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第二十六話 我々

新開市の朝は、整いすぎていた。


昨日までの戦場――中枢リングの結節点は、危険テープが直線に張られ、仮補修の溶接痕が均一に並び、焦げ跡さえ「管理」されている。

人間の混乱だけが、きれいに拭き取られていた。


義弘は、その“きれいさ”が嫌いだった。

自分が呼んだものの手口だと分かってしまうからだ。


アライアンスの窓口は、都市の中にあるはずなのに、都市から切り離された場所だった。


白い壁。白い床。白い天井。

家具は少なく、音が吸われ、匂いがない。

ここで話す言葉は、熱を持たない。


義弘は一人で通された。

護衛も、随行も、同席も拒まれた。


「交渉の相手は、氷の母か?」


返事は、しばらくしてから来た。


「我々が聞く」


スピーカーから流れる声は女性だが、どこか“個人”の温度がない。

言葉だけが、ここに落ちる。


義弘は椅子に座り、手を組んだ。

組んだ指先に、若い頃の癖が残っている。

会合の癖。交渉の癖。脅迫じみた駆け引きの癖。


「アリスを返せ」


間髪入れず、声が返る。


「返す、という概念は適切ではない」

「保護は継続している」


義弘は笑った。笑いにならない。


「“保護”って言葉は便利だな。檻に入れても正義に聞こえる」


沈黙。

そして、同じ温度の言葉。


「正義ではない」

「継続だ」


継続。

氷の母がよく使う言葉だ。


義弘は机の縁を指で叩いた。


「なら継続のために言う。あいつはインフラを壊していない。守った。

リノトーレークスが“非致死”の顔で人を潰しかけたとき、最後まで救助導線を作ってたのはあいつらだ」


声は淡々と返す。


「危険は危険だ」

「資産は資産だ」


義弘の眉がわずかに動く。


「……資産?」


「我々にとってはそうだ」


義弘は、怒鳴りそうになって、飲み込んだ。

ここで怒鳴ると“子ども扱い”されるのは、自分の方だと分かっている。


「話を戻そう。

アリスが“保護”され続けるなら、現場はまた崩れる。オールド・ユニオンは嗅ぎつける。ハーバーライトの次も出る。

企業群は新開市を狩場にする。お前たちが好む“継続”は止まるぞ」


少しだけ間があった。

それは感情ではなく、計算のための間だった。


「我々は止めない」

「止まるものを止める」


義弘は舌打ちを飲み込んだ。


「……その言い方が、いちばん怖い」


声が、少しだけ柔らかくなる。

柔らかさは慰めではない。刃の角度だ。


「津田義弘」

「理解しているから、ここにいる」


名を呼ばれると、背筋が伸びる。

義弘ですら、そうなる。


「前提を共有する」


前提――つまり、ルールだ。


ルールは、歴史の顔をしてやってくる。


「揺り篭の日」


その言葉が落ちた瞬間、義弘の脳裏に、古いニュースの文字が蘇る。


異常太陽風。

全世界的電子機器異常。

通信障害。電力網の誤作動。

制御系の沈黙。


そして――三峡ダム崩壊。


水が落ちる映像。

濁流。

川が、海みたいに街を呑む。


あの日、義弘は会議室にいた。

スクリーンには崩壊の映像。

机の上には「復旧計画」。

机の下には、部品が届かない現実。


金融市場壊滅。

信用が死に、物流が止まり、燃料が止まり、食料が止まり、治安が止まり、医療が止まる。


世界が、物理的に止まった。


社員から電話が入った。

「子どもに薬がない」

「水が出ない」

「家に帰れない」

「家に帰っても守れない」


“正しさ”では救えない。

“継続”が死ぬと、人間は数日で弱る。


声は続ける。


「そのとき、世界中の資産家、大企業、国家が理解した」

「インフラが死ねば、すべてが死ぬ」


義弘の指先が、無意識に強く組まれる。


「だから“我々”は編成された」

「目的はインフラの拡充と維持・管理」


義弘が言う。


