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第二十五話 死者無し、証拠無し、警告あり

翌朝の新開市は、妙に“きれい”だった。


中枢リングの結節点――昨夜まで戦場だった場所は、床が拭かれ、配管が仮補修され、危険テープが整然と貼られている。

焦げ跡は残っている。破損も残っている。

だが、“混乱”だけが消えていた。


まるで最初から事件なんて無かったみたいに。


それが、いちばん怖い。


配信のアーカイブは残っている。

視聴者の切り抜きも残っている。

だが、どの映像にも同じ欠落がある。


――影が、はっきり映っていない。


光学迷彩の輪郭は薄く、音声は別レイヤーに切り替わった瞬間、途切れる。

リノトーレークスが止まるところは撮れているのに、止めた“何か”がない。

ハーバーライトのヒーローが崩れるところは撮れているのに、崩した“手”がない。


コメント欄も、妙に慎重だった。


『昨日のやつ、誰も言及しなくなったな』

『動画消されてない? いや残ってる…でも怖い』

『影が映ってないのが一番怖い』

『国連の機体止めたの、誰』

『高速機動隊?』

『アライアンスだろ』

『口に出すな』

『……触れないほうがいい』


触れないほうがいい。


都市全体が、同じ結論に辿り着いていた。


アリスは、白い天井を見ていた。


目を開けているのに、現実が遠い。

身体が鉛みたいに重い。

舌が乾いて、喉が痛い。


眠り薬。

“子どもをあやす”みたいな手つきで入れられたもの。


――屈辱。


「……くそ」


声が出た。

自分の声が、弱くて腹が立つ。


視界の端で、黒い影が揺れた。


シュヴァロフ。


動けないはずなのに、そこにいる。

倒れたままでも、アリスの方へ身体を傾けている。

母親みたいに、最後まで“そこ”にいる。


双子の気配も近い。

トウィードルダムとトウィードルディーが、無言で機材を並べている。

救助用のアーム。工作具。

彼らは泣かない。

泣く代わりに、できることをする。


アリスは自分の身体を確認しようとして、気づいた。


拘束具が見えない。


鎖がない。

手錠がない。

だが――自由がない。


空気が、手錠だった。


部屋の角に黒いセンサー面がある。

ドロイドでもない。監視カメラでもない。

“見られている”という事実だけで、人間が自分を縛るための装置。


「保護」


その言葉の意味を、アリスは噛みしめた。


保護は、優しい言葉でできた檻だ。


義弘は、同じ朝を別の場所で迎えていた。


会議室。

窓の外に見えるのは新開市の輪郭――未完成のリング、違法に増殖する外延部、そして遠くに煙。

都市はまだ息をしている。

それだけが救いだった。


机の上には、短い報告が積まれている。

“必要な措置”の結果。

“鎮圧完了”。

“供給安定化”。


その文字が、紙の上で冷たく光る。


オスカー・ラインハルトは、いつものように整って座っていた。

サボテンの鉢が、机の端に置かれている。

棘が光を弾き、余計なことは言わない。


義弘が言った。


「……アリスは?」


オスカーは答える。


「保護下です」


「返せ、と言ったら?」


「証拠を出せますか」


オスカーの声は冷たい。

義弘の胃が冷える。


「証拠を出せば、あなたが彼女を守れる保証はありますか」

「出せば、彼女は“危険物”として処理される可能性が上がる」


義弘は、舌打ちを飲み込んだ。


「……俺が呼んだ」


オスカーは小さく頷いた。


「あなたが選びました」


選んだ。

守るために。

インフラを守るために。

だが、その守り方が、誰を折るのか。


義弘は目を閉じる。


「……氷の母は?」


「沈黙しています」


沈黙。

それが一番の答えだ。


午前中、ハーバーライトは急に黙った。


昨日まで“正義”を叫び、OCMを叩き、ゴーストを煽り、視聴率を稼いでいた公式アカウントが、同じタイミングで沈黙する。

配信者も黙る。

炎上を煽っていた切り抜きチャンネルも黙る。


言葉が消えると、都市は逆に騒ぎ出す。


「何があった?」

「消された?」

「誰かが止めた?」

「……誰?」


その疑問が最も怖い形で収束していく。


“触れないほうがいい”。


昼。

ハーバーライトが会見を開く、という短報が流れた。


会見場は小さかった。

派手な照明もない。音楽もない。

あるのは白い壁と、白い机と、白いマイク。


そして、異様に多いカメラ。


広報暫定代理人――名札にはそう書かれている。

強い言葉を扱う仕事に慣れているはずの顔が、今日は薄い。


彼女は紙の原稿を持って立った。

タブレットではない。

紙の端が、微かに震えている。


マイクのランプが点灯する。


「……本日、ハーバーライトは新開市における一切の治安支援活動、ならびに関連するサムライ・ヒーロー運用を――中止します」


ざわめきが起きかけて、起きなかった。

記者たちが息を飲む音だけが残る。


