ただ、修理するための頭だ。
アリスは工具箱を引き寄せた。
オスカーが昔使っていた備品の中から、まだ使えるものを拾う。
配線を剥き、端子を磨き、ボルトを締める。
無言だった。
無言のまま、修理は進む。
途中で一度だけ、手が止まった。
トウィードルディーの外装に、擦れた古い傷があった。
いつついたのか、アリスは覚えていない。
覚えていないのに、妙に胸が痛くなる。
アリスはしばらくその傷を見て、目を閉じた。
閉じて、それからまた、何も言わずにネジを締め直した。
泣かない。
少なくとも、いまは泣かない。
手を動かしている間だけ、何も考えなくていいからだ。
修理が終わる。
トウィードルダムが小さく起動音を返す。
トウィードルディーのレンズに光が戻る。
バンダースナッチが、低く、眠たげな駆動音を鳴らす。
それだけで、アリスは少しだけ肩の力を抜いた。
自分を直したわけではない。
何も解決していない。
SABLEのことも、巨大な群衆のことも、M-22のことも、折原のことも、何一つ片付いていない。
それでも、手の中で何かが戻る感触だけは、確かだった。
アリスは壁にもたれた。
倉庫の薄暗い天井を見る。
目が重い。
頭の中に、もう言葉がない。
考えたくなかった。
SABLEがどうとか、
“ゴースト”がどうとか、
奪われるとか、失うとか。
何も。
だからアリスは、そのまま深く眠った。
倒れるようにではない。
逃げるようにでもない。
ただ、思考を止めるために。
トウィードルダムとトウィードルディーとバンダースナッチが、修理されたばかりの静かな駆動音を立てる。
倉庫の隅では、古い箱が沈黙している。
新開市では、SABLEが歓声を浴びていた。
代替派が未来を語っていた。
折原が列の次を考えていた。
義弘や真鍋やアザドがアリスを探していた。
その全部から離れた場所で、
忘れられた倉庫の中で、
アリスは眠っていた。
まるで、自分がまだ壊れていないと信じるために。