「……知っている。だから俺は戦った。だから俺は、最後に折れた」


声が返す。


「折れたのではない」

「合流した」


義弘の目が細くなる。


「言葉遊びだな」


「制度だ」


制度。

制度は、感情を殺すためにある。


「我々は非常に多数の勢力にまたがる」

「内部対立は、再び崩壊を招く」

「だから我々は中立を制度化した」


義弘は冷たく笑う。


「中立、ね。便利な免罪符だ」


声がすぐ返す。


「免罪ではない」

「権利だ」


義弘の背筋が冷える。

ここからだ。


「インフラ保持のためなら、あらゆる行動は正当化される」

「我々は、その権利を持つ」


“正当化”。

“必要な措置”。

“中立的手段”。


光学迷彩の影が、義弘の脳裏に走った。


「あいつら――クレイドル・レッスンは、その権利の形か」


返事は短い。


「そうだ」


義弘は息を吐く。

吐いた息が白くなりそうな錯覚がある。


「……だからハーバーライトの上層が倒れた」


沈黙。

肯定も否定もない。

だがそれが答えだ。


義弘は静かに言う。


「証拠は残さない。死者も出さない。警告だけ残す。

教育、ってやつだ」


声が、少しだけ柔らかくなる。


「学習だ」

「再発防止だ」


義弘は机の縁を指で叩いた。


「学習のために子どもを檻に入れるのか?」


「子どもではない」

「資産だ」


また資産。

義弘の胃が冷たくなる。


「……アリスは、人間だ」


返事は、同じ温度で返る。


「我々も人間だ」


その一言が、いちばん怖かった。


義弘は、机の上に置かれた資料を見た。


紙だ。

署名がない。

ロゴもない。

だが、拒否という選択肢が存在しない形式。


「条件を出せ」


義弘が言うと、声が返った。


「自由は与えられる」

「管理下で」


義弘は短く笑った。


「檻の中の自由か」


「継続のためだ」


義弘は顔を上げる。


「管理下で、何をさせる?」


少しだけ間があった。

そして、答えが落ちた。


「会食だ」


義弘の眉が動く。


「……会食?」


「査定だ」

「儀礼だ」

「合意形成だ」


義弘はすぐ理解した。

会食は食事ではない。

鎖だ。


「氷の母が?」


「我々が招く」

「氷の母も、我々だ」


義弘は、声にならない息を吐いた。


「あいつを……アリスを、会食に出せば解放されるのか」


返事は慎重だった。


「解放という語は適切ではない」

「管理の形が変わる」


義弘は拳を握った。


「つまり、出られる」


「出られる可能性が高い」


可能性。

そこに“恩恵”の顔がある。

そして、その裏に“拒否の罰”がある。


義弘は低く言った。


「……お前たち、子どもを晩飯で買う気か」


返事は、静かだった。


「買わない」

「選ぶ」


選ぶ。

採点。

観測。

答案。


義弘は目を閉じた。

そして、決めた。


「……分かった。会食を受ける」


声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「賢明だ」


義弘は吐き捨てるように言う。


「賢明じゃない。必要なんだ」


「必要なら、正当だ」


その論理が、世界を壊したのに。

世界を守ったのも、それだった。


アリスは、同じ白い天井を見上げていた。


監視の黒いセンサー面。

匂いのない空気。

自由のない自由。


双子が、黙って工具を並べている。

シュヴァロフが、倒れたまま影を伸ばしている。

母親みたいに、そこにいる。


アリスは唇を噛んだ。


「……ジジイ、何やってんだよ」


答えが来るわけがない。

でも言わないと、腹の中が冷えて割れそうだった。


そのとき、扉が静かに開いた。


入ってきたのは、医療服の人間――に見える。

だが輪郭が薄い。

光学迷彩の匂いがある。


アリスの背筋が冷える。


「……また影かよ」


