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第266話 第二のゴースト

 アリスは、SABLEと並んで歩くことに、少しずつ疲れていた。


 疲れていた、という言い方は正確ではない。

 肉体の疲労だけなら、とうに慣れている。

 新開市を歩き回ることも、人の視線を浴びることも、親善大使として笑顔を要求されることも、嫌いなだけで未知ではない。


 疲れていたのは、比べられることだった。


 いや、比べられているというより――

 隣に立つだけで、自分の足りなさを勝手に照らされることに、だ。


 SABLEは、本物だった。


 世界的アイドルグループGLASS VEILの一員。

 それは肩書きではなく、身体に染みついた運用の完成度として現れる。


 人前に立つ時の、重心の置き方。

 視線を投げる角度。

 笑わないままでも空気を掴める間の取り方。

 群衆がざわめいた一瞬に、どう肩を引き、どう顎を上げれば、そのざわめきが「見惚れる沈黙」に変わるかを、SABLEは知っている。


 知っているというより、身体が勝手にやっている。


 それがアリスには、ひどく眩しく見えた。


「こっち」


 今日もSABLEが、短く言う。


 アリスは反射で半歩ずれる。

 半歩ずれたその位置が、ちょうど光を受ける。

 配信ドローンのレンズに、アリスとSABLEの顔が一番きれいに収まる角度になる。


 アリスは、そのことに気づいてから、気づかないふりをした。


 腹が立つからだ。


「……いま、わざとやったろ」


 小声で言うと、SABLEは無表情のままこちらを見る。


「何を?」


「立ち位置」


「きれいに見える方がいいでしょう」


 悪びれない。

 悪びれないのが、いっそ清々しい。


 アリスは鼻で笑いそうになって、やめた。

 笑うのも癪だ。


 SABLEはまた前を向く。

 その前を向く動作ひとつまで、妙に絵になる。


 アリスは、そこでまた胸の奥がざわついた。


 ――本物だ。


 自分が以前やった“なんちゃってアイドル”とは違う。

 NECROテックに動きをインストールして、

 その延長で自分もなんとか“それっぽく”見せていた時とは、根本から違う。


 アリスはあの時、自分が恥ずかしかった。

 だが恥ずかしいだけで済んでいた。

 滑稽で、嫌で、居心地が悪い。

 それだけだった。


 今は違う。


 今は、隣に“本当にできるやつ”がいる。

 その本物に、自分が立ち位置を教えられ、視線の置き方を直され、群衆の呼吸の掴み方を見せつけられている。


 それが、思った以上に堪えた。


 新開市の街路は、今日も賑やかだった。


 フェスの延長みたいな空気が、もう街に常駐している。

 屋台。

 配信者。

 勝手に始まる記念撮影。

 「せっかくだから並んで見よう」という安易な列。

 そして、その列を見て、さらに人が寄ってくるいつもの連鎖。


 アリスとSABLEのユニットは、その空気の中へ投げ込まれていた。


 代替派は上機嫌だ。

 アザドは冷静に観察している。

 GLASS VEILの他のメンバーはプロとして距離を保っている。

 そしてSABLEだけが、妙にアリスへ近い。


 近いくせに、べたべたしているわけではない。

 触れるでもない。

 ただ、常に視界の端にいる。


 アリスが人混みの向こうを見れば、SABLEもその先を見る。

 アリスが無意識に逃げ道を確かめれば、SABLEはその動線に沿って歩く。

 アリスが危険の匂いに鼻を利かせれば、SABLEは「何かあるの?」と平坦な声で聞く。


 それが、鬱陶しい。

 鬱陶しいのに、どこかでありがたくもある。


 そのありがたさが、いちばん嫌だった。


 アリスは心の中で、乱暴に首を振る。


 違う。

 頼るな。

 SABLEは鎖だ。

 鎖をありがたがるな。


 そう自分に言い聞かせながら、アリスは視線だけを逸らし、別のことを考える。


 M-22。


 企業群の釈明に含まれていなかった、あの軍用機。

 SKYLANCEを“パフォーマンス”と言い換えられても、M-22まではそうはいかない。

 あれは企業の宣伝では済まない。

 軍用。

 撤退機能。

 意図的な運用。

 アリスの記憶の中に、あの異常な足取りはまだ焼き付いている。


 だからアリスは、ユニット活動の合間も、その追跡をやめていなかった。


