第255話 なんだってやってやる
最初に戻ってきたのは、匂いだった。
消毒の匂い。
薬品の匂い。
シーツの匂い。
それから痛み。
肩口。
噛まれた場所が、まだ熱を持っている。
包帯の下で脈打つたび、鈍い疼きが広がる。
アリスは薄く目を開けた。
白い天井。
白いカーテン。
白い照明。
――病室。
次に見えたのは、顔だった。
義弘が、ベッドの横に立っている。
目の下に影がある。
怒ってはいない。怒っていないのが一番怖いタイプの顔だ。
その横で、トミーが椅子に座り、耳をぴんと立てている。
ウサギの耳が、いつも通り場違いだ。
場違いなのに、安心する。
そして、シュヴァロフ。
シュヴァロフは人間の顔をしていない。
だが、いまこの瞬間、誰よりも“家庭的”に見えた。
枕の位置をそっと直し、
点滴のチューブを確かめ、
アリスの髪が頬に張り付いているのを、手袋越しに優しく払う。
アリスは、目を開けきれなかった。
気恥ずかしさ。
久しぶりに“家族”に会えた気恥ずかしさ。
そして――自分が相当な無茶をした罪悪感。
思わず、顔を隠した。
布団を引き上げて、鼻まで隠す。
包帯の痛みが走り、眉が歪む。
義弘が低い声で言った。
「起きたか」
その声が静かで、優しくて、余計に逃げたくなる。
逃げる場所などないのに。
トミーが鼻で笑った。
「おいおい。
やっと目を覚ましたと思ったら、いきなり隠れるのか。
お前、ヒーロー向いてねえな」
毒舌。
いつもの毒舌。
だがその毒舌の裏に、安心があるのが分かる。
それが腹立たしくて、泣きたくなる。
アリスは布団の中で小さく言った。
「……うるさい」
シュヴァロフが、湯気の立つカップを差し出す仕草をする。
飲み物――たぶん白湯。
口を湿らせろ、と言っているのだろう。
アリスは布団の中で首を振る。
罪悪感が喉を詰まらせる。
水を飲んだら、言い訳が出てしまいそうだった。
義弘が一歩近づいた。
近づいても、触れない。
触れないのが義弘だ。
「……無茶をしたな」
叱責ではない。
確認の言い方だ。
確認ほど重いものはない。
アリスは布団の中で呻いた。
「……した」
トミーが耳を立てたまま言う。
「“した”じゃねえよ。
お前、わざと噛ませただろ」
布団の中で、アリスの身体が硬直した。
ばれている。
ばれているのが、恥ずかしい。
そして、悔しい。
義弘が静かに言う。
「俺もそう思った」
アリスは布団の中で目を閉じた。
言い訳はしない。
言い訳をしても、正しい言葉にならない。
あの瞬間、時間がなかった。
回避する余裕がなかった。
そして――守護者の椅子を、奪われたくなかった。
守護者の椅子。
その言葉が頭をよぎった瞬間、病室の扉がノックされた。
「失礼します」
声が続く。
足音が増える。
アリスが目を開けると、病室に人が流れ込んできた。
玲音。
息を切らし、顔色が悪い。
群衆の視線に弱い彼が、ここまで来たのが分かる。
シラヌイ。
腕に包帯。
肩に擦り傷。
それでも背筋が真っ直ぐだ。
真鍋。
相変わらず疲れた顔。
疲れているのに目が鋭い。
そしてNECROテックの兄弟姉妹たち。
数人。
子どももいる。
泣きそうな顔で、アリスを見ている。
アリスは布団の端を握った。
新旧の顔ぶれ。
久しぶりに胸が暖かくなる。
暖かさが怖い。
暖かいと、守りたいものが増える。
守りたいものが増えると、また無茶をする。
玲音が最初に口を開いた。
「……生きててよかった」
声が震えている。
震えているのに、視線を逸らさない。
それが玲音の成長だ。
アリスは返事ができず、口元だけ動かした。
「……うるさい」
シラヌイが、ベッドの横に立った。
目線が真っ直ぐで、温かい。
企業の顔ではない。
「助かった。
……あの場でお前が倒れた瞬間、街が静かになった」
静か。
それが、なにより恐ろしい。
静かになると、次の節が育つ。
真鍋が咳払いをして、淡々と切り出した。
「お前が知りたがるだろうから話す」
アリスの赤い瞳が動く。
知りたがる。
その通りだ。
真鍋は続ける。
「アリス結社の連中が自首してきた。
……まとめてな」
アリスの眉が動いた。
「……自首?」
「自首だ。
お前が倒れたのを見て、耐えきれなかったらしい。
証言も出ている」
真鍋は端末を軽く叩き、情報を整理するように言う。
「その証言で、新開市・中立フェス実行委員会の捜査が進んでいる。
企業群も実行委員会も、互いに疑心暗鬼だ。
――撒き餌は効いた」
撒き餌。
オールドユニオンの手順。
アザドの手順。
アリスは歯を食いしばった。
シラヌイが続ける。
「企業群は“美談”を利用しようとしてる。
『企業ヒーローが守った』って絵にしたい」
アリスが鼻で笑いそうになったが、痛みで顔が歪む。
シラヌイは言葉を続ける。
「でも世論がとっちめてる。
『救助したのは新開市民だろ』って。
『スマホ捨てたのは市民だろ』って」
その言葉に、アリスの胸が少しだけ軽くなる。