広報は続ける。

声を“広報の声”に戻そうとして、戻りきらない。


「本決定は、外部圧力によるものではありません」

「また、当社の判断に誤りがあったという認識ではありません」


謝罪ではない。

撤退声明だ。


そして、それが一番不気味だった。


記者が問う。


「上層部の方々の体調不良と関係があるのですか?」

「複数名が同時期に重傷・重体と――報道が――」


広報は、笑った。

笑いになっていない笑みだった。


「当社は、個人の健康状態に関してコメントを控えます」


別の記者が畳みかける。


「事故や急病が相次いだ件について、第三者機関の調査は?」

「監視カメラの不具合、医療ログの欠落――偶然にしては……」


広報は一拍置いて、原稿に視線を落とした。

読むためではない。

目を合わせないためだ。


「当社は、必要な手続きをすべて完了しています」


必要な手続き。

その言葉が、別の組織の言葉と重なる。


――必要な措置。

――中立的手段。


広報は最後の段落へ進む。

そこだけ、声がほんの少しだけ強くなった。


「なお、当社は新開市市民の安全とインフラ安定を最優先とする立場に変わりはありません」

「今後は……適切な距離を保ちながら、関係各所の取り組みを注視します」


注視。

つまり、手を出さない。


広報は紙を置いた。

置く音が、やけに大きく響いた。


そして深く頭を下げた。

謝罪の角度だ。

だが、謝罪の言葉はない。


顔を上げたとき、彼女の唇が小さく動いた。

マイクが拾わないほどの声。


「……もう、触れないでください」


会見は終わった。


午後、噂が落ちた。


ニュースではない。

ニュースは慎重だ。

だが、投資家向けの短報は嘘をつけない。


「ハーバーライト上層部、複数名が同時期に入院」

「事故、急病、既往症の急激な悪化」

「重傷・重体」


理由はバラバラ。

だからこそ同じ匂いがした。


交通事故――監視カメラが故障していた。

会食中の急性症状――原因不明。

持病の悪化――医療ログの一部が欠落していた。


“偶然”という言葉が、紙の上で嫌な形に膨らむ。


誰かが言った。


「殺してないのが怖い」


別の誰かが言った。


「殺せるのに殺してない」


そして都市は、ひとつの結論を作り始めた。


――教育だ。


殺すのは簡単だ。

だが殺さずに折る方が、恐ろしい。

示すための制裁。

二度目はない、という警告。


配信コメントにも、その温度が乗った。


『上層部全員ってマジ?』

『事故と病気って…』

『揃いすぎだろ』

『証拠ないのが怖い』

『アライアンスってそんなに…?』

『口に出すな』

『触れないほうがいい』


触れないほうがいい。


義弘は、オスカーの端末に流れた情報を見て、しばらく黙った。


「……ハーバーライト、上層が一斉に倒れた」


オスカーは淡々と言う。


「市場は学びました」

「インフラに触れないことを」


義弘は苦く笑う。


「学び、か」


「教育です」


オスカーはそう言って、サボテンの棘を見た。

棘は、余計なことを言わない。

だからこそ、そこに意味が詰まっている。


義弘は、机を指で叩いた。


「……証拠は?」


オスカーは首を振る。


「ありません」

「残しません」


義弘の胸が冷える。

そして、もっと冷える言葉が続く。


「死者もいません」


義弘は目を閉じた。


「……つまり」


オスカーは、静かに言った。


「警告だけが残ります」


夕方、氷の母から短い通信が入った。


長い説明はない。

謝罪もない。

責任追及もない。


ただ、柔らかな声。


「新開市のインフラは安定しました」


義弘は息を吐く。


「……ああ」


氷の母は続ける。

微笑を含んだ温度ゼロの声。


「あなたの判断は、適切でした」

「ただし――次は」


次は。


その二文字で、義弘の背骨が冷える。


「次は、あなたが“守り方”を選びなさい」


義弘は、喉の奥で言葉を噛んだ。

守る。

守り方。


氷の母は、最後に一言だけ落とした。


「観測は続きます」


通信は切れた。


残ったのは、静けさ。


夜、アリスはまた眠らされた。


薬ではない。

疲労だ。

悔しさで身体が震え、震えが止まるまでに時間がかかった。


彼女はシュヴァロフの影を見た。

母親みたいに、そこにいる。

動けないのに、そこにいる。


アリスは小さく呟いた。


「……ごめん」


誰にか分からない。

自分にかもしれない。

シュヴァロフかもしれない。

義弘かもしれない。


最後に、彼女は思った。


殺されていない。

だから生きている。

だが、生きていることが、檻だ。


そしてこの都市は、檻を“正しさ”と呼ぶ。


その正しさが、いちばん怖い。


――死者無し。

――証拠無し。

――警告あり。

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