 端末を覗く。

 搬入履歴。

 通話記録の隙間。

 過去のニュース映像。

 海外部門との接触履歴。

 企業群の釈明と噛み合わない小さな穴。


 SABLEに本物のアイドルとして引っ張られながら、アリスは別の世界へ手を伸ばしている。


 その二重生活みたいな状態が、ひどく不安定だった。


 アリスは、昔から他の子どもとあまり遊ばなかった。


 遊ばなかった、というより、遊べなかった。


 興味がなかったわけではない。

 ただ、距離が分からなかった。

 何を言えば笑うのか。

 何を黙れば嫌われないのか。

 どこで踏み込めばよくて、どこで引くべきか。


 人の導線は、ドローンより難しい。


 だから、アリスはドローンたちと遊んだ。

 機械は裏切らない。

 少なくとも、人間みたいに曖昧な顔をしない。

 命令すれば動き、止めれば止まる。

 直せば戻る。

 壊れれば壊れたと分かる。


 その単純さに、アリスは救われていた。


 “ゴースト”としてシュヴァロフたちと新開市で動けたのも、

 義弘や真鍋たちと肩を並べられたのも、

 結局は自分のNECROテックのおかげではないか――


 アリスは、薄々そう思っていた。


 自分に何か特別な才能があるわけじゃない。

 ただ、NECROテックがある。

 ドローンがいる。

 機械を読む目がある。

 危険の匂いを嗅ぐことが出来る。


 だがそれは、全部“装備”なのではないか。


 義弘みたいな、真っすぐな強さではない。

 真鍋みたいな、冷たい正しさでもない。

 SABLEみたいな、完成された本物の偶像性でもない。


 自分には、何もないのではないか。


 その疑念が、最近ますます大きくなっていた。


 SABLEと一緒にいる時間が長いほど、それは強くなる。


 SABLEは本当に“身体一つ”で空気を変える。

 アリスはそうではない。

 アリスが空気を変える時、それは大体、ドローンか、ハックか、危険か、傷だ。


 つまり――

 何かが起きた時にしか、アリスは前に出られない。


 その認識が、胸の奥に冷たく座っていた。


 アリスは、ふと足を止めた。


「どうしたの?」


 SABLEがすぐに聞く。


「別に」


「嘘」


「……お前、ほんと性格悪いな」


 SABLEは無表情のまま、首をかすかに傾げた。


「あなた、私が嫌い?」


 その問いに、アリスは少しだけ息を詰めた。


 嫌いではない。

 むしろ、嫌いなら楽だった。


 嫌いではないから、余計にきつい。


「嫌いじゃない」


 絞り出すように言うと、SABLEは目を細めもしないまま、ただ頷いた。


「よかった」


 その“よかった”が、子どもみたいで、また腹が立つ。


 アリスは、心の底で思っていた。


 自分には、“ゴースト”しかない。


 親善大使じゃない。

 アイドルでもない。

 市民の象徴なんて、なおさら違う。


 “ゴースト”である時だけ、自分は何かになれる。

 危険を嗅ぎ、裏へ入り、証拠を拾い、誰も見ない場所を見つける。

 その時だけ、自分は自分だと思える。


 それが、唯一の拠り所だった。


 だから、もし。


 もしSABLEに、その“ゴースト”まで取られたら――


 アリスは、粉々になるだろう。


 そう心の底で感じていた。


 SABLEが悪いわけじゃない。

 SABLEはただ、アリスの隣にいて、本物の動きで空気を作っているだけだ。

 なのに、その隣に立っているだけで、アリスは自分の根っこの薄さを見せつけられる。


 アリスは、その思いを振り払うように、端末へ視線を落とした。


 M-22の追跡ログ。

 海外の輸送履歴。

 過去の港湾映像。

 企業の説明から抜け落ちている時系列。


 これだ。

 これだけは、誰にも渡せない。


 SABLEにリードされるアイドル活動の合間に、

 アリスは必死で“ゴースト”へしがみつく。


 自分には、これしかない。

 少なくとも、今はそう思っていた。



 一方その頃。


 企業群は、治安機関の追及をかわすためにてんやわんやだった。


 広報文の修正。

 議会向けの説明。

 安全啓発という言い換え。

 パフォーマンスとデモンストレーションの線引き。

 責任所在の曖昧化。


 会議室の空気は乾いていて、焦っていた。

 焦っているくせに声量だけは抑えられている。