守護者の椅子。
あの瞬間、椅子に座ったのは確かに“人の手”だった。
玲音が、そっと言う。
「ニュースでも、SNSでも……
『次に街を守るのは新開市民だ』って考え方が出始めてる」
アリスは目を細める。
それは、良い。
良いはずだ。
自分が守り続ける街ではなく、
街が自分を守る街になる。
それは“御し難い街”の成熟でもある。
だが同時に――怖い。
市民が守るという言葉は、
市民が燃やすという言葉と紙一重だからだ。
兄弟姉妹の一人が、震える声で言った。
「……姉さん、またいなくなると思った」
姉さん。
その言葉が胸に刺さる。
アリスは布団を握りしめ、低く言った。
「いなくならない」
言い切るのが怖い。
怖いから言い切る。
義弘がそのやり取りを見て、静かに息を吐いた。
病室の空気が、少しだけ暖かくなる。
暖かいままでは終われない。
新開市の物語は、いつもそこで切れる。
看護師が顔を出し、遠慮がちに言った。
「……面会はそろそろ」
真鍋が頷く。
「休ませろ。
こいつは、また動こうとする」
アリスが睨む。
「動く」
「動かない。
少なくとも今日は」
真鍋は言い切って、踵を返す。
玲音も名残惜しそうに下がる。
兄弟姉妹たちも涙目で手を振り、病室を出ていく。
シラヌイは最後にアリスへ言った。
「……また現場で会う」
アリスは短く返した。
「来るな」
シラヌイが笑いそうになって、やめた。
「言うと思った」
そして扉が閉まる。
残ったのは、アリスとシュヴァロフだけ。
シュヴァロフは静かに動き、ベッドの脇に水を置き、
包帯の位置を確かめ、毛布を整える。
家庭の手順。
それが今のアリスには、救いだった。
アリスは天井を見上げる。
痛みがある。
痛みがあるから、眠れるかもしれない。
だが眠る前に、気配が来た。
病室の空気が、少しだけ冷える。
ノックがない。
なのに扉が開く。
静かに入ってきた影がある。
アザド・バラニ。
手順のプロ。
微笑みは上品で、視線は冷たいほど穏やかだ。
シュヴァロフが一歩前へ出ようとする。
だがアリスが手で制した。
「……来たのか」
アザドは軽く頷いた。
「来た」
丁寧語のない、上品な言い方。
女性らしい柔らかさではないが、言葉の端に余裕がある。
アザドはベッドの横に立ち、アリスの包帯を一瞥し、淡々と言った。
「見事だった」
アリスの眉が動く。
「……何が」
「止められないところまで進んでいた手順を、絵で崩した」
アリスは息を止めた。
絵で崩した。
それは、褒め言葉として最も気持ち悪い。
アザドは続ける。
「私は一度だけ新開市を“御し難い街”と言った。
貴女はそれを覚えていた」
関心する、と言うでもなく、
ただ事実として言う。
「そして、その“御し難さ”を、貴女は引き出した」
アリスは歯を食いしばった。
「……褒めるな」
「褒めているのではない。
価値を認めている」
価値。
その言葉は、所有の匂いがする。
アザドは静かに言う。
「貴女の能力と存在感は貴重だ。
改めて勧誘する。
オールドユニオンの正式なメンバーになれ」
アリスは即座に返す。
「ならない」
痛みで声が掠れる。
それでも言い切る。
「私は誰のものでもない」
アザドの目がわずかに細くなる。
アリスは続ける。
口が悪い。
だが今は口が悪い方が正しい。
「特に新開市を戦車で踏みつぶそうとするやつの所属になんかならない」
アザドは怒らない。
怒らないまま、静かに言う。
「“なんだってやってやる”――この言葉の責は?」
その言葉で、病室の空気が少しだけ重くなる。
アリスは過去を思い出す。
自分が、条件のために言った言葉。
軍隊をくれ、と言った言葉。
なんだってやってやる、と言った言葉。
責。
責は、逃げると足を取られる。
アリスは、にやりと笑った。
痛みで笑顔が歪む。
歪む笑顔ほど、ゴーストらしい。
「オールドユニオンが新開市に馴染むまで、なんだってやってやる」
馴染む。
その言葉には棘がある。
踏みつぶさない。
燃やさない。
手順を盾にしない。
馴染むとは、そういうことだ。
アザドは一拍、黙った。
黙って、そして微かに口角を上げた。
「……面白い」
その一言だけ置いて、アザドは踵を返す。
去り際に、アザドは振り向かずに言った。
「貴女は、御し難い」
それは誉め言葉ではない。
警告でもない。
確認だ。
扉が閉まる。
病室に残ったのは、アリスとシュヴァロフだけ。
シュヴァロフがゆっくり近づき、アリスの手元に水を差し出す。
アリスは小さく息を吐いた。
痛みがある。
だが意識は鋭い。
自分は誰のものでもない。
その言葉を守るために、
これから“なんだってやってやる”ことになる。
守護者の椅子は、まだ終わっていない。
アリスは天井を見上げ、低く呟いた。
「……寝る」
シュヴァロフが、静かに頷くように共鳴音を一つ鳴らした。
アリスは目を閉じた。
次の火が来る前に。
次の手順が組まれる前に。
ほんの少しだけ、眠る。