影は、怒らない。

笑わない。

ただ、淡々と言う。


「案内する」


「どこへ」


「会食」


アリスは一瞬、理解できなかった。

次の瞬間、理解して、吐き捨てた。


「……晩飯で人を買う気かよ」


影は、同じ温度で返す。


「買わない」

「選ぶ」


その言い方が、いちばん腹が立つ。

そして、いちばん怖い。


アリスは立ち上がろうとして、足の力が少し戻っていることに気づいた。

薬の残りを計算したような回復。

“用意”されている。


双子が同時に顔を上げた。

行くな、と言いたい顔。

でも、止められない顔。


シュヴァロフの影がわずかに動く。

庇おうとする。

母性が、条件反射で立ち上がろうとする。


だが影が、軽く手を上げた。


「同行は許可される」

「管理下で」


管理下。

檻の中。


アリスは笑った。笑えない笑み。


「優しいねえ」


影は答えない。

答えないのが答えだ。


会食の場所は、新開市の中にあるのに、新開市ではなかった。


音が吸われる廊下。

白い壁。

光が薄い。

香りがない。

体温だけが浮く。


扉が開く。


個室。

長いテーブル。

席がいくつあるのか、最初は分からない。

光学迷彩の輪郭が薄く、椅子の影が“人”のように見えたり、“物”のように見えたりする。


氷の母がいた。


ブロンドの髪。青い瞳。

染み一つない肌。

静かで美しい物腰。


微笑。


だが、その微笑は個人のものではない。

組織の顔だ。


「アリス」


名前を呼ばれて、アリスの肩がわずかに強ばる。


「名乗らないのかよ」


アリスが言うと、誰かが――いや、“我々”が答えた。


「名は必要ない」


声が違う。

だが一人称が同じだから、気持ち悪い。


別の声が続く。


「我々は機能だ」


また別の声。


「我々は継続だ」


アリスは思わず舌打ちした。


「……どれが喋ってんだよ」


氷の母が微笑む。

そして、彼女も言った。


「我々が喋っているの」


その瞬間、アリスは理解した。

ここは“人”と話す場所じゃない。

“組織”と話す場所だ。


氷の母が椅子を引く。

優雅に。

逃げ道を消すみたいに。


「座って」


アリスは立ったまま言う。


「食って寝ろって? 子ども扱いすんなよ」


氷の母は微笑を崩さない。


「子ども扱いではない」

「配慮よ」


アリスは吐き捨てる。


「檻の中の配慮ね」


誰かが、同じ温度で言った。


「檻ではない」

「管理だ」


また“我々”。


アリスは、胸の奥がざらつくのを感じた。

怒り。屈辱。

それでも、シュヴァロフと双子が背後にいる。

コロボチェニィクもグリンフォンもバンダースナッチも、守らなきゃいけない。


整備するためには、部品が要る。

部品は、権力が握っている。


アリスはゆっくり椅子に座った。


椅子の冷たさが、背骨を撫でた。


氷の母が言う。


「我々はあなたを選べる」

「あなたも、我々を選べる」


アリスは笑う。笑えない。


「選べるって言いながら、拒否したら折るんだろ」


沈黙。

そして、“我々”が答える。


「拒否は自由だ」


間を置いて、同じ声が続ける。


「ただし、継続が止まるなら――止める」


アリスは目を細めた。


「……脅しじゃねえか」


氷の母は微笑んだまま、白い皿を指した。


料理が置かれている。

上品で、薄い味がしそうな見た目。

権力の味。

体温のない味。


「食べて」

「そして話しましょう」


アリスは皿を見たまま言った。


「……晩飯で人を買う気かよ」


氷の母は、優しく、冷たく言った。


「買わない」

「選ぶの」


その言葉が、個室の空気をさらに冷やした。


そしてアリスは、たぶん人生で一番腹が立つのに、一番賢い選択をした。


箸を取った。

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