 企業らしい騒ぎ方だ。


 その中で一人だけ、余裕たっぷりに椅子で寝ている男がいた。


 折原 連。


 背もたれに身を預け、目を閉じ、片足をわずかに揺らしている。

 周囲がどれだけざわついても、まるで昼下がりのカフェみたいな顔だ。


「折原さん!」


 担当者の一人が、とうとう苛立ちを隠せずに声を上げる。


「少しは危機感を持ってください!」


 折原は片目だけ開けた。


「持ってるよ」


「そうは見えません!」


「見えないようにしてるからな」


 言って、また目を閉じる。

 その余裕が腹立たしい。


 だが企業群は、結局折原を叩き切れない。

 彼に依存しているからだ。

 その依存を、折原はよく知っている。


 その折原の端末が、静かに震えた。


 着信。

 差出は、アザド。


 折原は片目を開け、周囲を見回した。

 企業群はまだ自分たちの騒ぎに忙しい。

 彼は椅子を少しだけ回し、角度を変えて通信を取った。


 画面に映るアザドは、今日も整っていた。


 折原は軽く笑う。


「企業が焦ってる時にかけてくるとは、趣味が悪い」


 アザドはその言葉を軽く流した。


「代替派を紹介したい」


 折原の眉がわずかに動く。


「代替派?」


 アザドの画面が分割され、数人の要人の顔が映る。

 オールドユニオンの中でも、最近目立つ、アリス代替派の面々だ。


 折原は黙った。

 黙って、相手の顔を読む。


 代替派の一人が、上品に言う。


「率直に依頼を持ちかける」


 折原は椅子に深く沈み直した。


「聞こう」


 少しの間。

 そして、その依頼が告げられる。


「新開市に、新たな“ゴースト”を創り上げてほしい」


 折原は目を開けた。


 続く言葉が、さらに面白かった。


「SABLEを、アリスよりも優れた“ゴースト”にしてほしい」


 会議室のざわめきが、急に遠くなった気がした。


 折原は画面の向こうの代替派を見つめる。

 冗談ではない。

 少なくとも、彼らは冗談の顔をしていない。


 新たな偶像を作る。

 それだけでは足りない。

 新たな“ゴースト”まで量産する。


 アリスの唯一の拠り所を、別の偶像へ移植する。


 その発想に、折原は一瞬、本気で呆れた。

 同時に、背筋の奥でぞくりとした。


 面白い。


 面白いが、嫌な面白さだ。


 “ゴースト”は商品名ではない。

 誰かの肩書きでもない。

 街の裏側を嗅ぎ、危険を読み、誰より早く火種に触れるための、生き方に近い。


 それを、作る。

 しかもSABLEに。


 折原は指先で椅子の肘掛けを叩く。

 軽く、一定のリズムで。


 アザドは黙っている。

 代替派を紹介したが、口は挟まない。

 見ているだけだ。


 その見方が、ひどくアザドらしかった。


 折原は、ゆっくりと言った。


「……亡霊まで量産するつもりか」


 代替派の一人が平然と返す。


「必要ならば」


 必要。

 その言葉が、ぞっとするほどオールドユニオンらしい。


 折原は少しだけ笑った。


 それは愉快だからではない。

 あまりにあからさまな欲望に、笑うしかなかったからだ。


 SABLEをアリスより優れた“ゴースト”にする。

 それが出来れば、アリスの席はさらに薄くなる。

 偶像としても、裏路地の案内人としても、代替が効くようになる。


 合理的だ。

 合理的で、残酷だ。


 折原は目を細める。


 依頼を受けるか。

 拒むか。

 答えはまだ出さない。


 だが一つだけ、確かなことがある。


 アリスはまだ、自分の唯一の拠り所が狙われていることを知らない。


 SABLEは無垢な顔でアリスの隣に立ち続けている。

 アリスはその隣で、自分の空虚さを噛みしめている。


 そこへ“第二のゴースト”の構想が差し込まれる。


 火種としては、最高だった。


 折原は静かに背もたれへ頭を預け、天井を見上げた。


 会議室の騒ぎはまだ続いている。

 企業群は必死だ。

 アザドは冷たい。

 代替派は欲張りだ。


 そして新開市は、今日も御し難い。


 折原は小さく息を吐いた。


「……面白くなってきたな」


 その言葉が、誰に向けたものかは、彼自身にもまだ分かっていなかった。

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